珍本・百人一首

『珍本・百人一首』 六拾壱首より七拾首

『珍本・百人一首』 第六拾壱首
   9月25日

  いにしへの 奈良のみやこの 八重ざくら
     けふ九重に 匂ひぬるかな  伊勢大輔

 宮中に奈良の僧都が八重櫻を献上しに訪れた際、作者が即興で作った歌です。もう少し具体的に人を登場させて場面を再現してみます。

 一条天皇の御時(986〜1011)、上東門院が宮中に居た際、献上された櫻を受け取る役目として、伊勢大輔が先輩の紫式部に譲られて、その役目を仰せつかった。先輩が後輩をこの際は立てた。「何事も経験よ」

 そこに居た藤原道長に「歌を一首、詠んでおじゃれ」とか言われて、「あい、出来ましてございます」 「おう、速い。してどんな歌でおじゃるか?」

 上東門院がこの道長の娘で、藤原彰子(しょうし)です。一条天皇のお側に仕えて、ソッコーでお手つきとなった様子で翌年に中宮となります。正確に言うと、帝の崩御の際に尼となって上東門院に成る。

 その彰子のもとには紫式部・赤染衛門・伊勢大輔・和泉式部らも仕えています。彰子は後に天皇となる皇子を二人も出産しています。藤原家の栄華が、遷都以来200年ほど経ているその時点でも、ゆるぎなく続いていたことが忍ばれます。

 歌の意味については、もう分析不要ですが、この歌の解説をした安田章生さんは、韻について説明しています。『〜の 〜の 〜の・・・』と、“の”を続けていることで調べをなだらかに出している、と同時に全体を明るくしている。とおっしゃる。それから母音の配置にも見るべきテクニックがあると言っていますが、その辺に成ると私にはよく解りません。

 でもいかにも春ののどかさと、いにしえの雅さが出ていて、いい歌だと思います。パロディー歌はそれに比べて、何とおぞましいことよ。『匂ひぬるかな』を生かすとどうしてもこの様になります。

    胃にしみる なまのニンニク やたら食い
       今朝の我身は 匂ひぬるかな   berander



『珍本・百人一首』 第六拾弐首
   10月6日

 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも
     世にあふさかの せきはゆるさじ  清少納言

 この歌を解説しているのは井上宗雄さんです。出典は井上宗雄著『小倉百人一首』旺文社刊です。才女ならではの意味が込められているとの事。そこでまずこの和歌の意味を先に理解する事にして、氏の解説を引用します。いくらか段落等を加えて読みやすくしております。


【語句の解釈】
▽夜をこめて : 夜が、まだ深いうちに。
▽鳥の空音ははかるとも : 「鳥の空音」は鶏の鳴きまね。
▽「はかる」 : だます。
▽「とも」は接続助詞。逆接仮定条件を示す。中国の戦国時代、斉の孟嘗君(もうじょうくん)は秦に使いし殺されそうになって深夜に函谷関(河北省西北部の関所)まで桃げてきたが、この関は鶏が鳴かないうちはあけない捉があった。孟嘗君は一芸に秀でた食客(しょっかく)を数多く養っていたが、そのうちの一人に鶏の鳴きまねのうまい者がおり、まねて関を開かせて逃げることができた、という故事を踏まえる。
▽よに : 決して。副詞。
▽逢坂の関 : 男女の契りを意味する「逢ふ」との掛詞。】

 ここで驚くのが、平安時代の宮廷の女官は漢学もたしなんでいることです。この歌はある男から受け取った歌の返歌です。男が歌を投げるにいたる経緯と当の歌を紹介して、状況説明に入ってみます。清少納言の人となりが今に至って判りかけてくると思うのです。あくまで本書を私が読み砕いたものとして試してみるものです。

