珍本・百人一首
珍本・百人一首』 弐拾壱首より参拾首
『珍本・百人一首』 第弐拾壱首

 

  今こむと いひしばかりに 長月の
       有明の月を 待出でつるかな  素性法師

解訳を先に出してしまいます。

  【近くまたと あんな文(ふみ)を下さったばかりに
   あわれこの秋の夜長を
   まんじりともせずあなたを待ちわび
   夜ふけて出る有明の月を
   ひとり待ち ひとり眺めたことでした】

 この歌の解説は本文中で大岡 信さん、となって居るのですが巻末の出典一覧と、頭の目次では萩原朔太郎さん。そして元本は『恋愛名歌集』(筑摩書房『萩原朔太郎全集』第七巻)。これまで第十五首と十八首の解説でも登場しています。そして、十八首の中で、こんなことを私が言い切っていました。「古典の和歌を解釈する事については、やはり萩原朔太郎さんは気が入(はい)らなかったかもしれない」

 今回の解説を1対2の票決で萩原朔太郎さんの解説として“一旦”、暫定的に表記しておきます。と言うのは、冒頭に書いた解釈の文の載せ方といい、解説の展開・構成が第十首、蝉丸の歌「これや此 ゆくも帰るも・・・」の時の大岡信さんの解説に似ていて、疑念が消えない。この件は日を改めて、図書館などで出典本を見つけられたら、決着をつけたい。大岡信さんの著書は、第十首の時のもの、世界文化社刊『日本の古典』別冊:『百人一首』でいいと思う。見つけられたらの話。

 さてこの歌は男性−−−素性法師が女性の気持に成って歌ったものです。何か似たようなのがありました、確か。
  抒情歌『宵待草』です。竹久夢二作詞 多忠亮(おおのただすけ)作曲

   待てど 暮らせど
   こぬひとを
   宵待草の
   やるせなさ
   こよいは月も
   出ぬそうな

 二つの歌に出るそれぞれの女性は、時を越えた二卵性姉妹と言ってもいいのではないでしょうか。夢二は、蒲柳の女性イメージを描かせたら、天下一品。そしてこの歌もやるせないなあ。古今集に載っている第二十一首の歌とともに、後年にいたっても世のうら若き女性の心を激しくたたいたことだと思います。

 そして選者の定家に至っては、【毎夜毎夜待っているうちにいつしか秋も暮れ、月さえ有明になってしまった】と待っている日数の長さにこの歌の情感を読んでいます。この受け止め方が誤解ないし曲解であるかを、あまり追求をしたくないberander ですが、夢二の歌にいたってはフーゾク店紹介をしている紙誌の欄に「待つこと10分の『チョイ待ち草』で指名した相方が・・・」などと引用されているのは如何なものか。

 尚、有明の月とは、月齢20日すぎのこと。本日2006年4月23日現在は“24.7”で月の出は、午前2時18分(東京標準)です。紙誌のこういう情報欄をよく読んでいるberander です。

 今混んで いるとてただの カンビール
     呑むうちうつら 姫に起こされ   berander


 註: ただのビールの出る店の詳細は、各人でお確かめ下さい。こちらは図書館での確認は無理でしょう。berander へのお問い合わせでも叶わないので、質問は拝辞いたします。


珍本・百人一首』 第弐拾弐首

 

吹くからに 秋の草木の しをるれば
     むべ山かぜを あらしといふらん  文屋康秀


 子供の頃の坊主めくりで遊んでいたときの記憶断片が、深遠からポコッと出てくるような気がした。絵札をめくって、普通の男の人の時は別にドキッ、ともワクッともしないから、札を読んでみる。漢字には、かながふってあったから、読める。大抵の歌は、意味不明をそのまま飲み込んでいたがこの歌は、多少の空想力を駆使すればなんとか雰囲気が伝わってきた。

