珍本・百人一首

『珍本・百人一首』 七拾壱首より八拾首

『珍本・百人一首』 第七拾壱首
   12月8日

 

 夕されば 門田の稲葉 おとづれて
    あしの丸屋に 秋かぜぞふく   大納言経信

 あしの丸屋とは蘆で葺いた田舎家です。現代に例えてウサギ小屋みたいなものでしょうか。人の住むにもかかわらずうさぎを飼わせるほどの狭い家。

 歌の意味は、夕暮れの田園に秋の風が吹いて、住んでいる自分の家にも流れてくるさま、其のままを詠っているのですが、心の中でもその風情を感じているよ、と主張しているようです。この歌の解説しているのは吉井勇さんです。出典は『百人一首夜話』(交蘭社)

 実はその中に書かれている、大納言経信のエピソードが味わい深く描かれているのです。可也長い引用となるのですが、状況を伝える術(すべ)が、吉井勇さんの筆力と表現力でママに表現するほか無いと言うことと、読む者にとっても趣向を存分に味わえるものだと判断して、失敬なる振る舞いを押して、載せさせて頂きます。ルビの一部を略していることも、お断りしておきます。

 【経信は六条院右大臣重信の孫、権中納言道方の第六子であつた。長元の初年に彼は年十八歳で従五位下参河権守になり、長暦寛徳年間には、刑部少輔、左馬頭、少納言に、天喜治暦年間には、右大弁、参議に歴任して、延久の初年には正三位左大弁に、承保二年には権中納言に、そして永保の初年には権大納言に進み、寛治年中には正三位にまで昇つたが、嘉保元年に何か事があつて大宰権師に貶(へん)せられ、承徳元年八十二歳で遂に太宰府で薨(こう)じた。

 彼は博学多芸で詩にも歌にも管絃にも長じてゐた。承保三年十月白川院が大堰河(おほゐがわ)に行幸になつた時、詩歌管絃の三つの船をお浮べになつて、各々の道に長じてゐるものを分けてお乗せになつたが、その時彼が遅刻したので、帝はひどく御機嫌が悪かつた。しかし彼は船が出ると間もなく来て、「どの船でもよろしいから、も一度岸へお寄せ下さい。」と岸に跪(ひざまづ)きながら呼んだ姿が、ひどく優美に見えたので、帝はその風流にお感じになつて悪かつた御機鎌も直きに直つた。彼はその時管絃の船に乗つて、別に詩と歌とを帝に献じたが、その言葉を云ふ為にわざと遅れて来たのだらうと云ふ噂であつた。彼はこれ以来三船の才人と呼ばれて、大納言公任と?称された。

 (注:IMEで参照できず、読みも不明  ? = 

 又或る年の十一月、月の美しい夜のことであつた。彼を始め、宗俊、政長、院禅、慶禅、長慶などと云ふ管絃を好くする人達の外に、宰相中将隆綱、少将俊明なども加つて、五節の命婦(めやうぶ)が嵯峨の隠れ家を車を列ねて訪ねて往つた。柴の戸の中に入ると、荒れ果てた板屋の軒の葱草の間を洩れて、簾(みす)の中まで月の光が明るく差し込んでゐたので、香染の几帳を押し出して主人の尼が逢ひに出て来た時には、流石にみんなの心はもの悲しかつた。その夜は秋風楽三反、蘇合(そがふ)などの曲があつた後で、万秋楽(まんすらく)を序から五帖まで奏したが、みんな哀れな楽の音に誘はれて涙を流さないではゐられなかつた。

 その中にも俊明は犬目少将と渾名を呼ばれて、不断はどんなことがあつても泣かないやうな荒くれ男だつたが、その夜は如何してだか人に勝れて袂も絞るばかり泣いて、終ひには感に堪へかねて涙を流しながら起つて舞つた。そしてその哀れな楽の音は夜が明けて日が出るまで続いた。主人の尼は元 麗景殿の女房で管絃が好きだつたので、経信はかうしてみんなを誘つて訪れたのであつた。

