珍本・百人一首

『珍本・百人一首』 八拾壱首より九拾首

『珍本・百人一首』 第八拾壱首
   5月17日

 

 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
    ただ有明の 月ぞのこれる  後徳大寺左大臣

 第五句の「月ぞのこれる」を、夜の白々明ける頃となって、上弦の月が西に傾ぶきかけていた、と捉えてみました。つまり、周りが明るくなり始めて、鳥達も目を覚まし巣から蠢き始めた頃合いのホトトギスの啼き声が聞こえて来たので、庭に目を向けて見た光景を詠ったものと解釈しました。

 今回の解説の中にある内容は引用のし甲斐があります。

 【詞書の「郭公」は、ホトトギスとよむ。郭公のほか、この鳥の漢字表記には数多くの書き方が有る。杜鵑・時鳥・子規・杜宇・不如帰・不如帰去・沓手鳥・蜀魂・蜀魄・霍公など。異名にはクキラ・シデノタヲサ・タマサカドリ・ヌバタマドリ等、二十種ほどを『大言海』はあげている。ナイティンゲールを日本語に訳す場合にホトトギスとしている例はずいぶん多いはずであるが、どうもこれはちがうらしい。・・・】 久保田正文『百人一首の世界』:文藝春秋社刊

 付帯的にカッコウも「郭公」と書く話も出ていて、これは違う鳥なのに良くにているところがあるのだろうか(種としては親戚関係とも言える)。この辺、古今から知ったかぶりの人たちが、自分の思い込みやこじ付けなどを吹聴したものを、兎に角受け止める側の多くの人が、「そうなのかァ 雑学・雑学・・・」と喜んで騙されていった経緯が無ければこうも煩雑にならなかったのではないか、というのが私の解釈です。

 前八十首目の歌を自分が解説した際、与謝野晶子の歌を二首ほど持ってきた際に参照した彼女のあまたの歌の中にも「ほととぎす」を登場させたものがかなりありました。そのほか、文藝の世界では万葉の昔から登場するし、比喩として有名な、啼き声ひとつに、無理強いされたり、殺されるかも知れない思いをしたり、暖かく見守られたり、数奇なエピーソード満載の鳥ではあります。後徳大寺左大臣とは藤原実定の事、雅な貴族達はこの鳥のけたたましい鳴き声をどのような感慨で聴いたものであろうか・・・目覚まし時計がわりだったりしたら、面白い。

     帯解きの 音する方を 眺むれば
        ただ腹ぼての 一夜妻なり   berander


 返品できません。願わくば『名器』



『珍本・百人一首』 第八拾弐首   5月20日

 

 思い侘び さてもいのちは あるものを
      うきにたへぬは 涙なりけり  道因法師

 第四句目は「憂きに堪えぬは」と漢字が充たります。

 これまで書いてきている各首の表記は、全て『序』で紹介したの各首が、冒頭に枠で囲ってあってその中に書かれた表記に従っています。続いて補足的に、かな・漢字を替えて表記したものが出ています。こちらの部分をあくまで、意味解釈のための参考表記と捉えてきました。幾つかの百人一首解説本にも漢字の充て方はさまざまになっているようです。

 この事はこういうことではないか?と推測したものを書いてみます。基本的には、現代の解説本は、その著者が私たちに理解しやすいように考えて、現代文の体裁で表記しているだろうと思います。元々、百人一首は勅撰和歌集八集の中から、選抜されてなされています。ではこれらの和歌集それぞれがオリジナルか、ということになると、これが又、様々なところから拾い出している−−−例えば私歌集であるとか、歌会における記録にあがったものであったりしています。

 ということは、当時の写し技術は、直接の執筆に拠る以外には無いのだから、ゼツタイに原本のままでCOPYされたとは限らなくなります。ひとつに単純ミスによる「へ・に・を・は」等の書き間違い、あるいは地名などの様々な表記や、呼び名の移り変わりによる変化もあるかもしれない。さらには、それぞれの選抜の際、各歌を選者が個人的好みで書き換えてしまったケースがあったはず。