 そのような歌には、一応好感を持っていたと思う。何せ意味が判るという満足感がある。そして、状況が思い忍ばれて、印象に残る。

 こんな歌に改めてめぐり合ったときはちょっと解説しているひとから、より深い造詣を得られるのがberander としては嬉しいのですが、そうではなかった。萩原朔太郎さんは簡単を信条としていると思う。この歌の解説されている部分を全文引用させてください。発刊筋に重ねて非礼なるをお侘びしておきます。

 【この歌には古今集一流の理屈があり、見方によっては稚拙な悪趣向歌の典型ともみられるだらう。だがそんな方面を考へずに、素直に好感を以って読んでみれば、意外にさらさらとした好い歌で、秋風一陣、蕭颯として嵐の過ぎ行く情象を感じさせる。蕪村の名句「猪も共に吹かるる野分かな」も、何所かこの歌と共通する情趣を持つている。】
   蕭颯:しょうさつ

 やはり印象のみの、自己が評価した観想だけで終っている。しかしこれは出典とする元本『恋愛名歌集』(筑摩書房『萩原朔太郎全集』第七巻)の内容であって、萩原朔太郎さんの所為ではなく、ましてこの熟本『別冊 文芸読本・百人一首』の編者、丸谷才一氏へクレームを持っていくべき事でもないと思う。本の趣(おもむき)として、取り上げることの意を汲み取り受け止めるべき話なんだ。

 昔も今も、とても素直な気持なんです私は。

 服などに 土や草木の 着きおれば
     若い男女の さては野の愛    berander


 蕪村の句が引用されていることに触発されて、私も猪を読んだ句をひとつ思い出しているので(勿論、書き留めてあったものを引っ張り出して)披露します。人の詠んだ句です。

    雪しんしん 猪の親子は 谿を越え   西尾しおり

    猪:しし  谿:たに  尚、この句は川柳です。自分が川柳に惹かれて居るのも、ひとつに江戸古川柳の人情、そして上に引用した句の表現までも許す川柳の奥の深さ、幅の広さがあったからです。


珍本・百人一首』 第弐拾参首    平成18年4月26日

 

 月みれば 千千に物こそ かなしけれ
     我身ひとつの 秋にはあわねど  大江千里


 こういう歌を鑑賞してみると、秋の夜の月をみると哀しくなる、と言う情感は昔からあった事が判ります。では、太古の昔の人類の曙、他の哺乳類とそれほど違わない衣食住環境の中に居た頃には、私たち祖先は月をどう観賞していたのでしょうか。

 何故か月にこんなにも飛躍した想像力が働いてしまいました。と言うのは月と太陽が人の心理と生理にどう働いているかと言う、巷間あるいは医学的に提供されたデーターなどを見ると、月による影響のほうが大きいのではないかと思うのです。

 朝になると日が昇って人は一日のリズムの躍動が始まる。日が暮れると仕事が終わり帰巣して身体を休める。このリズム感から行くと、太陽の人に与える影響のほうが大きいのではないかと思えるのですが、では曇りの日、雨の日などはこのリズムが壊れてしまうでしょうか。明るさと暗さの交互の流れに乗るというのなら、人口光でも代用が利く筈であって、太陽の力の何であるかの解決にはなっていない。あるいは夜間勤務の人は、リズムに乗れず仕事にならないのだろうか、勿論コントロールする訓練は必要。

 では月の影響とは何か。人の生と死に係る大きなリズムと共鳴していると聞いた事が有ります。人が生まれる時刻、死ぬ時刻は、月の満ち欠けに一定の同期性があるらしい。満月なのか新月なのか、そのような満ち欠けに合わせて生れ落ち、そして息を引き取る。

 狼は月に吠えると言います。何者に呼応しているのか、神秘的です。人類が他の動物から離れて感情を持つ生き物になって、人は月夜に吠えるかの如くにその感傷を月に呼びかけて行ったとberander は思うのです。論理的ではない説明かもしれませんが何故か強い生理、心理の働きが太古の人間のDNAを連綿と引き継いで、ついには平安朝の歌人の歌に詠まれ、限りなく月を観て悲しんでいます。しかし、そこには「多分こんな思いで月を見ているのは、自分ばかりでは無いと思うのですがどうなの?」という自分と他者との同一化あるいは、自己の客観視感などが感じとれると、この歌の解説者窪田空穂さんが言っていました。出典は『古今和歌集評釈』T(東京堂)。今の人大江千里さんは「せんり」さん、平安歌人は「おおえのちさと」さんですから。儒者としての学問もなかなかのものであったそうな。江戸時代の儒者と違って風流人だと言っていいの? 実はパロディー化するのに、苦労しなくなりました。ススッと出てくるようになった。ホントーです。