 彼が八条に住んでゐる時分のことであつた。月が好いので空を見てゐると、砧(きぬた)の音が微かに聞こえたので、「唐衣うつ音聞けば月清みまだ寝ぬ人を空に知るかな」と歌を詠じると、前栽の向ふで、

ほくとせいぜん りょがんよこたはり、 なんろうげっか かんいをうつ  「北斗星前?旅雁、南楼月下擣寒衣」 

 (注:Shift_JISで参照できず ? = 


と声朗かに吟ずるものがあつた。誰だらうと思つて驚いて声のした方を見ると、丈が一丈あまりもあつて、髪が逆さまに生へた異様なものがそこに見えたが、やがて掻き消すやうに見えなくなつてしまつた。朱雀門に住んでゐた鬼は風流を好んで、よくこんな悪戯をしたと云ふから、多分その鬼の仕業だらうと云ふ話であつた。

 彼は桂の里に山荘を持つてゐたので、又桂の大納言とも呼ばれてゐた。】


夕されば 門田の稲葉 おとづれて
    あしの丸屋に 秋かぜぞふく   大納言経信

    チューしたら アンタの前歯 おとずれて
       アタシの舌を カリコリと噛む   berander




『珍本・百人一首』 第七拾弐首
   12月17日

 

 音にきく 高師のはまの あだなみは
     かけじや袖の ぬれもこそすれ   祐子親王家紀伊

 この歌は、返歌であるそうです。この歌の作者は、うら若き女性なのですから先に、或る男から歌が届いた。其の歌は次の通りです。

 人知れぬ 思ひありその 浜風に 
     浪のよるこそ いはまほしけれ 中納言俊忠


 男からの歌の意味はジャンルとしては、女性に想いを寄せる口説き歌です。どうやら祐子さんは、その歌に対してビシャリと、拒絶の意思を示して第七拾弐首のこの歌を歌ったというような、ニベも無い虚に出たわけではないのです。

 返歌の中に、より一層、男の気持を自分に引き寄せようと媚態を籠めているんだよ−−−と、この歌の意味を解説しているのは、安田章生氏です。故人(1917年〜1979年)。歌人で、かつ西行を始め平安和歌に関する著書が幾冊かある。此処で揚げている解説の出典は雑誌『国文学』一月号に載る、とありました。

 そうだと思う。「アンタは音に聞くプレイボーイ、そんな貴方の思いのままにされれば私はきっと、泣かされるに決まっていますわ」、というのです。各句の中に表わした掛詞や枕詞の配置にこの女性の機智を汲み取る事が出来ます。

 こんなやりとりを華やかに展開できなければ、貴族の世界では、生きていけないのです。この女性何者? ・・・読みは「いうしないしんわうけ きい」という。貴族の出で、中宮(王室)にも上り、貴族の女房にも納まり、幾多の男性とも、振った振られの恋の道に迷い、第五十九代の宇多天皇(在位期間は西暦889年〜897年)の子を産んでいるという生き方をしている(経験順は不明)。こういう女性に、平安の男はヨダレを垂らすほどに気を魅かれたんだろうか。

 だから、パロディー歌は兎に角イヤラシ系。

    夫逝く 形見の秘具の あてがへば
        かくてオソソの 濡れもこそすれ   berander




『珍本・百人一首』 第七拾参首
   12月28日

 

 高砂の 尾上のさくら 咲きにけり
     外山のかすみ たたずもあらなん  権中納言匡房

 ある人の屋敷に人が集まって酒盛りを開き、其の座興で歌を詠んでいったうちの一つの歌と紹介されています。どこに其の事が書かれているかというと『後拾遺集』巻一春上であります。其の部分にこう記載されています。

 【内のおほいまうち君の家にて、人々酒たうべて歌読み侍りけるるに、はるかに山の桜を望むといふ心をよめる 大江匡房朝臣】

 この詞書の中にある「内のおほいまうち君」とは誰の事かも判っています。右大臣藤師通(右大臣・ふじわらのもろみち)のことです。匡房は、よしふさと読む。

 そこまでの解説を元に其の状況を今風にイメージしてみれば、平安朝の高級官僚が或る人の家で日頃の楽しみとして、酒を酌交わしながらカラオケ合戦みたいな座興になって行った席で、「よし、今度はオレの歌をきかせてみよう」などと言って和歌を披露した、そんな状況であろうかと考えられます。