 このような話は論ではなく、イメージであると述べておきたい。そして、無視してはいけないものとして、和歌そのものが日本古代・中世の文明・文化の中においてどんな位置にあったか、ということになります。

 さあ困った。私の中の古代・中世時代に戻ってみても、歴史・国語の古文などの中学、高校時代に学んだ知識以来殆ど成熟していない。これもまた想定ないしイメージ−−それについても限りなく『ロマン』に近い個人的考えに成っているのですが・・・当時の先進国中国(例えば、隋、唐)から文字で入ってきたのは『漢字』だったものを、噛み砕いて発明したのが、『平仮名』文字であった事は異論無しでありましょう。それが広く日本人の中に浸透していく過程で、その文字を習得しようとした人たちは庶民の中にもあっただろうし、宮中に仕えた女性の中にも多く居た。

 新発明のかな文字は、兎にも角にも漢字表記をイメージしないで、呼び方で書く事のできる便利さが強く各人に受け入れられたのではないか。『国語審議会』みたいからの通達もなかっただろうから、各人の自由な意志で、あのようにすらすらと筆を操って文や和歌が出来て行った。

 例えば『聴く』か、『訊く』か、『聞く』かなどと余計な神経を使う必要が無い『きく』で良いわけだ。これが選者ともなると、「えへんッ」などと識者ヅラして、人の歌をいじってもみたくなって、改ざんに近い写しを行なっていたことも有ったに違いありません。

 今回八十二首目の歌の解説を全く無視して此処まで書いて、さあ、此処から短く本来のものを書くことになります。

 作者は道因法師とあるからには、この人物はお坊さんであって、お寺に居住している人。こんな人も女のもとに通っていたり、恋に身をやつしていたのだろうか。兎に角涙が出てくる恋の辛さなんだから、相手の女性につれなくされたり、はっきりと「お断りいたします」と言い渡された様子です。この嘆き方が歌の中に華麗に現われている、と評価され『千載集』に撰入され、そして、『百人一首に選ばれた。ほか、色々エピソード満載の人物であるけど割愛、早くパロディー歌の創作に取り掛かりたいため。

 元歌をもう一度紹介しておきます。

  思い侘び さてもいのちは あるものを
      うきにたへぬは 涙なりけり  道因法師

   「重いわよ」 さても支えて 乗るものを
       腕に堪えぬは 加齢なりけり    berander



『珍本・百人一首』 第八拾参首   5月30日

 

 世中よ みちこそなけれ おもひいる
     山のおくにも 鹿ぞなくなる  皇太后宮大夫俊成

 この歌の解釈のポイントは、直感で第二句にある、と思いました。第一句の「世中よ」と、まず詠嘆調に世のなかを持って来ているからそう思った。案の定・・・ということだった。この歌の解説は大岡 信氏です。(『日本の古典』第11巻:河出書房新社刊)

 『小倉百人一首』の編纂責任者の藤原定家はこの歌を高く評価していただけでなく、『遺送本近代秀歌』・『二十四代集』・『自筆本近代秀歌』などにも載せている。で、この俊成とはいかなる人物か? 「大夫」とは、【律令制で、五位の者の総称(=旺文社『全訳古語辞典』)】とあります。天皇の正室の住む館の警護とか皇后や女官の話し相手とか、用務を仕事としていたと思います。

 こういう人物が「道こそなけれ」と言った本意は何なのか、と定家は『千載集』に載せる際に可也推薦にためらいがあったと解説者が述べています。良く解る話であって、時の権力の中枢に棲息する人物が世をはかなんだ歌を詠っているのは(そしてそれを選抜することって)善いことでござろうかのう、などとあとで紛糾の矢面に立たされないだろうかと、躊躇していたのだが、勅命があって、入集と成ったそうです。天皇が「善いぞよ」と言った訳です。