 −−−
 書家として有名な藤原行成がある晩、清少納言と話し込んでいたらすっかり世も更けてしまいました。どうも色恋とは関係が無い内容だったろうと思います。
「さて、そろそろ宮中に伺ってお役目を果たさないといけないな」といって帰っていった。翌朝になって行成から言い訳気味の歌が届いた。「昨夜は鳥の声にそそのかされてね・・・」と言う内容だった。「まあ、あの函谷関の故事の事ね、それって、私のところから逃れる計略だったんでしょ」とやり返した。改めて行成は返事して「関は関でも違うんですよ。貴女と逢う『逢坂の関』のほうです」−−そこまで経緯があってこの百人一首六十二種目の歌が詠まれたわけだそうです。「冗談じゃないわよ」と言うわけです。

 やはり、才の長けた女性には男を失望させる展開をする事があるのだと思いました。男としてのサービス精神、男女の会話に華を籠めようという気持に対して、「そんな言い方やめてよ」みたいなセクハラ受けている如き反応で男を萎(い)ならせてしまうことが良くあります。

 「キャー、(ウソでもいいから)そう言ってくれるのってうれぴー」って絶対言えない。おんなじですなあ、今も昔も。文を届ける使者も忙しいことです。今なら簡単、携帯メールがあります。

    手を添えて 尻のそら音は 握るとも
         手に温液の 下痢はゆるさじ   berander

 清少納言さんの顔にドロを塗ってしまったらしい。

 追申:自著『枕草子』の中で彼女は、自身が美形でない事を半ば告白しているらしい。そのため、後世の肖像画には、半面の姿や後ろ向きのものが多いそうです。これって画家の思いやりなんだけどなあ。



『珍本・百人一首』 第六拾参首
   10月18日

 

 いまはただ 思ひたえなむとばかりを
     人づてならで いふよしもがな   左京大夫道雅


 この歌は『後拾遺集』・恋の三に載せられていて、詞書に次のように書かれています。詞書を読みきって後に歌のほうにすすんで見たいと思います。

 【伊勢の斎宮わたりよりのぼり侍りける人に忍びて通ひける事をおほやけもきこ召して守目(もりめ)など付けさせたまひて、忍びにも通はずなりければ、詠み侍りける】

 作者左京大夫道雅がこの歌を詠むに至った動機を説明しています。なにやら密会をしていることが公になって配偶者か親にもそのことが伝わってしまったらしい。監視を付けられてしまい、もう逢いに行くことも出来なくなってしまったので・・・

 女の人は最早『籠の鳥』状態となっています。そこでひとつだけ私に解決できないものがあります。二句と三句のきれめが判らない。思ひたえなむとばかりを

 「最後に逢ってお別れを言いたい、只それだけが想いにあります」と歌に詠んだのですが、この歌がやがて歌集に載って、相手の伊勢の斎宮わたりよりのぼりはべる人の目に触れるのはその後どれほど歳月が流れることになるのでしょうか。女々しい男だナと言うことも出来ますが現代社会にもよくありえる話です。相手の女性は、とっくにケータイ取り替えて、ガードを固めて新しい男を見っけて人生を楽しんでいる。そして男は転落する・・・

 相手の女性はダレでしょう、はっきりしているようです。常子内親王というそうです。父上は三条院−−帝ですよ。第六十七代天皇です。ははー、畏れ多くも皇女への蜜通。解説は吉井勇さん、出典は『百人一首夜話』交蘭社刊。

    今はただで やれる人妻とばかりを
        一夜泊めてが やがて居座る   berander



『珍本・百人一首』 第六拾四首
   10月19日

 

 朝朗 うぢの川霧 たえだえに
    あらわれわたる せぜの網代木  権中納言定頼


 

 朝朗 : あさぼらけ 網代木 : あじろぎ。簗(やな)のこと。

 この句を解説しているのは久保田正文氏です。どんな事が専門の先生かとチョット気にさせる論評が解説文の中にあった。宗教家であると同時に文学評論と石川啄木、正岡子規評論等の著作も多数あるようです。その中でこの歌の解説は『百人一首の世界』文藝春秋社刊に拠るものです。