 だからこれは、実景を詠ったものではありません。高砂とは、ただ高い山ということ、尾上(をのへ)は峯の上の事。そして外山は深山(:みやま=奥深い山)の外の山と言う事になるから里に近い山となる。その山の周りに霞が立って、峯の桜が見えにくくなってイヤだな、退いて頂だいよ。−−−奴さん酔っ払って、矢鱈に取って着けたような、定型的な和歌に扱われる文言を韻の中に貼り付けて和歌を披講したような感がしてきます。

 この歌の評価はそれとして、彼は頭脳はとても良かった。八歳で『史記』その他の漢書に通じていました。何かにつけ、仕事の上で上司から色々意見を求められると、アレはこうである、この場合は、こんなものが常識になっているということを、中国の故事や事実を例えにして、即座に回答して言ったとあります。

 むしろ和歌は余技として、漢詩の詠みぶりをとりいれて姿勢の坐った輪郭の鮮やかな歌を作り、歌人としてもすぐれていた。−−そうです。

 彼の出世昇進は見張るものがあったようです。十八歳にして従五位下参河権守の役職を戴いた後、遂には権中納言正二位大蔵卿まで登りつめたとのこと。今に比較してどの程度偉いのだろうか、私には良く解らない。

 大岡信『百人一首』:世界文化社『日本の古典』別巻がこの歌の解説の元になっています。

    高飛車の 女の面の 鼻ばしら
       あまたの男 ムカつきあらんや   berander




『珍本・百人一首』 第七拾四首
   平成19年1月11日

 

 うかりける 人をはつせの 山おろしよ
     はげしかれとは いのらぬものを  源俊頼朝臣


  私になびいてくれない人との恋が成就する事を願って、初瀬にお願いに上がったのになんでえ、この辛く当たる山おろしは。歌はそんな意味なんですが、とても微妙な表現をしている。

 一つはお祈りした神様に愚痴を述べている。どんな神様かと言うと、大和の国磯城郡(奈良県)の、解説を読む限り、長谷寺の観音様のようです。叶えてくれなかったんです。其の上ヒューヒューと山から吹き降ろす山颪が身を切るようなつらさである。踏んだり蹴ったりだ、と歌に上げて当り散らしている。願かけて後、勇んで恋の口上を述べに上ったのに、相手の女性はそれまで以上にひどくあしらってしまったのでしょう。

 余程性根のお宜しくない男だったのだろうか。名前からして平安時代の終盤から、日本史の中に登場してくる侍、つまり武士一族のうちの一人で在るように想定されます。この歌が最初に載った歌集は『千載集』恋二、七〇七のようです。年表で確認すると『千載和歌集』:1187年成る、とありました。平安最末期であります。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた年が1192年(良い国創ろう鎌倉幕府)ですから完全に、印象は武士。

 今時の体育会系男性よりも荒ぶる心、筋骨逞しいいでたちでストレートな押し出しで立ち向かったのかもしれない、何て考えると大体あたっているような気がしてきます。優男に囲まれ、チヤホヤされていた当時の女性に在っては、源俊頼君の愛の告白は、驚天動地の思いで受け止めたのでしょう。

 歴史は恐らくこの頃から、男優位の社会に成って行ったのではないでしょうか。俊頼君、仕掛け方がチョット早かった。残念。

 歌は「上手い上手い」と『小倉百人一首』の選者・藤原定家が絶賛して、こんな評価を『遺送本近代秀歌』に書いている。

 【これは心ふかく言心(ことば)まかせてまなぶともいひつづけがたく、まことにおよぶまじきすがた也】と激賞している、と解説されています。冬の初瀬参りのあわれさ、恋の悲しさ、人の世の悲しさが一首の中に盛り込まれ、物語性を持っていて定家の好みの歌だと解説に付け加えられています。解説者は島津忠夫さんです。第十七首「千早振る・・・」の解説もしています。