 三句・四句でいきなり「山の奥深くに居る鹿さんだって鳴いていますでしょう」と連想を入れている。

 鹿の鳴き声はわびしさ・わびしさの象徴です。そうであればこの歌は、まさに厭世・遁世(とんせい)の物となるわけです。平安貴族は着ている装束の袖を涙で濡らして「よよ」と泣くような感情も恥としない。だから物想いにふけって気も落ち込んだりするだろうか−−−単なるナルシズムなのではないだろうか。この歌が出来てさっぱりした後は、日頃懸想しているあの女にちょっかいの歌など、下僕に届けさせようか、と恋の歌など創り始めていたのが真相だったりして。

 「父上、それって本当だったの?」と、ほれ、息子の定家が心配するじゃありませんか、俊成殿


   世の中よ 年こそ過ぎて おもひいる
      顔の肌にも 艶ぞなくなる  berander


 女性の抗い難い天敵・・・それは加齢。しかしこれで厭世と成らない。大体が敢然と立ち向かっているのですから平安貴族もしっかりしてくれ、と時空を越えて言っておきたい。


『珍本・百人一首』 第八拾四首   6月16日

 

 ながらへば 又この比や しのばれむ
     うしとみし世ぞ 今はこひしき  藤原清輔朝臣

 この歌も嘆き節が底を流れているようだ−−−と印象を感じた後で、解説の内容に入ってみました。解説者は小沢正夫氏、『100人で観賞する百人一首』:教育出版センター。

 文言の具体的意味解釈は省略されているから部分的に不解決なところが出てくる。独自の解釈で踏み込んでみよう。 「又この比や」は、「また、このこれや」と読むのだろうか。「此」になっていないが、大体の意味は、「あれこれの事が」と言う意味だろう。そして、全体が「昔は(自分の人生には)いい時代だったなあ。もう過ぎ去った時代が恋しいよ」となる。この歌に解説者も、作者のエピソードなどでそんな解説をつけています。ではこの歌の背景を解説のなかから抜き出して書いていきます。

 この歌は彼清輔が従兄(三条大納言藤原公教)に書き贈ったもの。御歳(おんとし)30歳頃であった−−ほう、平安当時の貴族の男子平均寿命がどれだけかは知らないけど、もう先が見えている頃とでも言っていい年齢なのだろう。その時点で極極身分の低い官職であった様子で、この歌のほかに、天皇にも「何とかしてくれ」と歌を差し出している。ついでだからその歌も紹介してしまう。

   やへやへの 人だにのぼる 位山 老いぬる身には 苦しかりけり

 昇進の道を登山に例えている。後からどんどん後輩が追い抜いて行ったんだろう。その時清輔少しも騒がず、とは成らない。こんな時本人はどんな心境に成るのだろうか? 現代人が感じるものと全く同じものであった、と言い切っていいのだろうか。

 思うに、上を行く相手に向けた「チクショー」という感情が約80パーセント、のこりの殆どが、「ドーシテ?」と、選抜する人事担当者に向ける苛立ちで成り立っていたと思う。つまり、「カッコワリー」という卑屈、屈辱感がモロに現われていないのではないか、このような感情は当時の日本人には自己の内面を分析する作用は働いていなかったと思うから表面で意識する事はなかったでしょう。此れまで観賞してきた歌の中にある心情を解釈して、そのように思う。

 「劣等感」って新しい感情なのだと思う。


   長ければ まだこのこれで 好まれむ
      しかし起きねば 妹は去り行く   berander


 劣等感情が沸いて来る。


 
『珍本・百人一首』 第八拾五首   6月24日

 

 夜もすがら 物思ふころは あけやらね
     ねやのひまさへ つれなかりけり   俊恵法師

 ねや=閨。 「あけやらぬ」は、「あけやらで」となっていることがある。−−とのこと。

 この歌を解説しているのは白洲正子さんです。

 自分の昔の事ですが、この方の書き下ろしで『西行』と言う本が発売された時、一瞬的ですが「買いたいな」、と思ったことがあります。前後して別の何かの読み物で、西行の人となりについて読んで西行熱が醒めた事があって、当の本は買わずじまいとなった(値段も高かった)。

