珍本・百人一首

『珍本・百人一首』 九拾壱首より百首

『珍本・百人一首』 第九拾壱首
   9月10日

 

  きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに
    衣かたしき ひとりかもねむ  後京極摂政前太政大臣

  この歌をもう一度、ひらがなの部分を一部漢字にした表記があったので載せてみます。

   きりぎりす 鳴くや霜夜の さ莚に衣片敷き ひとりかもねむ

 最初の感想とはだいぶ変ってきました。作者の詠っている状況がよく見えてきました。これが、漢字の持つ威力だと感心させられました。ある意味でルーペ効果です。「これって何?」−−ひらがなで書かれたものを読むときに、文章をどのように区切りをつけて読んでいいのか解らない時ってあります。あるいは、単語の意味がどちらにも取れる言葉も有って混迷の重なりを経て、とんでもない珍解釈が生まれます。第十七首が正にそれ。

 この歌の解説者は大岡 信氏です。実に感銘を与えてくれる解説をしています。要所を少しづづ箇条書き的に引用しながら、百人一首和歌の真骨頂を描いて行きたいと思います。

 まず、この歌は『新古今集』秋の部に収められています。「きりぎりす」とはコオロギのことです。このことはおぼろげながら何かの機会に知った事があって、改めて確信しました。作者は、「ころころ ころころころ」と頼りなげに鳴く晩秋の虫の音を聞いています。独り寂しく虫の音を聴く作者、後京極摂政前太政大臣とは何者? 人物明かしは後にして、少し言葉のあやを解いて見ます。

 さむしろ(さ莚)の「さ」は名詞に付く接頭語。強調させることにつけるそうです。例えばアホの頭につけて、「と゜アホゥ」というのもこれに当たると思います。其れは兎も角、その上でひらがなのままに読んで、意味を「寒し」と掛けている。

 次に彼の寝姿については、「衣片敷き」で判るのだそうです。最初、何となく思い描いたのは、自分の肘枕でもしている姿でしたが、【自分の着物の片袖を敷いて。共寝の時は二人の着物を敷くから、片敷きは独り寝をすること。】と明解にしています。但し、仰向けうつ伏せその他については、確定せず、ワンセットシーンで想像してもよいかも。

 この「かも」を現代人が使うとき、何となく言葉が尻切れトンボみたいですがこれでいいのかも。と言うのは「ひとりかもねむ」の「かも」の解説にこうあります。

 【「か」は疑問。「も」は詠嘆の助詞。】

 従って、この歌は実質的には恋の歌であるといいます。そのことを説明するために、この歌の類似の歌をいくつか載せて、それぞれに一連の共通性があると述べています。読んで理解していくと、なるほどと思います。先ずは幾つかの歌を羅列してみます。この場では年代順になっているものかどうかは検証しないままに続けます。

 @ さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫
     『古今集』恋四

 A 足引きの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を 独りかも寝む
     『拾遺集』恋三・・・(万葉歌人、柿本人麻を本歌として)百人一首第三で載る。

 B 吾が恋ふる 妹は逢はさず 玉の浦に 衣片敷き 独りかもねむ
     『万葉集』巻九

 そして、百人一首冒頭にある天智天皇の歌との共通性すら、見出しています。

 C 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我衣手は 露にぬれつつ  天智天皇

 では作者とは・・・摂政太政大臣をやっていた後京極殿です。氏名(本名)が藤原良経(よしつね)と言う。忠通の孫に当たる。祖父忠通という人も、天皇・上皇・法皇を巻き込んだ『保元の乱』の時代にいて、恐らく政権中枢で何かと立ち働いた、大変な政略家だと思います。

 摂政太政大臣の位は、人臣最高位ですから、現代の総理大臣です。良経は和歌を俊成・定家に学びやがて彼らのパトロン的存在になった。更に漢学・書にも優れた博学多才な貴公子です。三十八歳で没する。