 気になる論評とはどんなことか。この歌の作者を通して、人間が自然に何故心を動かすのかと言う事に触れて、この歌を暗に高評価していることが解ってくるのです。引用してみます。

 【自然は人間がそこから産まれてきた母胎であると同時に、人間はつねに母なる自然(原始)に叛逆しながら文化をうちたててゆこうとするものである。人間は、自然に根源的に拘束されているからこそ、それに反抗しようとするのである。人工的・技巧的な美をつくりあげることが、その時代の主導的な意志になっているときに、同時に自然の美しさへの自覚と認識が深められるということは、矛盾ではなく、しんじつに人間的・現実的なことと言えよう】

 この文章に見られる心は、信仰に近いのか、藝術に近いのか、理解することに迷います。文学には芸術性も、信仰心も現わすことが出来ると思いますから、そのことからこの歌を鑑賞してみれば味わい深いものが感じられると思います。あたりを包んでいた霧の中から、やがて宇治川の川面が次第にはっきりと見え出してくるに従い、せせらぎの音も、それまで籠るようだったのが、さらさらとキラキラと躍動するような音に変わっていきます。そんな情景が見えてきます。

    朝ボケの うちのかみさん 大あわて
       ヤバイ亭主が とて追い出され   berander

  霧の濃い早朝の自宅玄関前にて詠める。「へぇっくしょん!」



『珍本・百人一首』 第六拾五首
   11月3日

 

 うらみわび ほさぬ袖だに あるものを
     恋にくちなむ なこそおしけれ   相摸


 

 詠み人相摸は、正式には相摸守大江公資の妻のこと、そして後に別れて中納言定頼とか、他にも幾人かの男と恋愛を重ねる才女であったそうです。

 この歌の解釈そして、出典についての逸話などに話を進めてみたい。解説は安東次男氏、『百首通見』(集英社刊)です。先ずこの歌の意味は、さほどに難解とは思えない。「振られちまったのさ」という投げやりの失恋などというものではなく、「袖に当てた涙の幾たびか、乾く事も無く朽ちてしまいそうだ」というほど泣きに泣いた悲しみは、相手の男への恨み節へと進み、そのうえ人の噂にも登ってしまったから、どうしようもない。

 でもなぜか、きちんと歌に整えている強靭な神経がそこにはあります。後拾遺集の恋の部に載せられた歌で、その解説(詞書)に永承六年(1051年)の内裏歌会で、その時番(つが)えられた歌に勝ちを取った歌だと説明されています。いわゆる対戦ゲーム。

 負けたほうの経俊の歌は次の歌です。

 下燃ゆる なげきをだにも しらせばや
     焚く火の神の しるしばかりに


 こちらの歌の解説は出来ません。当時の歌会は、対戦者同士に何か命題を与えたとか、詠う歌のテーマを合わせるとか決め事があったのかどうか、私には判りません。対比して評価をするときの基準もわからない。でも勝った歌も、敗れた歌も歴史に残っている、それはすごい事です。覇権を賭けた政権闘争であるいくさと同じほど、大切にされた平安朝の和歌の扱いざまが良く判ります。記録係がすごかったのです。

 パロディーで詠う歌にある家庭内いくさも、すざまじいものが有るようです。

  裏返す 乾した下着に あるものは
      白き和毛の 義父に穿かれる berander

  和毛:にこげ。陰毛の事。



『珍本・百人一首』 第六拾六首
   11月5日

 

 もろともに あわれとおもへ 山桜
     花より外に しる人もなし   大僧正行尊


 

 詠み人大僧正行尊は、どこか修行道の途中人里はなれた山中で、山桜の咲いているのを認めてこの歌を詠んだのか。

 咲いている桜は、今を盛りに咲き誇っているのか?誰に見られることもなく春の日差しの中に寂しく孤独にぽつんと、置かれているのか?そして、ハラハラと、風に散りつつある終焉の桜か?この歌を読んで、そんな想いに招かれるのです。

