珍本・百人一首』 序
或る熟本が手元に在ります。この文が終って最期に写真で紹介するのがその本です。編者出版社・等は、写真を見てご理解いただけると思うので略します。発刊日は、昭和56年10月30日、日付けに先駆けて書店に並べられたと思うので、秋の夜永燈火に於いてじっくり読むことを願って(当て込んで?)創られたと思いますが、内容を見て、この本が商魂を期として世に出た本では無いと言う思いがします。(熟本:古本では可哀相と、berander が興した言葉)
いつ購入したかは忘れましたが5年は経っては居ないと思う。買ってのち、一度も目を通したことが有りませんでした。昨日ふと書いたブログに、「百人一首のパロディー歌を創って書いてみようかと思います」などと言ったので、読み始めたのです。まず、『小倉百人一首とわれわれの文明』と題した序文に書かれたこの本の編者、丸谷才一さんの分析がすごい。其処をかいつまんで書いてみます。驚くべき内容なのです。百人一首に私達がそれまで描いていたイメージが一掃されてしまうはずです。
@『百人一首』に挙げられた和歌100首は平安王朝の御世に編纂された九つの勅撰集の中から、厳選されたものである。
A王朝和歌は平安朝の宮廷文化の急所であった。
Bその平安朝の貴族社会は、恐らく呪術と社交と藝術を兼ねた文化理念によって動いていたと思う。
C然るに、王朝和歌の成り立ちは国王(天皇)が執り行うまつりごとの呪文からといわれた。そして、勅撰和歌集を編纂するに及んで、その事業は天皇の国家を統治するための肝要な仕掛けともなって行った。さらに並行して、その呪文をまねて洗練された和歌を詠うことは貴族にとって、必須の素養となっていき、かつ宮廷内男女の社交をなだらかにする際に交わす会話へと発達した。その中に詠われる和歌の内容は一種の恋の作法、しっかりとお互いの意志を理解しあうサインであり、呪縛効果までも貴人の精神に及ぼして行った。
この王朝和歌は、実はその後の歴史に連綿と続いて行ったのだが、明治維新後の軍部の台頭によって“天皇が恋歌を詠む事”が禁止されて消滅した、と編者は言っています。つまり、天皇は『軍人勅諭』と『教育勅語』等による国家のイデオロギーを賜る存在へと変貌してしまった。
D従ってその宮廷文化の消滅前の日本人は、庶民に至るまでこの厳選された『百人一首』を歌留多に作って、身近な遊びの中でその息吹を感受していた。
E源に戻って、この勅撰集の編者は、藤原定家である。従って彼は日本の王朝文化を永く日本に定着し続けて行った偉大なる文学者である。因みに宝塚歌劇団のスター(踊り子)にこの百人一首の表現を名前に頂いた人が居ると言う。−−−天津乙女・雲野かよ子・霧立のぼる・小夜福子・有馬稲子(先代)など、あるいは一方で戦前の海軍艦船の名・山や川の名・気象現象の名までにもおよび、民間においても、旅館、料亭の部屋や座敷の名前の命名でも現われている。−−(そうだった、あの富士山と言う名前、あるいは戦艦『三笠』など)
と言うところまで述べています。さあ、大変なことになった。百人一首を私はパロると言ってしまっている。ど〜〜〜〜・・・・・・しよう。第一首を詠んでみましょう。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
我衣手は 露にぬれつつ 天智天皇
これって、愕然としません? この和歌もこれからパロディーで置き換えるんですよ。百首全部はとても出来ないと思います。順番に観ていって、一度でも『パス』を入れてしまえば際限がなくなるのが常です。こうします。極力、順番に取り上げる、そのためパロるにあたり、メタメタな駄洒落で仕上げるとか、原型も留めない姿に変える行為も辞さないで進めます。根本は、平安朝王族貴族が現代流に表現したら、「まあ、なんとはしたない事を歌にしたの」見たいな歌に変わります。幸い、ひとつの歌に解釈層が複数あることを説明しているものが多い。かの丸谷才一氏の言わんとすることを汲んだ、『エロチカル・エレガント』が王朝和歌の本質なんだから。『珍本・百人一首』が明日から雅(みやび)に展開しま〜す。
では、百人一首の世界へ
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