 天皇も、総理大臣も、ひとたび恋に堕ちれば、愛する女性のつれなさに、心を振り絞る恋歌を詠んだ、そんな時代を忍びつつ、ひときわ心が悠久な世界に導かれるような読後感を得ました。

     ギリギリで 穿くやひもパン 腰周り
        衣かたへら ほとを隠せむ   berander


  ほと:女陰と充てます。隠語です。漢字を無理強いして使っているようで漢字さんゴメン。




『珍本・百人一首』 第九拾弐首   9月21日

 

  我袖は しほひに見えぬ おきの石の
      人こそしらね かわく間もなし  二条院讃岐

  この歌の第二句にある「しほひ」が「潮干」である事はすぐに判った。勿論解説の冒頭でももう一度この歌を記して、そこが漢字で記載されていたから確かなこと。

 さて、詠わんとしていることも大体判るようになってきた。非常なユックリズムで、現在「西行花伝」を詠み歩ゆんでいるところで、この本中には物語の進行に沿って、西行の(多分自家集を多く引用して)和歌を随所に載せていて、この歌の内容にも一つひとつ踏み入っている。その過程で、平安和歌全般の語彙と用法のセオリーについて一部分なりとも読みなれてきた事もあると思う。

 「わが袖」の言葉がこれまでもいくつか百人一首にも登場した。これがまた、すべて一つのパターンなりだ。恋人のつれなさ、逢えぬ辛さ、失恋の痛手の心境を現す言葉である。この歌の解説の中にも【袖といえば涙と応じるくらいのもので、両者の結びつきは既定の約束事化していた】と述べています。つまり、どのような訳で泣くのかを理解すればよい事になり、そこからその和歌が評価される事になる。

 でもなあ。あんた達は色恋の道に居てはどうやら入り乱れて、お付き合いの機会を求めてアッチに足を運び、こっちに和歌を送ったり、今で言うと合コンしまくり・ケイタイメール掛けホーダイみたいな生活していたように想像しちゃうんだけど、それは違ってる?

 いくらなんでもそんな事はないと思って、この部分−−恋のうたが何故多く創られたのか。この点について考えている事がある。

 『珍本・百人一首』の中では、各歌の解説の中でエピソードにして述べるとして置き、百首を読みきった後、改めて『平安和歌短冊』(仮題)を編纂して、平安歌人の色恋沙汰を検証していくことで現したい。多くの歌集を読まなければならない、平安時代背景(宗教観・芸術館・政治・文化)等を効率よく多岐にわたって理解しながらの作業になると思う。少し不安ななれど楽しみ。

 其れにつけても今この歌の「作者が男か?女か?」という事すら、解説の中を捜してこない事には判明しない状態である。讃岐(さぬき)は地名である。出身地とか、ひょっとしてその人の憧れれの地であるかもしれないが、結論を言ってしまうと、この人は女性であるが「讃岐」の由縁は解説されていない−−−地位や地名、さらには上司とか役職等がその人に付けられて名前になる根拠は何か?そのことも『平安和歌短冊』の課題になる。しかしこの人の歌は結構ウケて持て囃されたそうです。この歌が周囲に知れ渡って彼女にニックネームがついた。

 『沖の石の讃岐』

 二条院天皇に仕えた女官だった。やはり名前のどこかにその人の人となりを言い表す公称が含まれていたのだ。この次に来る武士の時代よりも女性の地位は高かったということが判る。この歌の解説者は大岡信さんです。源三位頼政(よりまさ)の娘であると、さらにその父は宮中の鵺(ぬえ)を退治した武将でかつ歌人としても高名であったとご親切に教授してくれていました。

 この歌は、内心の深いところにある真情を詠い切っていると思います。

     我が袖は 洟紙みえぬ その時に
        そっとぬぐいて 乾く間もなし   berander


 ガキの頃、みんなどうしてあんなに青洟が出ていたんだろう。だから服の両袖口は、やがてバリバリのテカテカ。鼻紙に新聞紙を代用していたから、鼻の周りはインクが付いて黒くなっていたこともあった。