    馬乗りに 彼をまたぎて 浮き腰の
       激しかれとは 祈らぬはなし   berander




『珍本・百人一首』 第七拾五首
   平成19年2月4日

 

 契りおきし させもが露を 命にて
      あはれことしの 秋もいぬめり   藤原 基俊


 

 おや、と思わせる意味がこの歌にはあるようです。歌の作者は自分の息子・光覚(興福寺の僧)が維摩会(ゆいまゑ)の講師に推挙するように或る人物に働きかけ、「当確」のお印の言葉を頂いた。ところが実際には、“今度も”うまく行かず選者に外れてしまった事を、うらみつらみの歌を興して依頼した人に贈った。

 親ばかチャンリンの挙句の当てこすりであります。この歌を贈られた(頼まれごとを適えて上げなかった)ほうの人物にどれほどの狡猾さがあったかはわかりませんが解説の中には、この親にして藁をもすがる気持の部分が歌の中で「させもが露を命にて」と表わしています。

 具体的には、依頼された人−−−この人物は、歌を収録した『千載集』雑の部で詞書の言葉で、法性寺入道前太政大臣とはあるのですが、改めて解説を読み進んでいったところに・・・藤原忠通に頼んで敵えられなかった恨み言の歌です。と解説者が補足しています。

 忠通さんは親の懇願をどんな気持で聴いたのか、そして、どの程度真剣に働きかけて上げたのか、そして、この親ばかはどれだけの贈り物を携えて伺いに上ったのか。さらに、実際息子の実力がいかほどにあったのか、こんなことを様々に想像してみると、私の中にもこの辺の消息をヒントに、中世時代小説の構想が骨格で固まってきます。事実、小説家はこんな立場で、作品の萌芽があって、そこに時代考証をして肉ずけさせて著作をしていくのだろうと思いました。

 あくまで、読者をして平安貴族社会の滑稽さと優雅さと魑魅魍魎さを興味を持って読ませていく作品、こういうのを完成させる現代作家の表現力ってすごいのである。

 この歌のハイライトは「させもが露を命にて」の部分です。解説にそこをこう述べています。

  【・・・まず「(契り)おきし」と露の縁語で詠起し(よみおこ)し、させもぐさ(さしもぐさ)にさしも(あれほどの)の意味を含ませ、さらに露の命を二様に使っているところ、たいへん手の込んだ技巧歌である。つまり、「させもが露を命にて」とは、清水観音の歌をたのみにせよと言ってくださったあれほどの甘露を命の綱として、という意味を表として、裏に、たのみがたい草の露をもたのみにしてとの意味をこめている。】

 安東次男さんの解説でした。出典は集英社刊『百首通見』 それと、ちょっと蛇足に現代文学界に置き換えて、この選者の資格とは何か、と想像しました。単なる歌会の選者のレベルでなく、幾つかある文学賞の、いずれかの選者と置き換えて視るも面白きかなとなります。


    尻におでき 腫れた患部の 痛みにて
       あはれことしの 椅子も坐れず   berander




『珍本・百人一首』 第七拾六首
   平成19年3月10日

 

 わたの原 こぎ出でて見れば ひさかたの
      雲井にまがふ 奥つしらなみ  法性寺入道前関白太政大臣


         奥(おき)

 実際に舟に乗って、海上にある時詠ったものであるかどうか? この歌が収められていた『詞花集』の詞書にこうあります。

 【新院位におはしまししとき、海上遠望といふことをよませ給けるによめる】

 ここで出てくる新院とは、崇徳天皇(1123〜1141:第七十五代)のこと。そして、この歌が何処にて誕生したかと言うと保延元年(1135年)四月の内裏歌合に詠んだと伝えています。

 御前歌会は、今新春の皇居で年に一度催されていますが平安の昔には、これまでの百人一首の解説の中でも出していますが、一年に幾度も行なわれていたことが判っています。毎年の日を決めて行なわれた伝統的な歌会のほかにも、時に天皇が、あるいは、皇后が更にお傍に使える高位の中宮などが「やりましょ〜」なんか言い出して、即座に成り立っていたなんて事もあるかもしれません。