 スキあれば 干したものこそ 哀しけれ
      下着一枚 数は合わねど    berander


珍本・百人一首』 第弐拾四首    平成18年4月28日

 

  この度は ぬさもとりあへず 手向山
     紅葉のにしき 神のまにまに   菅家


 この歌は、いったい何を言っているのか解りません。解説を読んでみても「なんですかこれ」でした。この歌で詠われている意味はこうです。先ずは“ぬさ”とは幣の読みで、供え物のことです。人が山中に入った際、その供え物を差し上げる(手向ける)然るべき場所が在るらしい。その山に入って、無事に戻ってくること、あるいは越えられることを祈るのだろうと思います。山の神のご機嫌を取るということでしょうか。

 ある時、やんごとなき人が行脚したのですが、供え物を用意していなかった。だから折からの風に散る紅葉の美しい情景を、どうぞ神様の気持の済むまでお供えいたします。−−これがこの歌の意味なんです。なんか、技巧的というか嘘事くさい。歌の意味を知ってみると、紅葉の美しさに作者が感動しているらしいのは判るから、こんな歌に仕上げたんだろうくらいにしか思えません。

 解説しているのは小沢正夫さん。この本自体のために書き下ろした解説です。当時この行脚の情景がどんな様子だったか、文献が残っていて、それを紐解いて述べてくれています。こちらの内容はおもしろい。

 其の時、色とりどりの衣装を纏って、参加総勢100人位の一行で繰り出した物見遊山の情報が都の人に広まった。場所は大和の吉野か竜田辺りらしい。この噂を聞いて、京の一般の人が見物にどっと押し寄せた。やんごとなき上皇の顔を一目見ようと、女どもは乗ってきた車(牛車?)の中から身体を乗り出して、きゃーとか言う様子で大騒ぎ、今で言う追っ駆け組みが大勢押し寄せた。これを従臣たちがからかったり挑発している。この旅行は昼は狩り、夜は仮設のテントみたいなのを張って酒宴を開いて、ドンチャンさわぎ、今で言うコンパニオン、遊女なんかも呼ばれたりして、こうなれば中にはセクハラまがいの虚にでた臣下も居た。−−−解説には実名が書いてあるのですが略。

 でもやはりそんなことには目を背けて、彼らは一方で、美しい秋の風情をも漢詩で吟じて遺しています。菅原道真もその一人。そしてこの歌の作者菅家とは菅原道真のことであります。

 漢詩もきちんと残っている様子ですが、この熟本に書かれているのは和文に訳されているもの。印象はチョット違ってきますが紹介させて頂きます。

 【満山の紅葉心機を破る、況や浮雲の足下に飛ぶに遇えるをや。寒樹は知らず何処に去れるかを、雨中に錦を衣て故郷に帰る。】

 この度は 歌もとりあえず 唄います
     音痴のこえに 美人台無し  berander
     

 元歌に違和感を持ってしまうと、パロディー歌を創るのにもスラスラ行くことが出来なかった。苦労しました。

珍本・百人一首』 第弐拾五首    平成18年4月30日

 

  名にしおはば 相坂山の さねかづら
     人にしられで くるよしもがな  三条右大臣

 

 また萩原朔太郎さんの解説なので解釈は一切なし。韻の分析のみです。だから又、よそ様のサイトに伺って解説を仕入れてきます。以下、全ての内容が幾つかのサイトで紹介されていたものをガラガラ→ポンです、パクリます。“パクササイズ”といって、悦に入って−−もとい肩身の狭い思いしながら書いて行きます。

