珍本・百人一首
『珍本・百人一首』 五拾壱首より六拾首

『珍本・百人一首』 第五拾壱首
   7月23日

 

 かくとだに えやはいぶきの さしも草
       さしもしらじな もゆる思ひを   藤原実方朝臣


 このうたの解説は前の第五十首とおなじ吉井勇さんです。この後彼の解説に沿って書いてみます。

 歌の意味は、自分が或る女性をすごく恋焦がれているにもかかわらず、其れが言えない。だから相手もそんな自分の事など知る由も無いだろう。

 一体誰に向けた歌かと言うと、どうやら当の本人に贈ったようなんです。後拾遺集に載っている際の紹介文(詞書)に、「女に始めて云ひ遣わしける」と書かれているのです。

 私にこの歌の中にあるいくつかの判らない言葉はそのままにしておきます。解説に無いからです。「かくとだに」、「えやは」等ですが「いぶきの」とは、伊吹山に掛けて「言えない」と言う意味を現している。さしも草はもぐさの事。なぜその草の事を歌の中に入れたのかは、説明からは理解する所まで行きませんでした。

 圧巻がこの後にありました。平安の時代に起きた、宮中ご乱心の話が有ります。歌の作者藤原実方朝臣がこれを起こしています。後年の「江戸城・松の廊下」事件が二番煎じになってしまうような事。その模様をかいつまんで書きます。

 或る年の春、殿上人が東山の花見に行った時、宴途中でにわか雨が襲ったので皆が「ワーワー・キャーキャー」と大騒ぎしたときに、かれが悠然と(カッコつけて)一本の桜の木の下で、歌を読んだ。勿論ずぶぬれ状態。

 桜狩 雨は降りきぬ おなじくば 濡るとも花の かげに宿らむ
  濡る:ぬる=ぬれる
 
 大騒ぎの声に負けないくらいの大声で発したのかもしれない。一同びっくり、こんなときにさすがな心持でおじゃるのう。とうわさになって、その後その様子を或る人が帝に話した。その場に居た成行が、フンと思ってこんな言葉を吐いたようです。その成行とは何者か、ちと確認を省略。兎に角も成行なる人物。

 「歌は面白うございますが、実方の振る舞いはちと鳴呼(おこ)がましく思われます」と嘲るように云ったそうです。この話を漏れ聞いた実方自身の怒るまいことか、以後、そのことにずっと怨みを抱いていった。

 あるとき宮中でその成行と何かの事で論争をして日頃の鬱憤が爆発してしまい、手に持っていた笏(しゃく)で成行の冠を打ち落とし庭へ投げつけてしまった。その時成行少しも騒がず、下僕か、庭役の誰かにその冠を取らせ、状況を現状に戻した後、悠然と「どうしたというのだ?」というような態度で実方に向き直った。−−−役者が違っていた。実方は居た堪れず退出してしまった。

 それだけに留まらず、この時の一部始終を帝が半蔀(はじとみ)の陰から見ていた。帝は、打たれた後の成行の振る舞いを褒め、異例の昇進をさせ、一方の実方を遠く陸奥に左遷させてしまった。その地で寂しい後半生を送った実方はそこに没している。後年西行法師が訪れた折寂しい荒野にぽつねんと建つ墓があって、『中将の墓』と云われているという。

 西行は手向けにこう詠んだといわれています。

 朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野の薄 かたみとぞなる


 薄:すすき

    書くたびに 嫌気さしたる 履歴書に
        うそもしらじら 学歴詐称   berander




『珍本・百人一首』 第五拾弐首
   7月28日

 

 明けぬれば くるるものとは しりながら
     猶うらめしき 朝ぼらけかな   藤原道信朝臣


 このうたも、女と一夜の閨を共に過ごした男が朝に別れて道すがらか、あるいは職場にたどり着いてから、推敲を凝らして詠ったのだろうか。

 解説しているのは馬場あきこさん。朝になった。辛い別れだった。時間が経って再び夜になれば逢いに行くこともできるのが判っていても恨めしいなあ、朝は。−−そういう意味だってことは想像できますが、百人一首を観賞する際兎に角ややこしく考えないで、恋愛感情をモロに対象の人、特に男から女に向けた気持を汲み取るという構えで行けば、ストンと意味が見えてくることが多い。