 想像を膨らせるに、蹴鞠、貝合わせ、当時の盤面遊戯(スゴロクや歌留多、将棋、囲碁等の原型)も天候や日なみによって折々に流行っていたのではないでしょうか。あるいは少しハメを外せば酒宴、そして男女間できわどいタイマン勝負みたいなものまで・・・在ったのではないかと思うほうが自然。

 それは兎も角、作者はあたかも坊主の如き名前でありますが、勿論元はれっきとした貴族。名は藤原忠通(承徳元年閏1月29日(1097年3月15日) 〜 長寛2年2月19日(1164年3月13日))
です。四代の天皇に仕えた重臣です。出家したのが1162年だから最晩年の事。とするとこの歌は勿論宮中にお仕えしていた時に詠った歌を後世の藤原定家が忠通の最終役職で紹介した。今でこそ最終学歴が何かと人の一生に付けられたもので認知される事もありますが、古の頃には、一人の人間がこの世でいったいどんな官職あるいは職業を歩んできたかがすごい重みを持っていたように窺えます。その都度の個人の立場が名前として幾重にもなって記録に残されてきた。この『小倉百人一首』は藤原定家が編集長となって編まれたものですが何を隠そうか、忠通の晩年の頃、定家が生まれている。この一族の長者−−此処では出世頭と誇っても止むことなき叔父の歌を詠みながら、定家も特別の思いが去来したと思います。

 歌は詠んでそのままに大らかな海原の光景が浮かびます。この歌の解説は白洲正子さん。

    腹のわたし 生まれてみれば アンラッキー
        父はいづこか 母はヤンキー   berander




『珍本・百人一首』 第七拾七首
   平成19年4月9日

 

 瀬をはやみ 岩にせかるる たき河の
      われてもすゑに あはむとぞ思ふ  崇徳院


 この歌の解説は大岡信氏です。出典は『百人一首』:世界文化社《日本の古典》・別冊です。解説者の大岡信氏はこれまでにも、第一首・第十首・三十五首・・・他幾度も登場しています。殆どの解説者にも驚く事ですが、その歌を詠った状況、背景や、その人物の同時代の人間模様を実に詳しく示してくれる事で、平安期こそ、日本人の精神の骨格が培われた時代だった事を考えさせてくれるように思います。

 平安期の、一部の作者が詠った和歌の中には、現代人以上に深い孤独感(第三十四首「たれをかも・・」)や、比喩を通して、耽美的な光景が表現されているものがあります。第十二首「天つかぜ・・・」の美しさ。あるいは、自己の内面で他者をある状態に捉えて客観視する−−第二十三首「「月みれば・・・」などは、様々な精神作用をみせて、日本人の知性の細やかさを鮮やかに現しているとおもいます。

 この歌の状況は、滝より落つる水は途中、岩に阻まれてその契りを切り裂かれようとも再び滝壺にたどり着けば結ばれる。そしてその余韻として、作者は自分の現実と滝の水の落ちるさまを重ね合わせて、己の悲運を描いているようにも見ることが出来ます。大自然の荘厳的躍動と激しい自分の生涯の不遇が恋の歌を通して対比して詠われている。実際に作者の肉親愛への果たせぬ心情の吐露となっている。その彼の不遇とは・・・解説の内容を要約して現してみると。

 崇徳院とは、第七十五代天皇・崇徳天皇です。彼の実の父は、曽祖父白河法皇です。白河法皇は、寵妃・待賢門院璋子(たいけいもんいんたまこ)を孫の鳥羽天皇の妃とさせたが、変らず璋子を自分の寝所に呼び寄せていた。その逢瀬の結果誕生したのが、顕仁(あきひと)皇太子でこの和歌の作者崇徳天皇当人であった。父と呼ばれるべき鳥羽天皇は皇太子に愛情を持つことは勿論の事、終生憎しみの気持を持ち続けた、ものすごい肉親憎悪です。その上、鳥羽天皇は、皇太子が五歳になったとき、白河法皇の圧力で退位させられてしまい鳥羽院となり、顕仁が天皇となってしまう。