 西行は勝海舟翁が絶賛した人物です。その言葉を『氷川清話 勝海舟自伝』:広池学園事業部刊(絶版)より引用してみます。

 【西行法師は、古今第一等の人物だろう。試みにその歌を誦してみると、彼が高潔の姿は彷彿として眼の前に現われるよ。一たん志を立てて超然として脱俗し、少しも世をうらむふうがなく、一生を風雅に托したのは実に高士ではないか】

 此処まで言われちゃ、お付き合いをお願いしたくもなります。でしたが時々都の近くに出没しては、旧交のあった人たちと何かと交友していたとか。脱俗もクソもなかったかの様子で、その何かの読み物に書かれていたわけ。

 こういうときは、史実と後世の解説の相違をもっと突き止めて自分なりの決着をつけていかなければいけないでしょう。よし、白洲正子さんの『西行』読むべし。幸いにも文庫本が追刊されている。500円。

 兎も角、第八十五首の今回の和歌を、解説者白洲正子さんとしては、坊さんが女の気持になって詠うことはよくある手法であると述べた上で、更に「歯切れの悪い歌だと私は思う」と書いています。

 この評価について自分は、少し、追(つ)いていけないところがある。何がどういうことで歯切れが悪いのだ?−−−異性の気持を詠うことを代詠と言うそうですが、つまり彼女は、「この男の人(俊恵法師)、女の独り寝の寂しさが解ってないわ!」と言いたいのだろう。でも歌った人はもう何百年も昔に生きた人なんですから、時空を越えた文芸批評となるわけ。女性であるからして、理屈でなく情念を以って。

 その点自分の初感想は、「坊主が女恋しくて、独り寝のわびしさを歌うなんて何たる不届き者、男だろ、お床の中の男だろ」と言いつつパロディ歌の制作となりました。

   世も末だ 物こぼす児は あげないと
      ママの愛さへ つれなかりけり   berander


 


『珍本・百人一首』 第八拾六首   7月16日

 

 なげけとて 月やは物を おもはする
       かこちがほなる 我なみだかな   西行法師

 あれあれ、前八十五首の解説の中で、登場させ、あれこれ噂していたからなんだろうか、この歌は当の西行法師ではありませんか。

 毎回の歌を紹介する際には、此れまで、この先にどんな歌が登場するかなどと先を読むためにページをめくることもなく、一心不乱に、その歌のみと格闘してきたから、いきなり出くわしてビックリしている。

 そうか、彼西行法師はこんな風にして、諸国に出没していたのか、そしてとうとう21世紀のITの世界にまで漂泊とはさすがである・・・ちょっと飛躍しすぎる捉え方だった。

 ここで言い訳をすると、前回の書き込みが終った途端に、白洲正子さんの著書『西行』を買う意気込みなんか、何処かへ置いてきている。そこで改めて西行についての現代文学者の作品などを調べてみると有った−−そのひとつに辻邦生:「西行花伝」。

 辻邦生氏の作品では、「回廊にて」と「安土往還記」を読んだ。凄く感動的な文章である。「回廊にて」では確かタペストリについての、物語主人公の思い入れが主題だったかな?兎に角作品に描かれた場に、自分の心身がすっかり入り込んでしまう文章力だった。

 「西行家伝」読むべし。そして読後において、今回の一首を観賞してみたら、きっと褒めちぎるなり、ケチつけるなりしたとしても、徹底したものになるかも知れない。

 そんな if の話は抜きにして、兎に角この歌で難解なのは第四句の“かこちがほなる”の言葉である。「しょうゆがほ」なら解るが、ということである。ところで「ごましおあたま」、「やなぎごし」、「ビールばら」、「もちはだ」、から「白魚のような手」、「蒲柳の身」に到るまで、日本語には比喩をうまくつかって体の形容とか部分を言い現わす事が多く在る。