 最初の一句目から三句目までで、詠み人はその山桜に問いかけているようだ。その後、四句五句では自分の心の中に意識を戻して、自分のその場の孤独感に立ち入って感傷に浸っているかのよう。一体この歌の出典はなんだろう。巻末の紹介を読むと、こうある。

  正宗敦夫『金葉和歌集講義』 自由新報社刊

 『金葉和歌集』を別途、歴史年表資料で調べると1127年編纂とあります。いわゆる八大和歌集以外にも盛んに歌集が作られた頃の一歌集です。時は、平安朝末期。それは、そろそろ無常観の精神が人の心に芽生えた頃と言えるかもしれない。鴨長明が世のうつろいを書き著し、西行法師が、諸国に旅して、己の心を深く探求して行った時代におよそ半世紀先だっている。

 この歌には、命短き桜の花と人生のはかなさを重ねる中世日本人の哲学が有るように思う。そのきっかけとなったものが、人びとの目に映った京の都を襲う荒廃であり、やがて人心に厭世観が台頭し、刹那的無軌道な生き方が跋扈して行ったかもしれません。当時の日本で最大のインテリ層は、僧侶であったから、彼らの精神に及ぼした当時の社会は、こうした歌の中から解釈できると考えられます。

 ・・・
 ・1099年 近江大地震 ・1106年 京都大火、疫病流行 ・1107年 京都大火 ・1119年 京都に強盗横行 
 ・・・

  もろともに あわれとおもへ 腐れ縁
     愚痴よりほかに 出すものもなし berander



『珍本・百人一首』 第六拾七首   11月11日

 

 春の夜の ゆめばかりなる 手枕に
     かひなくたたむ 名こそをしけれ 周防内侍


  歌人の名前が役職名であったり、任地の場所を表わしている事がこれまでにもありました。第五十八首目の大弐三位とか、中納言〇〇とかは役職地位、六十五首目の相模とは相摸守大江公資の妻のこと。

 この人は仲子と言い周防守平継仲(すほうのかみたいらのつぐなか)の娘です。周防とは、山口県の東南半ですが、その地を守る平家一門の武士の娘と言う事になるのでしょう。この女性は、後冷泉院(第70代天皇)に仕えて内侍の役を勤めたそうです。「背中がかゆい。掻いてたもれ」などと御簾(みす)の中に呼ばれたりなんかもしたのだろうか。これでは下衆(げす)の勘ぐりになってしまう。

 歌の生まれた背景の説明があります。『千載集』雑の上に載っていて、こんなふう。尚この歌の解説は吉井勇『百人一首夜話』(交蘭社)

 【如月ばかり月の明き夜、二条院にて人々あまた居あはして物語などし侍りけるに、周防内侍寄り臥して、枕をがなと忍びやかに云ふを聞きて、大納言忠家これを枕にとて、腕を御簾の下より差し入れて侍りけれぱ詠める】

 御簾の内と外の人物の配置とか位(くらい)について推理しましょう、ミス・マープルみたいに。周防内侍は書かれた文から察するに、御簾の中であるとなります。やっぱ身分としては、居並ぶ人の中、特に大納言でさえ外から御簾の中に「腕枕にお使いにおじゃれ」などと差し入れているくらいだから凄く高位にあると思うのだが、やはり帝のおんなになっているという事が考えられます。そこへ顔を出した名探偵ポアロ氏は、じゃあどう思うかな? 膝枕なんか知らんだろうけど、知っていたらどうなっちゃうでしょうか。

 でも、すごい所だねここは。と言うよりも大らかな社交の場になっている。歌の意味は、「あら、いけませんわ、貴方の手枕添い寝に誘われてしまっては、あらぬ噂が立ってしまうかもしれないのって、困りますもの」