 先ず三条右大臣と言うのは、役職を指す名前ですから京都三条(と言う地名)のお屋敷に住む右大臣ですよ、ああ、では藤原定方さんじゃありませんか。という事になります。

 さねかづらと言うつる草の象徴する意味は、「さ寝かづら」と相坂山が繋がって「逢ってお床いりする」こと。この歌は、モロに女性を口説く歌です。
 
 四句、五句で続けての心情を現して、こっそりと人目に遭わずに逢いに行く手段がないかなあ。と言っています。「くる」と使っているのは相手の女性宅に既に自分の心が置いてあってそこから見ている自分が、のこのこやって来る(現実の)自分のことを言うのだそうです。

 とても複雑に事を運んでいるようです。こんなことで女心って、うっとりするんですかねえ。人目忍んでなんてのは、グッとくる状況ですが、今様で言えば、パパラッチ対策と言えなくもない。のんびり牛車になんか乗って移動するんだろうから、追跡を巻くのも朧つきません。

 はい、ひとつ疑問があります。こういう状況で男から女に(多分念を入れて、このさねかづらの蔓なんかを添えて)紙にしたためた歌を贈る状態と言うのは、日頃からの懇ろな間柄の恋仲で叶うことなのか、それともいきなりファースト・デートから迫る時の手続きにも成っているのか?

 案外簡単に男女の情交が叶っていた時代なのかもしれない。

   真にしおはば ベッドの中の ささやきに
      ひとしお強く イグわシグわと   berander

珍本・百人一首』 第弐拾六首    平成18年5月2日

 

 をぐら山 みねのもみじ葉 心あらば
     今一度の みゆきまたなむ   貞信公
 

「今一度」をいまひとたびと読んで韻律を取って読むと、マチガイなしで、歌の解釈にもなると思います。みゆきは御幸で、意味的には行幸という言葉に同じで良いと思っています。やんごとなき人の最初の紅葉を愛でるお出かけの折に、今度もう一度御幸があるときまでこのままのポーズを取っていてくれ、と紅葉に願いをかけている歌と言うわけになります。

 具体的には、最初の御幸が宇多上皇のもの。延喜7(907)年9月11日−−一説に延喜4年。そして詠んだのが藤原忠平、この人が貞信公(ていしんこう)です。そして、もう一度来ることになるのが醍醐天皇です。上皇の子です。

 この歌が醸す情愛について、やはり考えを巡らせてみると、貞信公が仕える天皇に忠誠心で「お見せしたい」と願っている解釈がひとつで、それよりも親として、先に御幸した宇多上皇としては、息子の醍醐天皇にも是非薦めるように、と貞信公にこの歌を奏上させたものだということも考えられる。どちらの解釈でも矛盾のない話である。−−この歌の解説者はそのように述べています。藤平春男さんです。出典は『古今和歌集・後撰和歌集・拾遺和歌集』角川書店『観賞日本古典文学』第7巻。

 人物紹介をしようとサイト検索したら息子さんで藤平泉さんが、おられていてこちらを紹介したほうが、何故か因縁を感じてしまいます。日本大学・国文学科教授で、専門分野は中世和歌で、新古今和歌集をはじめとする作品を対象としながら、鎌倉時代歌壇史研究を行っている。こちらも親子にわたり(もしかして、代々?)和歌の研究をされている学者さん一家と言う所でしょうか。

 千年の間とは、何なんでしょう。古典を観賞する、研究する・・その時、時間と言うものが人の営みにどのように降りそそぎ、突き刺していくのか、不思議な浮遊感に捉われるような心地がします。

 では、ちょっとパロってみる歌にも、ある情愛を読み取っていただくことを願って。

 仰向けば ミニスカのすそ 心もち
     今ひとたびを 上げて跨いで  berander


 上げて跨いで、は「上げて跨いでね」です。


珍本・百人一首』 第弐拾七首    平成18年5月4日

 

 みかの原 わきてながるる いづみ川
     いつみきとてか こいしかるらむ  中納言兼輔



 