 現代人は、してみると複雑系な感性を諸々の事々に発して生きているようです。時に余計なことを考える。慾・〇〇たがる−−威張りたがる、馬鹿ぶる・隠す・騙す・疑う・・・

 だから人の言っていることにも深読みしすぎたり、自分の言っていることも、時にメチャクチャな論理に成ったりします。

 あ〜ア。

    酒飲めば もつれる足と 知りながら
       なをうらめしき 塀にゴツンコ   berander




『珍本・百人一首』 第五拾参首
   8月1日

 

 歎きつつ 独ぬる夜の あくるまは
     いかに久しき ものとかはしる  左近大将道綱母


 この歌の意味は「ため息をつきながらいつも貴方を待っているのに、来ないからいつも私は独り寝で過ごしていたわ。そんな夜は、明けるまでとっても長いのよ、貴方には解らないんじゃないないかしら」

 それほど難しくも無いし、捻りも無い。ちっとも構ってくれない彼に恨み節を放っているのです、ズバリ目の前の相手にです。どういう経緯になっているかというと、この歌は、『拾遺集』恋四に前置きがあって載っているそうです。

 【入道摂政まかりたりけるに門をおそくあけければ立ちわづらいぬといひ入りて侍りければ】との場で詠った歌であるとの事。

 「遅いじゃないか、門をあけるのが」と久しぶりに訪れるや否や、彼がぶちまけた所へ、この歌を返してやり返したわけです。やはり、女性に反撃をさせるような発言はやめたほうが良いかも。

 この歌の作者は『蜻蛉日記』の作者です。この『拾遺集』以外の他の勅撰和歌集に多くの歌が採択されているようです。

 解説しているのが四賀光子さんです。歌人。出典は昭和42年1月号『文学』です。彼女についての紹介が幾つかのホームページや人物紹介サイトで閲覧できます。宜しければ、人名をキーワードにして見に行って下さい。


    もだえつつ ひとり寝る夜の おあそびは
      いかにむなしき 玩具とは知る    berander




『珍本・百人一首』 第五拾四首
   8月4日

 

 忘れじの ゆくすゑまでは かたければ
     けふをかぎりの 命ともがな  儀同三司母


 萩原朔太郎さんの解説です。これまでの独特難解な解説からは想像すらできない、名調子な解説です。その文体の調べをじかに観賞すべきものと思い解説の全文を引用とします。諸般の批判を承知の上で有りますがも私の意もご理解して頂きたいと思います。兎に角よほどこの歌の印象が強かったと思っています。私も同感で有ります。

 【愛は醒め易く変り易い。今日の情熱は明日の冷灰と成るであらう。如かずむしろ情熱の高潮に身を投じて、愛の燃えあがつた刹那の火焔に死んでしまはう。今こそ君はそれを誓ひ、二人は抱擁して愛し合つて居る。ただ願くは永遠にこの瞬間を生活しよう。今日のこの瞬間を限として、むしろこのまま永遠に死にたいといふ歌である。情熱燃えるが如く、愛に融け合つた感情の高潮を尽して居る。新古今恋歌中の名歌と言ふべきである。「忘れじの行末」は忘れずと誓ふ.言葉の将来の意。作者は高内侍と言ふ女性で、後に儀同三司(藤原伊周)の母と成つた女であるが、この歌は勿論その婚約の日に作つた実情だらう。故にこの名歌一首限りで、他には殆んど見るべき歌を作つて居ない。(萩原朔太郎)】  出典は『恋愛名歌集』(筑摩書房「萩原朔太郎全集・第七巻)