 これを和歌にして返した。そしてその一エピソードが後世に遺って行く。恋が当時の文化として囃された王朝の絵巻−−−これにはアガサ・クリスティーもおっどろいて、ミルクティーを床にこぼしたようです。「あっティー」−−足の甲をヤケドしたらしい。

  春の夜の 無駄ばかりなる タイプミス
      打っては破る 紙の惜しけれ  berander


  「チョット待ってください。別に春の夜でなくても良いのではないかと、まあ、思われるんですがね」と金田一君からのクレームあり。



『珍本・百人一首』 第六拾八首   11月18日

 

 心にも あらでうき世に ながらへば
     こひしかるべき 夜半の月かな  三条院



  まず、歌を書き出してみた後で、幾度か読みながらその意味や情景などを考えて行ってみると、そろそろ言葉の使い方や意味が、今と違っていることに気がついて、改めて、その部分に注意を深くして解釈して行きます。

 この歌において、「こひしかるべき」とはどういう意味を持っているか−−−ここを正確に捉えないと観賞するのに見当違いを起こす事になります。

 現代の歌人、国文学者は培った多くの知識の中に、歴史的事実なども多く蓄えているから、随分と味の或る解釈を見せ、時に持論を披露してくれるから、私もこれまでも多くの歌に触れてきながら、平安朝の高貴な人たちの考え方、生き方の一片をいくらかなりとも理解できていったと思う。

 この歌の解釈はやはり「こひしかるべき」に引っ掛けられて、誤訳してしまいました。このうき世のつまらなさを嘆いて、美しい月を眺める事の出来る頃を焦がれ待っている、と言う解釈を私はしました。これがちがっていたわけです。

 今の私は、浮世の辛さに潰されている。このまま、長く生きて行って、今見ている月をこよなく、思いのたけ(いつまでも、現実を忘れて)観賞していたい、と言う意味です。

 少し自信の持てない推理なんですが、当時の人は、とかく目の前のもの、事象、相手などに対してストレートに気持を向けることが多い。そのことは逆に言うと、イメージングという精神作用があまりできていないと言う事になります。愛でたり、期待したり、欲しかったりする気持は、パブロフの犬状態刹那的に即座に現れる。自分は、当時の人にそんな解釈をしました。但し、泣くという行為にいたる場合には、追憶とか、昔の思い出が出てきた事が今までにあったように記憶しています。ただし、嫉妬心が心を占めるほどの妄想力があったかどうかは、良く探求する必要はあると思いました。

 ここまで書いてこの歌の解説を読みますと、作者三条院の心の中が良く見えてきて、一層の趣きをこの歌に感じる事が出来ました。安田章生氏の解説解釈を自分なりに練りまとめて書いてみます。出典は雑誌「国文学」昭和42年1月号となります。

 三条院とは、第67代天皇です。この天皇を苦しめた人が居ました。藤原道長です。その事が史実として二つの逸話として残されていて、一つにこの歌が載せられた『後拾遺集』巻十五の詞書に次のように書かれている

 【例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしけるところ、月のあかかりけるをご覧じて】とあり、『栄華物語』「たまのむらぎく」の巻では、ダイレクトな描写で道長の圧迫に悩んでおられた院が十二月十余日の月の明るい夜に上の御局で中宮の妍子(けんこ?)に申された。とあります。史実としてはその翌年早々に帝は後一条天皇に皇位を譲位し、更に次の年五月に崩御されています。

 いつの頃までかは知りませんが天皇の在位期間は、生涯在位ではなく、何かの折に位を次に譲り自分が上皇となったり、出家したりしていた事があります。その際に生臭い権力の葛藤などがあるのが普通で、歴史上でも二人同時に天皇を名乗っていたり、天皇制が大いに揺らいでいた時代もありました。その一因として藤原家の権勢が大いにかかわっていた事があるようです。