 解説者安東次男さんがこの歌を良く検証して解説しています。みかの原=山城国相楽郡。この辺りはかつて甕(みか=かめ)を埋めたところから、水が湧いたという言い伝えがあって、泉川の由来もそこから来ている。

 この歌は新古今集・恋の部にある。だからといって、わきてながるるを「湧きて」と「分きて=男女の中を引きはなす」と掛けているかどうかの議論は不要で、こんこんと水が湧くと素直に捉えるべきだろう、と言っています。

 「いつみきとてか」の部分がこの歌の最大のミステリーのようです。今の言葉で言うと「いつ逢ってくれましたか?」 あるいは「いつ契りを結びましたか?」、・・だから恋しいです、哀しいです。とはいうものの、その恋しさ哀しさというものは、@忍んで逢いに来ても逢ってくれなかった悲恋。A口説いたけどダメだった恋、と見る意外に、B俺達いつからこんな仲になったんだっけ、最初の頃のめくるめくときめきは何処へ行っちまったんだろう。という状況まで可能性のある歌と見ても良いのではないか、と言っています。出典は集英社刊『百首通見』。作者は堤中納言とも呼ばれた藤原兼輔。しかし本当の作者であるかどうか、いくらか疑わしいとのこと。

 成る程。berander は考えてしまいます。恋の様々な状況を、当時の人は殊更に心を砕いて表現している。だから観賞する際、ともするとややこしい気分に陥ってしまうことがあります。彼らは相手のところに通い詰める道すがら、あるいは閨の睦言などを語る際、それとも時に筆をとって書架の前に坐ったまま、ぼ〜として空想したりして言葉を選びかつ指を折って韻を踏んでいた事もあったに違いない。

 ドラマ制作的な気持もあったんだろうか。紫式部の『源氏物語』は丁度今から1000年ほど昔、西暦101?年の作品だから、当時の貴族の生活、和歌の創作などにも多大な影響を与えてきたと思う。恋のバブル期といっては不謹慎だらうか?

 
 右の腹 吐き気ともない 痛み有り
     医者が開腹 小石取るらむ  berander



珍本・百人一首』 第弐拾八首    平成18年5月6日

 

 山ざとは 冬ぞさびしさ まさりける
      人めも草も かれぬとおもへば  源宗于朝臣

 古今集冬の部に載せられている歌です。

 先ずはberander が単純に解釈すれば、冬枯れの人里はなれた場所の茫漠たる風景を、そこに住んでいる人でも、訪れた人でもどちらの立場からでもいいから、その寂寞感をため息のように吐露して歌った。しかし、とこの歌の解説者、山本健吉さんは言っています。

 草木と言う言葉を挟んだ、「ひとめも・・かれぬと」の部分を手術台に載せて、強力なライトを真上から当てています。過去の症例として、万葉集の歌を引用しています。

  佐保過ぎて 奈良の手向けに おく幣は
     妹をめかれず あひ見しめとぞ    万葉集、300
   (幣=ぬさ)

 「めかる」とは長い間逢わないことの意味です。目離ると書き、やがて媾(め)離るの意味を帯びる。今は山里の冬の寂しさには、訪ねる人もない中で、とりわけて想うひとに逢えないという歌。クランケは恋煩いだったのです。源宗于朝臣は、みなもとのむねゆきあそん。光孝天皇の孫なんですって。そんな寂しいところに、まるで隠遁者みたいに、なぜ棲んでいたの? 「どこあそんでんのよ」と妹(いも)をいたずらに焦らし過ぎて、振られた未練歌だったとは、深読みのしすぎでしょうか。

 出典は『100人で観賞する百人一首』(教育出版センター)

 山田には 頭の良さで まさりける
     ひとつ敵わず 彼はモテけり   berander



珍本・百人一首』 第弐拾九首    平成18年5月7日

 

 心あてに をらばやをらむ はつしもの
     置きまどわせる しらぎくの花   凡河内躬恒


 

 この歌の作者の読み仮名は、おほしかふちのみつね。『古今集』冬の部に「白菊の花をよめる」として入っています。解説しているのが峯村文人と言う人です。第十九首で解説しています。その時自分に宿題を出してありました。