 

『珍本・百人一首』 第九拾参首   10月27日

 

  世中は 常にもがもな なぎさこぐ
       あまの小舟の 綱手かなしも  鎌倉右大臣

  この歌を解説しているのは、歌人斎藤茂吉氏(故人)です。彼は精神科医でもあります。出典は、『金槐集研究』−岩波書店『斎藤茂吉全集・第十九巻』です。

 この歌を解釈していくに当たって斎藤茂吉氏の解説および、部分的に出てくる箇所についてはいくつかのサイトの解説を併せて強く参考にしました。

 先ず、『金槐和歌集』は私家集だ、とある。誰かが自分個人の歌を集めてその人自身が出版するもの、とこちらは解釈している。載せる歌については、その人の歌の師匠とか、歌仲間が撰に加わったりしたこともあり得るだろうし、時には本人が死去した後に、周りの人が彼の書き残したものを発見したりして後に編み出したものもあると思う。

 そして解説には出てこなかったが、この歌の歌人は源 実朝であります。Wikipediaの冒頭でこう解説されています。

 【実朝(みなもと の さねとも、源 實朝)は、鎌倉幕府の第三代征夷大将軍。「鎌倉殿」または「鎌倉右大臣」とよばれた】

 ここまででようやく、この歌の戸籍調べがだいたい終ったわけ。次に進んで、この歌の鑑賞に入ってみます。

 自分でなくったってこの歌の第二句目「常にもがもな」に、「何のこっちゃ」と思う人は多いと思う。此れはいわゆる痒い(かゆい)ところであって、流石にドクトル茂吉がしっかりとここは掻いて(書いて)くれてあります。さすが、精神科医。

 【「常にもがもな」は、万葉集の・・・(断片的用例ありにつき略)・・世は無常であるが願はくは常住不変であれと希ふ意である。賀茂真淵は、「かなはぬ事をねがふは極めてふかく思ふ時の情にて古歌には此意を常とす(初学)と云っている。】

 「もう大丈夫?何か有ったら又いらっしゃい」

 では、お言葉に甘えて、直ちに第二問。古典に出てくる「かなし」を、もう一度きっちり理解したい。 「とても良い質問です」−−【「綱手」は船をひく縄のことであり、「かなし」は愛(かな)しであるが、上代は愛しも嬉しも悲しもあわれも総じて心に染みて感じ動く状を「かなし」と表はしたのである。】

 感じ動く状とあるのは、感じ動く状態ということのようだ。だいぶ痒みも取れた。そうなったところから、少し想像を膨らませてみる。万葉の昔から幾人もの歌人が、兎に角任地に向うにしろ、紀行をするにしろ、異国に来て浜辺や川の水辺に目を向けると、そこに息づくひとびとの姿や形(なり)の珍しさ、滑稽さ、美しさなどの諸々の事を叙情的な気持になって捉える傾向があり、そこで一首、となる事が多かったのではないか。今の世では携帯電話のカメラでパチリと撮ってお終いだが、歌で写景なんてスゴイもんだ。安直に撮ったカメラ映像には、情は映らないんだよ。

 鎌倉時代以降江戸時代に入って、再び庶民文化に戻ってきた文藝の中で、短詩系文芸で松尾芭蕉が陸奥(みちのく)を紀行したのも、古代・中世へのノスタルジーがあったともよく言われている。そして、「かなし」という言葉に込める心も少しづつ時代と共に変っていった。

 「かなし」は、やはり奥深い言葉だ。歌人茂吉っつぁんも、この九十三首目の歌が既に万葉の中にある歌、あるいは古今集の中にある歌共と全く同一だと解釈しなくていいと思う、と書いています。参ったな、又痒いところが出来てきそう。

     靴の中 常にも増して 掻きまさぐ
        足の小指の 付け根かなしも   berander




『珍本・百人一首』 第九拾四首   11月11日

 