 愛欲と、情熱の燃焼は確かに激しい。奈良時代・平安の昔にこうして生きた多くの男女のありのままの姿を幾世紀も経て、江戸時代以降多くの文学者や知識人が、そして多くの庶民が、その新鮮な和歌と言う短詩の中に脈略と触れてきている事を、当時の人たちは勿論知るよしも無い。それだけに彼らの営みの純粋性を尊ばずには居られません。

    忘れじの 愛しきモノの 硬ければ
       けふも離さじ 命ぬきます   berander




『珍本・百人一首』 第五拾五首
   8月10日

 

 滝のおとは たえて久しく 成りぬれど
    名こそながれて 猶きこえけれ   大納言公任


 五十四句に続けて萩原朔太郎さんの解説だった。やはり元に戻って、歌の意味について何の紹介もなく韻についての良し悪しを言っているのみでした。一句目と二句目でTaの重韻、四句五句でのNaを多用するのを、【人為的トリックが目に付いて不愉快である】 と言い切っています。「解釈の自由をお互い謳歌しようぜ」と自ら宣言して、後続する人のあるなしを全く意識しないで、わが道を進む孤高の文芸評論家なんですか?

 この和歌はどういうことを詠っているのか。私はストレートに解釈してその歌趣を述べたい。すごく冒険をしている、つまりトンチンカンなのかもしれない。

 とある渓谷に足を運んだ際、あるいは築山された景勝地に赴いてそこで滝が水枯れしたまま、長い間打ち捨てられている。あれがかの有名な〇〇の滝だったとは、・・・最早、その滝は名前だけが残るものと成っている。

 『無常観』は当時日本人の意識にはなかったと思いますから、この解釈ではどこかおかしいだろうと思います。

 −−−−提案があるのです。百人一首は、鎌倉時代初期の事業として、いにしえの歌人の詠っていた膨大な和歌の良いものを選りすぐった国家事業として成した集大成であった。二十一世紀の日本国の文化一大事業として国家規模で新たな百人一首選抜をする事は出来ないだろうか。対象は当時とおなじ勅撰八歌集で良いと思います。愛国心を言いたいのなら、こういうことをまず大切に扱ってから施政者が国民に望んでも善いのではないでしょうか。日本人の、心の源流をもう一度見つめると言うことで願望を大としたい。

 この男 たえて久しく カノの無く
     ホモと思われ なおきこえけれ   berander




『珍本・百人一首』 第五拾六首
   8月17日

 

  あらざらむ 此世のほかの おもひ出に
     今一たびの あふ事もなが   和泉式部


 きゃー。もうひとり現れました。韻を歌の中に見つけに行く性癖。寺田 透さん。初めての登場です。出典は『和泉式部論』思潮社『寺田透・評論W』です。今後も出てくるのか気になって先を紐解くと、ない。良かった。どちらかと言えばこのタイプの解説を読むのが苦手なのだ。掲載にも間が空いてしまった。正直気が乗らなかったのです。

 しかしこの歌の内容はとても印象的です。解説者からは、この歌の意味を述べた部分が直接的にはないので、私自身のいくらか的を外しているかもしれない解釈を言ってみます。先ず第一句目で結論を述べているのが、いやが上にもインパクトの強い叫び声として響きます。「もう逢えないの?」

 相手が逃げてしまって、追いすがると言うよりも、やがて死んでいく自分は、この世の最後の思い出として、恋しい人に逢いたい、つまり重い病に罹って居るために療養の床の中からでも叫んでいるのだ。高校生の頃、古文の授業で平安歌人の詠う短歌の授業くらいだったと思いますが、当時の人は、結核に罹る事が多くて、短命だった。と聞いたと思う。社会に出てから、その辺をなぞった勉強や読書をしたと言う記憶が無いから、多分高校生時代の吸収知識だと思う。作者和泉式部の亡くなった年や死因は知らないけど、五十六首の歌をそんな印象で読んでみたのです。