 1913年(大正2年)長野県生まれ。文学博士。東京教育大学教授・国際基督教大学 大学院教授を歴任・・と有りまして、現在の活動状況は、私の突っ込み不足で明言できません。峯村三兄弟で歌誌『潮音』、の選者を務めています。大正4年創刊の『潮音』の主宰者は太田水穂と成っているようですが、水穂も長野出身、更に窪田空穂と言う人も長野県人。皆で和歌の普及と実践を積んでいるようです。でも峯村の長兄国一が1888年生まれですからその年齢の開きは25歳です。バース・コントロールもなんのその、なんていうわけにはいきません。私の兄弟の例で言うと、第一子の長姉は、結婚した後昭和28・9年に既に幼児一人が居て、その時の私が八歳くらい。多分年齢の開きは20歳近い。そんな兄弟姉妹が何処にでも、ころころ生まれていたんだろうと思います。

 さて、この歌の構成について解説の内容を引用します。【二句切れで、倒置法が用いられ、体言止めになっているが、文脈はしたがって歌意は明らかで、・・】

 そうですか、印象とおりのままで好いのなら、解りやすくて結構毛だらけ、庭霜だらけ。“心あてに”があて推量で、くらい、判ります。そして、その場に同僚とか、一族とかが一緒に居るようなときであったらきっと、その人たちとやり取りが有り、この庭に降りて、「わぁ」とか「きゃー」とか「わおぅ」とか言ってはしゃいで居たような残像が残ります。

 心あてに とらばやとらむ ひもパンの
     腰くねらされ イライラの我   berander



珍本・百人一首』 第参拾首    平成18年5月10日

 

有明の つれなく見えし別れより
     暁ばかり うき物はなし  壬生忠岑



 

この歌の解説は、折口信夫さん。二度目です。第十一首「わたのはら・・・」で、私が少し判りにくいから困っていることを書き残していました。今度の困ったことを言うと、この歌に詠まれた時刻の事。彼の表現では2つの想定をしているだけで、やはりはっきり言ってくれていない。

 @ 有明の月は月齢20日頃の月です。だから十五夜から五日経っている月で、月の出の時刻からが最早真夜中に差し掛かる頃である。その月が天空に差し掛かる頃に白々と空が明るくなり始める。そんな時刻−−そこで一先ず説明が終わり、

 次にA 今では暁も有明も朝となるが、昔は午前零時から二・三時ころまでを言っていた。だからその月が昇り始めた頃、まだ深夜の頃だと言っている。しかし百人一首に載せるにあたって定家辺りの解釈では、「そろそろ夜が受け始める頃」くらいな意味に捉えている。

 そう言っていて、ご自身は時刻をどう捕らえてくれているのかは、ハッキリ述べてくれていない。

 さて、真夜中にいとまを取った男の嘆きか、白々とした夜も明けたころのそれかでは、女とどのような関わりがあった後か、大いに状況が異なっているように思います。

 今で言うと、@「今なら終電車に間に合うから、今夜は帰ってくれない?」(=今夜はその気になれないわ) A「始発電車がそろそろの時間だから、とっとと帰ってくれない?」(=もういい加減離れてよ)、と寝不足の朦朧として状態で、ベッドを追い出された状態か、程もある違いではないだろうか。

 我々がこの歌を鑑賞したとき、そのどちらが心空しい気持に成るかを、任せているのかもしれない。そこが、かえって解説者の折口信夫さんは、心憎い情緒の機微を私たちに考えさせようとしたかもしれない。出典は『古今和歌集作者別講義』(中央公論社『折口信夫全集ノート篇』12)です。

 歌の作者は、みぶの ただみね と読みます。最後にこの歌は『古今和歌集』に載せられている歌で最も評価が高かった、と言う記録があるそうです。「オリコン・チャート」第一位みたいに。

 ところであなた、どんな思いの経験でしたか? 女性も、相手を帰らせた立場で思い出して下さい。

 有りたけの 小銭で払う レジの客
      待たすばかりの うき物はなし   berander




 第31首〜40首