  みよし野の 山のあきかぜ さ夜ふけて
       故郷さむく ころもうつなり  参議雅経

  この和歌にある第四句「故郷さむく」の部分は、作者自身の生まれ故郷と言う意味では無いと解説に書かれています。かつて、このみよし野(吉野山の麓)に旧都『吉野宮』があったところ、と言うことで、作者はその場所に立って、いにしえの栄華を忍びながら秋風立つ一面の野辺の風景を眺めて詠んだ歌、と言う事になります。

  歌の作者・参議雅経は、藤原雅経のこと。『参議』と言う地位は宮廷内官制度における太政官の内のひとつとして理解しています。つまり最高官位に匹敵するものです。

 この感慨を、時を経て流行歌の歌詞に発見する事が出来ます。昭和の大歌手・三橋美智也さんが唄う『古城』

 ♪ 松風さわぐ 丘の上
   古城よひとり 何しのぶ
   栄華の夢を 胸に追い
   ああ 仰げば佗(わ)びし 天守閣

   くずれしままの 石垣に
   哀れをさそう 病葉(わくらば)
   矢弾(やだま)のあとの ここかしこ
   ああ むかしを語る 大手門

   いらかは青く こけむして
   古城よひとり 何しのぶ
   たたずみおれば 身にしみて
   ああ 空行く雁(かり)の 声悲し

     ( 高橋掬太郎作詞)

 この歌謡曲の中に在る光景は廃墟です。歌詞に有る古城の今残っている建造物は、崩れた状態の石垣と矢弾の跡が残る大手門と、かろうじて持ちこたえ、長い歳月の間苔によって覆われていった甍を乗せている天守閣のある本丸です。

 『古城』と、百人一首第九十四首目の共通点として繋がって居る部分は、往年の栄華を忍びそこから人の営みの移ろいにひどく哀しい思いになっている人間の心です。この哀しさは、秋風が人の心に入り込んで掻き毟って引き出してくるのです。

 全国都道府県の県庁所在地の多くは、廃藩置県の号令下でも、結局かつての江戸時代の藩都であった場所は少なくありません。自分の郷里静岡県も静岡市(駿府)です。かつての駿府城内外は現在、公園・官庁・学園・文化施設・医療施設等が集積した現代都市の中枢となっています。栄華をより極めた姿に生まれ変わっているのです。明治維新の際、この地を倒幕のために東進した薩長軍達は駿府城天守閣を見たに違いない、どういう思いで臨んだろうと考えてみました。士気を高めたはず、「この先四十余里先に本丸あり」、と。

 悲しいかな日本の古城のいくつかは第二次大戦の米軍の本土空爆によって消滅したものも有ると思います。栄華を忍ぶもうひとつの哀しさは有るのです。

 戦国時代以降の権力者の館は城砦となり、高層建築となった。其れを小高い丘の上に立てることもあった。その廃墟を眺める目線と、平安時代までの都の中宮の址(あと)を忍ぶ目線は違う。参議雅経は眺望、三橋美智也は仰望です。その見つめる瞼のどちらから溢れてくる涙に憂愁は強いだろうか?

     およしなと 人の留守宅 小夜ふけて
        忍ぶ片足 友は曳くなり  berander




『珍本・百人一首』 第九拾五首   12月3日

 

  おほけなく うき世のたみに おほふかな
      我たつそまに 墨染の袖   前大僧正慈円

  まずこの歌の解説者を紹介しますと、土岐善麻氏です。そして、解説の出典は『100人で観賞する百人一首』・教育出版センター刊。さて、早速どのような人かとウェブ検索を試みたのですが、年表や著作内容を列記したサイトが見つけられませんでした。個人サイトや一部のミュージアム系に断片的に見ることが出来たので、その中にある彼の断片情報だけでも挙げておく事にしました。