 退位後暫らくして白河法皇が崩御すると、鳥羽院は院政を執る。その上で今度は正真正銘自分の実子を寵愛する美福門院に産ませ、出生三箇月後に皇太子にし、翌年になって今度は崇徳天皇を皇位から引きずりおろして、自分の息子(皇太子)を七十六代天皇にしてしまいます。近衛天皇です。鳥羽院は出家して法皇となり、本院と称される。崇徳院は崇徳上皇となり、新院と呼ばれて後この二人は、そのまま激しい感情の対立関係で憎しみを膨らませて行った。その先が続きます。

 近衛天皇は若く十七歳で夭逝すると、鳥羽法皇は崇徳上皇が呪って殺したと怒り、彼の皇子をないがしろにして、上皇の弟、つまり法皇の第二皇子(今度は、自分の種による子か?)を即位させてしまう−−−後白河天皇です。更に更に、一方の崇徳上皇は重なる怨念の果てに、臣下の藤原頼長らと計り保元の乱を起こすも敗れ、讃岐に流される。そして九年後、怨みと悲憤を持ちながら崩じた。

 何なんだこの歴史は。

    手をからめ 彼に急かるる 入口の
        拗ねても末の ラブホ突入   berander



 

『珍本・百人一首』 第七拾八首
   平成19年4月22日

 

 淡路島 かよふ千鳥の なくこゑに
      いく夜ねざめぬ すまの関もり  源 兼昌



 須磨の浦の関守は、夜啼く千鳥の声に、目が醒めて眠れない夜を幾夜も重ねているだろうな、というロマンチズムのこめられた歌だと解釈しました。

 今、大学図書館から借りている本が手元にあります。『王朝和歌を学ぶ人のために』:世界思潮社刊・後藤祥子編です。二週間の借り出し期間でまだ未読の部分があって、明日4月23日が最終日だから戻さなければならない。巻末に関連の年表が細かく4ページ半に渡って記載されているものをexcelの表に写しています。これは全て写し終えておきたい。後日の参照資料として大事。

 と同時にこの本には幾人かの研究者博識者が分担して執筆した学術書であると言えます。15人の構成で構築されています。その殆どが女流です。図書館に返却後にもう一度どうしても読みたい事になると思う。既読部分にしろ、読みの残しの部分であろうと。

 もう一度借りるか、と思ったがこのような本は自分で是非買い求めておくべきだと思っている。折に触れ、本を開く楽しみを持っていてもよいと考えているから。本の定価は2499円。神田神保町に、折があったら熟本屋を巡り歩いて捜しても善いかもしれない。

 この『珍本・百人一首』が無事百首まで踏破して掲載をかなえたとき、実はこんな風に終了させたいと考えている。「あとがき」として、百人一首の出典元の整理・それらの出典勅撰歌集の特徴を俯瞰的に描写・自分が執筆した百首に寄せた文章への反省など、それらを著わしたいのです。

 さて置き、王朝和歌時代の貴族の生き様・社交・恋愛・願望、そして美意識などにどれほど想い巡って入って行けるのだろうか、と言う重大な命題を自分は持つのです。第七十八首目のこの歌には、中に描かれた、すま(=須磨)の関が、万葉の頃からこの地の海女の姿や藻塩などを取り上げて牧歌的に詠われてきた時代の復古としてあるという。金葉集(1127年)に、この歌でリバイバル化されたという事か、以後の歌集に多く詠われていくとあります。やはり、流行(はやり)というものが在り、そしてそこから、「歌は世につれ、世は歌につれ」となって王朝和歌の流れは文藝の大地を悠久に流れていったのだろうと思う。

 そこを見極めてみたいと思う。兎に角パロディー歌は相変わらずお品の無い物ではあっても。

    空手形 女に遣う 詐欺おとこ
        いつか目覚めぬ 寝首掻かれり   berander




『珍本・百人一首』 第七拾九首
   平成19年5月7日

 