 この「かこちがお」は、かこつと言う動詞形の言葉で動作された顔の意味であると思う。この歌の解説は山本健吉氏(新稿)ですがその中で、江戸時代中期の真言宗の僧であり、和学者(国学者)の契沖(けいちゅう)がこの歌を評した一文を引用してみます。

 【・・・では契沖は、どのように恋の心を注しているか。「恋する身のいねもやられぬまゝに、月を打ながめをれぱ、いとゞ物思ひのまさる時、かくなげゝとて月やは我に物を思はする。外に物思はする入の有りゆゑにこそ、月に向ひてもかくはなげかれる。ことわりなく、何のとがなき月をきらひがほにも涙はこぼるゝ物かなど思ひ返してよめね心なり。」】

 この文の最後の方で、契沖が「かこちがほ」を「きらいがほ」と表現しているのを紹介し、その上で解説者山本健吉氏はもう少し意味を付け加え、相手に愚痴や不平を言う時の面だと書いています。その上でこの歌をもう一度観賞してみると、西行が月に「お前さんがこの私につらい気持にさせて居るじゃないか」、という状況なのだ。恋しい人の事を思いながら酒を呑んでいてつい、酒に愚痴をこぼすのと同類な感情ということになる。美空ひばりさんの「悲しい酒」の世界に否して似なり。

 百人一首の選者藤原定家は、西行のこんな人間性に可也傾倒して、彼の歌を様々な歌集に幾つも撰出しているとのこと。そして、彼を含め幾人かの歌人が西行の歌を「平懐(へいかい)体」であると評した。歌論用語で【ことさら作為的な趣向を凝らさない事】とあります。

 成る程、海舟翁も西行のこの辺りの心情の持ち方や歌の透明感にコロッと、もとい強く心打たれたのだ、読むべし「西行花伝」、あるいは「西行」。

   投げつけて 今夜は物を だめにする
      喧嘩がちなる 我が夫婦かな   berander


 


『珍本・百人一首』 第八拾七首   8月4日

 

 むらさめの 露もまだひぬ 槇の葉に
     霧たちのぼる 秋のゆふぐれ  寂蓮法師

 嗚呼、「美しき日本」の真の意味とは、この歌に詠じられた情景と、其れを心で愛でる人の心を言うのだと確信した。

 この歌を取り上げて今書いている外では、薄雲こそ空には在るが真夏のほてりが、これから関東地方の広域で強まっていくと思う。その気候に居てこの歌の世界の中に入っていくと、気持の中に清涼感がにじみ出てくる。

 小倉百人一首中、隋一と推す人が少なくないと解説者の大岡信さんは言っています。勅撰和歌集の(最も耽美的であると思う)新古今和歌集巻五秋下にあるとのことです。

 歌会があってこの時は、10人(当代十傑くらいか?)が各人十首を持って五十番の対戦となった。この時寂蓮法師が出した十首の中のひとつであると、新古今和歌集の詞書にある。

 【五十首歌奉りし時 寂蓮法師】

 何せ、登場人物がすごい。全員の名を列記してみます。忠良・慈円・定家・家隆・寂蓮、以上が左方。右方には、後鳥羽院・良隆・宮内卿・雅経・越前

 何を隠そう、どうすごいのか私にはよう判りません。退位された天皇(後鳥羽院)がメンバーに居るくらいなんだから、兎に角これ以上栄誉あるキャスティングは無いのではないか?という想定で判断して納得しよう。

 霧立のぼる?今度は宝塚スターの名前が出てきました。この『珍本・百人一首』の序の中で、宝塚スターの名に百人一首の歌の中の言葉を取ったものが多く居た、と書いた事があります。今度はこちらの女優列記をして見ます。参照したサイトを最後に表示させていただきます。