 この歌は声を出して吟じてみると、確かに心の中に情感が立ち上るような気持に成ると思います。それが韻が構成する効果であると、人に依ってはそこを強調したくなるようです。韻は主に調子と母音の配置・・・繰り返しとか切り替えとかによって効果が出る。a音 i音 u音 e音 o音が一定に配置された短詩は心地よいのです。

 信州信濃の 新蕎麦よりも
   私ゃあんたの 傍がいい

 月々に 月観る月は 多けれど
      月見る月は この月の月

 チョットあざとい例といわれるかもしれない。月の歌は高校時代に本屋さんのアルバイトをしていた時、閑散時にカウンターでその本屋さんの奥さんに教えてもらいました。一回聞いて憶えてしまう、げに恐ろしきは“韻律”であります。さて、百人一首・第五十六首に戻ります。この歌は作者も子供の時から脳裡に生き、・・・全体が「あくがれ」の闇にきこえるような効果を上げるのを、舌端に転ばせて味ふのは、楽しいことだった。とのべています。

 あくがれ=憧るの連用形(?)で古語辞典に拠ると@上の空になる。A思い焦がれる。心が引かれて落ち着かない。Bさ迷い歩く。

 和泉式部女史は兎角才女と言うイメージを私は抱えていますが、当たっていないかもしれない。可也恋多き女であったと、解説している文中にあります。他にチョット調べてみると『和泉式部日記』に或る男性との恋愛生活を著しているようです。今時の若き恋好きな女性とおんなじか、異質か、果てはバイブルと成るのか、どんなことが書き残されているのだろう。

 朝の床 これから帰宅 する前に
     今ひとたびと 抱く若肌  berander


  抱く : いだく

 「〇月〇日。お天気不明。 もう私、パパとのこんな生活から卒業しなければいけない。でも困るのはこれからの生活。どうすればいいのだろう。」



『珍本・百人一首』 第五拾七首
   8月21日

  めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに
     雲かくれにし 夜半の月かな  紫式部

 ご存知『源氏物語』の大作を書上げている紫式部が、小説にもおとらない状況描写をこの歌の三十一文字の中に表わして居ます。新古今集雑(ぞう)の部にこの歌がまず載せられた際次のような紹介があります。

 【はやくよりわらはともだちに侍りける人の、年ごろへたゆきあたる、ほのかにて七月十日のころ、月にきほひてかえり侍りければ】

 そして、この詞書が歌の内容をほぼ説明しているようです。そしてそれを継いで解説しているのは、安東次男さんです。とてもよい解説ですから、私は何度も読み返し、次は自分流に説明することにします。と言っても、解説者が書いている内容を旨く要約して書くということです。

 額面どおりに解釈すると、暗い道か、庭のどこかで久しぶりに巡り合った折り、立ち話程度に短い時間だったために、やっと相手の顔に昔の面影を見掛けられたと思った頃にはもう、相手は会釈もそこそこには離れて行った。その幼友達の後姿を夜半の月が照らしている。

 鑑賞者にもとても余韻の残る歌です。ところがこの歌にはもう一つの情景が考えられる。ヒントは詞書の中にある“七月十日のころ”です。ここから時間を推測すると十日頃の月は宵の月で、午後11時頃は西の空に沈んでしまいます。だから。

 久しぶりに逢った幼馴染とついおしゃべりが弾んでしまい気がつくと「あら、いけない。もうお月様もお休みになる時間。じゃ、又来るわね」とあッと言う間に帰って行ってしまった。何か急に味気ないなあ。

 そんな解釈に取る事ができるというのも、歌の第五句めは元々「夜半の月影」となっていて、後に誤写されて残って行った可能性があるから。『かな』は詠嘆の意味を出している。