 藤原家は、平安期の長い期間、子女を多く天皇家に嫁がせています。その白眉がこの藤原道長だった。何かの折に朧な記憶ですが自分の娘を三人も天皇家に嫁がせていたことを読みました。つまり天皇の中には、自分の母方のおじいさんとか叔父さんとかが、藤原誰それと言う事が頻繁に有ったわけです。この三条院もきっと、頭の上らない存在として、道長が居たということかもしれません。

 「ぼん、もう天皇を辞めなさい」みたいな事を言われていた事だって起こり得ていたわけです。天皇家が様々に、周囲からの圧力を受け、政治的に利用されていた時代は、或る意味、現代社会にも起こっていたのを、私たちは思い馳せなければいけないのだとおもいます。

 第六十八首のこの歌も、三条院が心を痛め、哀しい気持になっている折に眺めた月に詠ったものであることを察して観賞してみると、ジンと来ます。

  心にも あらでうき世を はかなんで
     哀し十代  絶つ命かな  berander





『珍本・百人一首』 第六拾九首   11月26日

 

 あらし吹く 三室の山の もみぢ葉は
     龍田のかはの にしきなりけり   能因法師


      

 この歌の解説は大岡 信さんです。出典は『百人一首』 世界文化社「日本の古典」別巻。

 そしてこの歌は、『後拾遺集』第五秋の下に「永承四年内裏歌合せによめる」と紹介されています。永承四年とは西暦1049年、後拾遺和歌集が世に出たのは、1086年。他の歌集を含めて、或る歌集の編纂企画が立案された時、担当した役人(貴族)が宮廷内の文所等に所蔵されている過去ログなどの記録簿があって、それを漁って読んでいきながら抜き書きなどして出来上がったと想定されます。そんな作業も仕事だったり、時には独りで発奮して、「一丁、目だったことをやってやろう」とヤル気貴族が居たかもしれません。この歌集を編纂した藤原通俊という人は、そんな気鋭のプロデューサーだったのだろうか。

 平安朝こそ、日本の文化の多くのものが高級官僚を軸にした当時のインテリの心がけで花開いた時代、と思い馳せる事ができるようです。中世欧羅巴の伊太利亜・フィレンツェを藝術の街に創り上げたメディティ家に先立って、藤原一族はある意味で日本の芸術界の華麗にして偉大なるパトロンの役割を担っていたと想うのです。

 歌合せ会の場は、東(ひがし)方と西方、或いは赤コーナ、能因法師い〜 青コナー、誰それえ〜、と紹介され与えられたお題をその場で創ったり、宿題として出されたのであれば、数日間推敲の末に創って持ちより、順番に一対一で合戦する、宮廷の優雅なお遊びです。

 宿題句、宿題歌って、お題が宿すこと−−つまり日を経る事であるから(その場ではなく)予め出される題ということから起因して、学校で先生が「明日までにやってきなさい」と生徒・学童に出すノルマになったに違いない、と妙な納得を今したところです。

 上流社会の人が織りなす恋の出会いの場、出世の場、自己主張の場として、参加した人たちはこの催事に胸躍らせ、精進し、或いは、ローカルに任地を与えられている公務員なども馳せ参じ、この皇室主宰(?)の歌合せ会に赴いて“賢を競った”のではないでしょうか。

 タイマン勝負で勝った人に、品として何かが賜わされたと思うのです。常勝の人など、館(やかた)の一部屋に、トロフィー、盾の類が所狭しと飾られていたり、なんてことは無かっただろうか。壺なんかであったら、その家の子供などは、出入り禁止の禁断の部屋みたいな設定。 

 憶測の類はやめてこの歌の評価を解説者がしている事に耳を傾けてみます。三室の山の紅葉がハラハラと風に散って龍田川に流れることはありえません。従ってウソっぱちな情景を歌ったことになります。と言っています。ではなぜ堂々と歌合せの席でこの歌を作者は披露したのだろうか?