 ・秋田衣子(あきたきぬこ)
 ・大江文子(おおえふみこ)
 ・逢坂関子(おうさかせきこ)
 ・小倉みゆき(おぐらみゆき)
 ・雄島艶子(おじまつやこ)
 ・雲井浪子(くもいなみこ)
 ・関守須磨子(せきもりすまこ)
 ・高峰妙子(たかみねたえこ)
 ・筑波峯子(つくばみねこ)
 ・外山咲子(とやまさきこ)
 ・松浦もしほ(まつうらもしほ)
 ・三室錦子(みむろきんこ)
 ・三好小夜子(みよしさよこ)
 ・八十島楫子(やそしまかじこ)
 ・由良道子(ゆらみちこ)
 ・若菜君子(わかなきみこ)

 以上、なんと宝塚第一期生16名の中で高峰妙子一人を除いた全員が百人一首の中から生まれたも同然、と言う事になります。「生みの親である阪急グループの創始者小林一三の好みに因った」と有ります。道楽と言うか御大尽というか、考える事、興す事がスゴイや。勿論その後も、全ての名前を挙げることができませんが幾人も百人一首の中からスターが生まれています。

 因みに、高峰妙子さんは、男役第1号。

 参照したサイトのURLを記しておきます。単独ページになっていてハイパーリンク等何も無いところなので、作者へのお断りもできずに掲載しています。

 http://members.at.infoseek.co.jp/jsjtm/takara.htm

   大食いの 粒もまだひぬ 箸の端に
         たちまち求む 次の夕飯   berander


本歌及びパロディー歌の中にある 『ひぬ』は干ぬであって、乾く間もなくの意味です。
 

『珍本・百人一首』 第八拾八首   8月5日

 

 難波江の あしのかりねの 一夜ゆゑ
     身をつくしてや 恋ひわたるべき  皇嘉門院別当

 まず、作者の事を解説の中から取り出して紹介してみます。崇徳院中宮・皇嘉門院聖子に使えていた女房です。つまり、お付きの女官です。解説者は馬場あき子さんです。歌人、文芸評論家、短歌結社「かりん」主宰。日本芸術院会員。朝日新聞歌壇選者。・・・(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 平安朝の貴族社会から鎌倉幕府政治の初めの頃は、日本の中枢に居る人には和歌を詠えることが、如何に重要な事であったか、知る機会を得ました。辻邦生氏の著書『西行花伝』の中にこんな記述があります。飛び飛びの引用となります。

【 清盛どのは、・・・反対なさいました。
「私は、この世を変えるのは権力(ちから)しかないと思うな。君の言う気持は分る。だが・・・歌は風のようなものだ。打ってくる太刀をどうやって受けとめることができる」

「たしかに私は蹴鞠も好きだ。馬に乗るのも嫌いじゃない。・・・なるほど歌は風のようなもので、打ってくる太刀を受けることはできない。だが、激しい風が家を吹き倒すように、歌も人の心を吹き倒すことができる。天地の色合いを変え、悲しみを喜びに、喜びを悲しみに変えることができる。性情(ひととなり)を変え、運命(さだめ)をすら変える。歌にはこの世を変成(へんじょう)する力があると思うな」 】

 若き頃の西行は佐藤義清と名乗り、院御所北面の近衛府に任官していた。鳥羽院に可愛がられ、あるいは、孤独な虚空に立ちすくんでいる院の心の有様を見て、歌を奉じることで、主人が心安らかな生活を送る事ができないものかと、歌の創作に精進する決意を持った。そんな時、友人の平清盛との、上に引用したような議論が展開されたのです。

 中世のインテリであっても、果たして比喩を以って此処まで理論を組み立てることがあったのか、自分としては疑問を持った。辻邦生氏としては現代人に読ませる西行像だったから、と言うことでこの疑問は、『珍本・百人一首』を終えた後に、追求してもよいと考えています。

 其れはさて置き、こうして、女官といえども、一衛士といえども、歌ひとつで地位、名声が上っていったのも事実です。そして、歴史にもその作品と共に本人の名は残っていったのです。