 『月かな』を詩人的表現、『月影』を小説家の表現とみて、やはり紫式部その人は小説家的描写をこの歌に表わしていると観賞たほうが、味わいがあると思うのです。頃は七夕を過ぎて、仲秋の名月までまだ間がある頃の、西の夜空に落ちかかっていく上弦の月を眺めている情景、先ほどまでの賑やかな語らいが耳に残っているからなおさら私は味気ない気持になっている。旧暦七月十日頃とは今の9月初めの頃です。元々七夕は空も冴え渡る夏の終わりの頃のものだったのです。

 この相手は、同性であったほうが佳い。恋の歌ではないと端(はな)で説明されています。『新古今集』雑の部に収録されている。解説の出典は安東次男『百首通見』(集英社)

 めくりあげて 見えずそれなら 近寄りて
     布に隠れし 肌を嗅ぐなり  berander




『珍本・百人一首』 第五拾八首
   8月25日

  有馬山 ゐなのささ原 風ふけば
     いでそよ人を わすれやはする  大弐三位

 この歌の作者は、前五十七首目の作者紫式部の娘さんです。例えは悪いのですが、NHK日曜昼にTV放映する『のど自慢』で親子連続で鐘連打を勝ち取ったみたいです。

 歌の解説に行きますと、この歌をの解説は目鬼 恭三郎さんです。歌の意味は、

 【有馬山から猪名の笹原に風が吹いてそよそよ鳴れば、どうしてあなたを忘れようか】

 第一句と二句は、万葉歌の時代から用いられる歌枕である。有馬山と猪名の原が、歌の中で続けて使われても、離れて使われても歌枕、つまりその固有名詞そのものを表わすのではなくそのような場所に立って目の前の景色を眺めて、或る風情とか心情をきちんと言い表すことに必要な修飾語と成るのでしょう。その光景とは、寂寞(せきばく)とした人気の無い野の景色か。

 更に風が吹いているのだから、この歌は旅愁を感じて作者が愛する人の事を想い忍んでいる様子が見えてくるのです。

 私は、この歌の中に配置されている言葉の調べがとても素晴らしく感じます。口ずさむとその感が強くなります。

 第弐三位とは、役職位の事だと思われます。作者の名は賢子(たかこ)です。後冷泉天皇の乳母であったようです。

 あれやまあ 皆のささやき 風に乗り
     いまやその人 宇宙人かや  berander




『珍本・百人一首』 第五拾九首
   9月6日

 

  やすらはで ねなましものを さ夜ふけて
     かたぶくまでの 月をみしかな  赤染衛門


 なんだ、結局ドタキャンだったの? 来ないと判っていたらさっさと寝てしまったのに、もう月も西の空に傾いていて、夜も更けてしまった

 そんな、ワリを食った女性の恨み節みたいな感じの歌です。そろそろ私も百人一首の解釈にスラスラと入っている境地になっていなければいけないと思うのですが、解説につい頼ってしまうことが続いている。感じはつかめるのですが,ねえ。きちんと解説して表わすためには、自分のイメージングの赴くままで良いのか? と言う信憑性の問題にどうしてもぶつかってしまうのです。

 最後の百首目の歌が終るまで、そんな煩悶で続けていくことに成るのは仕方ないとしよう。

 さて、この歌を成り立ちにあるエピソードや、作者の周辺をも詳しく述べている人は、白洲正子さんです。その解説にある幾つかの逸話をとりあげてみます。

 まず、出生のエピソードですがお母さんは、お腹に彼女を孕んだ状態で赤染時用(あかぞめときもち)の許へ嫁いだようです。てておやはだれじゃ? 一説に平兼盛だといわれているようで何かと複雑な運命の許に成長したようです。当時の政権担当一族は藤原氏と言うことで、関白道長の夫人、倫子に仕えています。

 やがて大江匡衡(おおえのまさひら)と結婚するが、兎に角貞淑で慎み深い女性で、公務員の妻としてよく夫を助けているようです。なんと『栄華物語』の著者でもある。ドキュメンタリー女流作家で歴史学者ともいえる存在。

 だからそのようなインテリで、かつ慎ましい歌もたしなむ人の歌なんです。

 安らかに 寝ているあなた さ夜ふけて
    かま立ち昇る 魔羅を見しかな berander




『珍本・百人一首』 第六拾首
   9月22日

 