 歌の勝負に勝ったのか、負けたのか。−−−その結果は紹介されていませんが、審判した人も、その場に居合わせた人も多分この偽風景の事は百も承知だったのではないでしょうか。何せ、あっちで花見、こっちで行幸のお供で畿内近在の地形なんて殆ど諳んじている遊び人が多かったと思うからです。でも歌の華美を競い、韻や誇張の確かさなども歌の評価には欠かせない要素であったと思うから、必ずしも正確描写でなくとも当たり前に許されていたのでしょう。

 解説者は、この歌の作者能因法師は、このような絵空事で歌を創る事があって、なかなかの曲者であったと説明しています。次の歌

   都をば かすみとともに 立ちしかど
      秋かぜぞふく 白河の関  能因法師

 というのがあります。白河の関は東北地方にある。だから「おれ、奥州に行ってきたんだ。こんな歌をアッチで創って来た」 と披露したのですが、何のことは無い。都に居てある時この歌が出来て、気に入ってしまった。そこですぐさま幾日も外出せず自分の家(寺?)の中に居て人に見られない裏庭などで、日に当たって顔などを日焼けさせる小ざかしいことまでした上で、それとらしく信じ込せています。敬称から見るに、この人は僧侶であると思いますがヒドイ心がけの人です。或いは、一つの歌そのものがそれだけ、重い価値があったことも解るのです。「御裏混ヒットチャート今週の第一位ランキングの歌」・・・
 
  アラヂンが アキバでメイド 見初めれば
      ご主人様の 多きおどろく   berander





『珍本・百人一首』 第七十首   12月3日

 

 さびしさに やどをたちいでて ながむれば
      いづくもおなじ 秋のゆふぐれ   良暹法師 


 詠んだ人の名を、「りょうぜんほうし」と読みます。後拾遺集・巻四・秋上(三三三)に、「題しらず 良暹法師」として載っています。前の六十九首と同じ歌集に在ります。時代は十一世紀半ばです。この頃から仏教の本山の一つ比叡山は、俗化していて、真面目に修行しようとする僧は、叡山に籠る事をしないで、ふもとの大原の里などに庵を構えて仏門修行に励んでいったとの事。

 この比叡山・延暦寺はやがて俗界の王、織田信長から鉄槌を受けて、焼き払いを受けています。よほど堕落した生臭坊主が京の都を跋扈していた事が想像できます。

 この大里の郷は、本当に寂しい人里はなれた僻地だっただろうか、心の中から全ての世俗をすてて、修行の身に生まれ変わろうとする修行僧にとっても、視界に広がるこの地の光景は、よほど茫漠としたものだったのでしょう。草深き地には、獣が現われ、マムシ・スズメバチなどの人の命を脅かす生き物が我が者顔で生息していた秘境であったのかもしれません。

 そしてこの様な地に対して当時の人の想像力は、鬼も棲む妖怪も現われる心も縮む心地のする場所であったと思います。肝っ玉も、達観もどこかに吹き飛んでしまうほどの日常生活を送って行きながら、それでも心安らかな思いを求めていこうとしたのではないでしょうか。

 此れは人の心の中に、強い哲学的な思索をもたらしていく事に成ると思うのです。自分を取り巻く色々な状況を観念で捉える。近世人の思考になっていく。折りしも洛中は関白頼道の政権下、退廃・爛熟の気風が吹き、その様は心ある人物にとって、大原の里から眺めていて耐え難いほどに醜く見えて居たと思います。無常観の萌芽一歩手前です。そしてこの歌を詠って、自分の心象現象を表わしている。私たち現代人にズシンと来る歌になっていると想います。

 歌の中に在る言葉に二・三の説明があります。“いづく”は、“いづこ”の古語です。「やどをたちいでて」は、作者がこの歌を作る際、動的なしぐさを良く現わす表現法としてあえて字余りを容認しているのであって、「宿を立ち出て」よりも、より深い心理描写になっている、と言います。

 解説しているのは、井上宗雄氏、出典は『小倉百人一首』:旺文社刊。

  さびしさに のべつ携帯 見つめてる
      いずこも同じ 人の往き交い   berander