 歌の中にこめた(重ねた)掛け言葉のテクニックがそのまま、その一夜の閨のテクニツク(技巧)に重なって、とても妖艶な歌となって響きました。当時のおとこは、女性にどんな事を求めどんな事で奉仕され、あるいは奉仕していたんだろうか。後日の研究対象に・・・したい気も在る。

 もうひとつ女官の仕事の事で自分の心においてある、いわゆる雑学的知識を書いてみます。

 西洋で服装にボタンが使われたのがいつの頃かは定かに言えないが、いわゆる王室や貴族のお姫様や王妃がこのボタン付きの(勿論ボタンホールも在る)洋服を着たとき、着たと言ってもメイドに着せてもらったのだが、どうにも男と同じ、右にボタンがついていたのでは、メイドが扱い難い。そこで女性の服のボタンは、左につける事で解決した。高貴な方の独占的服装だったんだから。

 この話の出展に記憶が無いから信じられるかどうかは分らない。


   毛深くて 足のつけ根の はみ毛ゆえ
       身をひろげてや 剃りなさるべき   berander


 「姫、この作業、お言付け下さい」

 ・・・かつて日本の遊郭に出入りしていた「下刈り屋」という職業が有ったようです。剃るというより擦り切ったり抜いていたようです。“いたずら”もしないでお努めできたんだろうか、女性によっては此れがたまらなく快感だったらしいのです。
 

『珍本・百人一首』 第八拾九首   8月30日

 

 玉の緒よ 絶えなばたえぬ ながらへば
      忍ぶることの よわりもぞする   式子内親王


  (一般的に第二句目は絶えなばたえぬ=絶えなばたえね)

 この歌に解説者の寄せた文は、歌の解釈ではなかった。王朝文化・文学への挽歌であった。綿々と哀悼を込めて、この歌の作者、後白河天皇の第三皇女・式子内親王の歌を通して、滅び往く貴族社会の様々な立場の人(主はやはり貴族)が、時代の流れを如何にして和歌に詠みこんでいったかの解説をしている。

 歌の作者の生きた時代は、【ほぼ久寿元年(1154年)ごろ生まれたと推定されている。亡くなったのが建仁元年(1201)正月25日とされているから・・・】

 まさに、鎌倉幕府が成立する(1192年)前後の、世も激変の時であった。天皇(現役)・上皇(退位)・法皇(出家)が入り乱れての、権欲、愛慾の葛藤もあった。その上に藤原家摂関政治における国政の私物化・二重構造性も衰退の因となって行く過程で、仕える身であった武士(平氏)はやがて一瞬の天下人となり蜻蛉のように滅びて覇者・源氏の世界へと社会が激流となって流れていく。

 その時代に日本文学が大きく転換して行ったという。

 【・・・しかし同時にこの現実の変革は、王朝文化の華麗と幽艶を夕映えの最後の照りかえしのように文学史の上に投げかけるとともに、隠者文学で特徴づけられる、内省的、隠棲的、単色的な中世文化の閑寂と霊玄とを、時代の気分として正面に押し出してきたのであった。・・・ ・・・言うなれば、個の魂への真摯なる凝視が生まれた。・・・】

 こうした解説を読んでいくうちに、当の和歌のかもし出す雰囲気、内容が次第に輪郭を現してくるように感じられないだろうか。

 「玉の緒」を貴族社会の華やかさの具象とし、それらが消えて行って、そのことを生きながらへて忍んで生きていくことに気分が弱っていく」・・・このように解釈してみました。

 こう書いてしまうと、自分の感情が込められていない平坦な解説文になってしまう。其れが傍観者となっているようで少し不甲斐なさを持ってしまう。さて、式子内親王が様々に詠った和歌を通して考察してみるとその本質に「ながめ」におりて捉えられると、清水文雄氏(しみず ふみお 1903年 - 1998年)は熊本県出身の国文学者)が述べていることを解説者は、傾聴するに値すると書いています。解説者は辻 邦生氏。