  大江山 いく野の道の 遠ければ
     まだふみもみず 天の橋立   小式部内侍


 この歌はとても響きがよくて旅愁を感じていいなあ、と言う印象を持ったままで今日まで来てしまいました。意味を全く誤解していました。土地の名が幾つも出てくる上に、「まだふみもみず」とあるから、作者と鑑賞者が全く同じ立場になって、「いい所なんだろうなァ、行ってみたいなあ」と思ってしまったのです。こんな思い方をした人なんてありえないとしたら、私は天涯孤独です。絶対に同輩・同類は居ると思う。

 曲解していた部分の重要なファクターが、「ふみ」を“踏んで居ない”と解釈したことに有る事が判りました。正しくは“文を見ていない”です。地名を並べてこの歌を創った人は絶対に人を引っ掛けています。直接或る人の問いかけに返した歌だというからには、なおさらその意識あってのことに違いない。歌の意味を書く前に、この歌の載った『俊秘抄』にその状況が説明されています。古文の原文というよりは、解説者が意訳して書いたようにも思います。私は何遍も読み返して、この歌の成り立った状況と合わせて、大体の意味を理解する事に心がけました。
  和泉式部と小式部内侍の間柄は母と娘です。

 【是は小式部の内侍と云へる人の歌也。事のおこりは、小式部保昌(やすまさ)の内侍は、和泉式部がむすめなり。其の和泉式部が保昌がめにて、丹後の国にくだりたりける程、京に歌あはせの有りけるに、小式部の内侍歌よみにとられて詠みける程に、四条中納言定頼と云へるは四条大納言きんたうの子なり。その人たはぶれて、小式部の内侍のありけるに、丹後へつかはしゝ人はまゐりたりや、いかに心もとなくおぽすらんとねたがらせんとて、申てたちければ、内侍みすよりながらすきいでゝ、わづかになほしはた袖をひかへて、この歌を詠みかけゝれば、中納言、こはいかに、かゝるやうやはある、とてついゐて、此うたかへしせんとて、しぱし思ひけれどえ思ひ得ざりければ、ひきはづしてにげにけり。云々】

 四条中納言定頼と言う人が小式部内侍に逢いに行って、「あの件はどうなったのか?」 と尋ねた事に対してその返事として詠ったもので有ります。此処までは想像して良い。「たぶれて」と在るがたわむれてという意味で、おふざけな口の訊きかたです。返された歌の意味を暫らく考えて、理解出来ずに奴さんは「にげりけり」と有るから、「失ッ礼しました」といって、退散したらしい。

 では、若干解説者の思い込みが有るようにも見えますが歌の意味を書いて行きます。

 「母に使いを出して、貴方に頼まれた代作をお願いして有ります。でも先方は、大江山、その奥の幾野に居る人ですから、まだ返事なんか来ていません」

 中納言の頼みは、「貴方のお母さんに、今度の歌会に俺の歌を作ってくれる様に頼んでくれないだろうか。貴方はその時の歌よみの役になっているんでしょ」という虫のいいものです。

 でも母親が大江山の奥に居るというのは、おおよその位置ということ、その上で天橋立が出てきたからと言っても、これは所在場所とは無関係で、「ふむ」の枕詞になります。これが後ろに来るのを「倒置の枕詞」というようです。やはり「ふみもみず」は、文と踏みを掛け合わせていたんだ。テクニックなんですね。平安の才女に伍する男も大変だったのだ。イケメン路線だけでは相手にされなかった?

 解説は正宗敦夫さんです。正宗白鳥の実弟で国文学者で歌人、故人。郷里で家業を営んで居る間に井上通泰に師事し和歌を学んで居ます。出典は『金葉和歌集講義』自治日報社刊。

 おうい山 まだ道のりは 遠いかい
    もう進めない 諦めますよ berander




 第61首〜70首