 秋風に たなびく雲の たえまより
      もれいづる月の かげのさやけさ  左京大夫顕輔


 月がしばらく雲間に隠れていたが、秋の風に吹き払われて流れていった後、煌々と照っていた。嗚呼美しき哉。

 こんな感想を漏らした歌だと素直に解釈してみました。清少納言は『枕草子』の中に短く月をこう述べています。

 「夏はよる。月の頃はさらなり、・・・」

 自然をゆとろぎの心で観賞する事柄のうち、最もポピュラーな対象であるのが月ということになります。同じ月を見ても、第七首の歌は違っていた。望郷の念を詠っています。

 天の原 ふりさけみれば かすがなる 三笠の山に 出でし月かも  阿倍仲麻呂
   (久保田正文氏解釈))

 アメリカ映画・『キング・コング』は巨大なゴリラが故郷の南の島から捕われて、ニューヨークで見世物にされてしまう。脱走して、恋してしまった女性を手の平に包んだまま逃げて行くが、とうとう摩天楼によじ登って仕舞う。見上げた空に煌々と照る月を眺めて、やはり故郷の島を懐かしんで涙を流す。は女性をそっと逃す。そして最後は人間の攻撃する様々な兵器によって撃ち殺されてしまった。還り得るを果たせなかった故郷に、魂は戻って行ったろうか?

 アメリカ人だろうと古代・中世の日本人だろうと、月を見てこころは震えるのです。

 この歌の解説の中に書かれている文を短く書き写して置きます。久保田淳『新古今和歌集全評釈』第二巻・講談社。

 【契沖の『百人一首改観抄』下では、・・・「文選陶淵明詩に『明々雲間月 灼々葉中花』、此の初句をよまれたる歟(かや)。又、『月在浮雲浅処明』と言う句、又源氏物語、『雲がくれたる月のにはかにさし出でたる』とかける詞、皆心相似たり」ともいう。・・・】

 契沖と言う人は「江戸時代中期の真言宗の僧であり、和学者(国学者)=フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』となっています。

 何百年もあとの人に様々に観賞され、賞賛されたり比較されたりしていった『百人一首』他に載せられた歌歌を、自分も此処まで続けて色々に書いてきた事を振り返ると、少し顔は赤くなり、首筋が寒くなる思いがし始めています。軽率とはいわないが、行動が軽いのではないか?  更に、パロディー歌は不謹慎ではなかったか? どうなんだろう?

  足許に 垂れゆく水の 生ぬるく
        漏れ出づる尿に おしめ決壊   berander




『珍本・百人一首』 第八拾首
   平成19年5月16日

 

 ながからむ 心もしらず くろかみの
     みだれてけさは 物をこそ思え   侍賢門院堀河


 現在形の詠歌だから、まだこの歌の作者は、床の中にいて、先ほどまで同衾していた男のカッシリとした皮膚の感触を、男が自分の肌に残していった置き土産でもあるかのように気だるげに観賞しているようだ。実に艶っぽい女の姿態がイメージされます。

 この歌の解説は萩原朔太郎氏。短い通り一遍の感想が吐かれているに過ぎない、と言う印象。出典は『恋愛名歌集』:筑摩書房『萩原朔太郎全集』第七巻。

 上の一句目・二句目の表現は、昨夜の相合(あいごう)をまったりとした満足感で満たされ浸っているという感じには受け止められない。情欲に溺れ、男の手管で激しく燃えたことをいくらか恨めしくも想い、「こんな関係でこれから続けていいのだろうか?」・・・そういう気持の複雑さが女の心にはよく去来するのかもしれない。男は、ケロッとしている。こんな朝はだいたいが満足感に満たされて家に戻っていく道すがらに大欠伸のひとつも吐いているだろう。

  ひとすぢにあやなく君が指おちて乱れなんとす夜のくろ髪  与謝野晶子 『小扇』
  われと燃え情火環に身を捲きぬ心はいづら行方知らずも  与謝野晶子 『舞姫』

 明治・大正・昭和を生きた女流歌人与謝野晶子の歌の中から、女の黒髪に心の情念を象徴させている歌をポツリ・ポツリと拾ってみました。あくまで歌を自分なりに解釈した上であります。そして、創ってみたいのは、男の情念を何かに象徴させるパロディー歌ではあります。

  硬かれの 心もしらず イチモツの
      しおれて今朝は 衰えと思え  berander