 遂に辻邦生氏の解説に巡りあえた。折から、氏の著作「西行花伝」を読書中であって、その本の中で実に多くの平安人を登場させて、時代絵巻をたっぷり堪能している所であった。余りにも構築の巧い作品構成と、歴史考証の優れた人の作品は一味もふた味も違います。

 パロディー歌、創り難いなあ。許せ、いにしへの人

   玉の根を 舐めねば起たむ ながへのこ
       忍ぶる歳に 弱りもぞする  berander

 

『珍本・百人一首』 第九拾首   9月7日

 

 見せばやな を島のあまの 袖だにも
    ぬれにぞぬれし 色はかわらず  殷富門院大輔



  この歌にも、解釈がつけられていない。

 百人一首をひもとき始めた当初は、時々先行して在るサイトを覗きに行って「なるほど」と納得して、何食わぬ顔で自分のページを埋めて書き上げた事もあった。しかし、そのような他力本願的なことをいつまでもやっていられないと言うか、慣れるに従ってある程度歌の解釈ができるようになったと、この頃は思っている。

 自我流解釈であるかもしれないが、兎も角原文からそのまま歌の解釈をする醍醐味を知った。その味とは必ずとも、スカッとしたとか、してやったりとか言うより、何か複雑系な余韻を心に残していく残照感が心に植えつけられること。

 では、この歌をどのように解釈してみたか、先ず一句目の中にある「やな」とは何か。「やなアイツ」のやなではなさそうだ。古語辞典(旺文社刊:「全訳古語辞典)より、ここぞと思う解説を採った。

 【やな:(終助)間接助詞「や」に終助詞「な」の付いたもの。感動の意を表す。・・・だなあ。】

 「見せてあげたいなあ」と解釈するのに「見せば」の語に付いての「やな」とくるのが、チョット引っかかるが・・・。この歌には先行する類似の歌があって−−−観賞する立場としては、対比するべき歌、作者にとって、(私見ですが)アンサーソングないしご丁寧にも状況補足としての歌−−−となっているという解説が寄せられているのだ。

 ではその既存の歌とは、

  松島や 雄島が磯に あさりせし 海人の袖こそ かくは濡れしか 源 重之

     海人=あま。

 解説者は藤平春男氏。教育出版センター刊『100人で観賞する百人一首』

 そこで解説文の中で核心的な部分と思われる一節を引用してみます。

 【・・・重之歌を前提にして詠まれていることはまずまちがいないと思われる。・・・だが、これは定家などのやった本歌取りとはちがう。本歌の情景を背景にするのではなく、下敷きにして本歌の作意をより深めているのだから、これは本歌の「心」を取って深化したのである。・・・】

 更に、重之の歌の末句「かくは濡れしか」の部分には「四句目・五句目と使って(ただ濡れただけでなく)濡れ朽ちて袖の色が変わっている、とまで詠んでいる事が「深化」なのだと言う。

 ふむ。「色はかはらず」といっても変わったんだァ。これは深読みということなんだろうか。解説者は故人であるから、この点は問いただしたいナと思っても果たせない(生前であっても、一見の自分にはかなえられない)。

 さて、疑問をもう一つ。

 海人とは、女性(海女)なのか男(漁師)なのか断定しないということなのか?・・・ワカラナイ。しかし、その人たちが海辺で泣きはらして、着ている衣の袖を濡らす光景って何だ? これも良うワカラナイ(歌人にこれもまた確認すること能はず−−つい最近の某調査で、今の人が「もし昔に生まれて住むとしたらいつの時代がよいか」の回答で「平安時代」と答えた人が一番多かったとの事。知ってる?庶民にとって、生存を脅かす天災・疫病・犯罪が多い時代だったらしいと聞いているけど)。

 海人よ、ナイスうみんちゅう! グッドラック。

   着せばやな お寺の尼に 袖なしを
      濡れにぞ汗の 夏は適はじ  berander