 石川啄木晩年の友人・・・
 抵抗の歌人・・・
 出身地は信州伊那谷らしい・・・

 らしい、とはこの地をふるさととするある方のサイトに、母校の校歌の作詞をした人物と言う事でこの表現では土岐氏の母校を指すか、サイトを開示している人のそれかがちょっと迷う所と言うわけです。以下、これ以上の情報確認を打ち切り、本歌の解説の内容を加味して、自分の解釈と印象を述べて行きます。

 不明な単語の意味についてまず、理解を済ませておこうと思います。

 第一句の【おほけなく】は、意外と深い意味を持つ言葉のようです。「大胆にも」・「分不相応に」・「もったいなくも」などの意味を持つそうです。(神)・仏から見られている自分の小さな存在を意識した上で自分が仏と一体化した境地で・・・、そんな思いで為している状況・心境を本歌に現しているようです。

 【そま】 漢字は「杣」。これは解説の中でも察せられたが正確を期すと古語辞典の中に、比叡山の異称とあるからそのことだと思う。土岐氏の解説にも在りますが【関白忠通の子として生まれ、十一歳で比叡に上り、刻苦修行の後、二十七歳の時いったん山を下り・・・】、その10年後天台座主となって、四度もこの高位について居る。比叡山延暦寺は天台宗の総本山です。

 【黒染の袖】は、法衣のこと。法衣を以って、世の民を(慈悲で)覆う仏と一体の境地になりたい思いを込めた歌に仕上げた。

 何だァ、すっかり解釈が出来てしまったようです。解説の中にある一部に、少し本歌とは離れた事を含めて引用してみたいところがあります。

 【・・宗祖伝教大師最澄が比叡山を開いて根本中堂を建て、そこを仏法興隆の道場としたとき、「あのくたらさんみやくさんぼだいの仏たちわが立つ杣に冥迦あらせたまえ」と祈誓をこめ悲願を述べた、その志を継いで、・・・】とあって、慈円大僧正の心がけの動機までもがわかってくるわけですが、歌を詠んだ時点では、まだ若い時だから、後の百人一首を編纂した際に「そういう人(大僧正)だよ」と言っている事になる。

 そして、なにやら密教の呪文みたいな「あのくたら・・」を読んでいて『般若心経』に似た箇所があったような気がしたから開いてみると、ありました。この部分を漢字で現してみます。

 得阿耨多羅三藐三菩提です。意味不明。般若心経の教本は、屏風折りにして畳まれたもので、教典と解説が表・裏になっているのですが「阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり」と流しているだけ。門前の小僧だって、いくら聴いてもありがたい物なのか、何らかの境地(仏法世界観)みたいなものを得ることなのか、ワカラナイと思います。

 大乗仏教と小乗仏教について自分の解釈している事を述べると、修行を積んだお坊さんが、広く民衆に、仏の教えを広める(布教)するのを大乗、一個人の哲学を磨くためとして最後まで坊舎に居続けるけるのを小乗としています。この伝法で行くと、慈円大僧正はまさに大乗仏教に則った人になります。

 この僧正は西行法師と親交があった。それぞれの生没年は、慈円(1155〜1225)・西行(1118〜1190)です。西行が最晩年に、強い思いを持って、自分の歌を藤原俊成・定家父子に批評(撰?)をしてもらい、慈円に清書してもらってから、何をしたかというと、この歌集を伊勢神宮に奉納しているのです。わ〜ッ、既に日本の宗教界は神・仏の習合があったのです。僧正と宮司が、なんのこだわりも持たずに、お互いに相手を認め合っている事を想像させてくれる。西行自身も出家僧侶なんです。

 そう言えば、何年か前に郷里の菩提寺で両親の合同五十回忌法要を行なった時、お経をあげ終えたあとに、住職さんが、「これで仏様は神様のお仲間にも成られたわけであります」と確かに言ったと思います。「神様になった」と言ったんじゃあ、この後、お寺さんは処遇に困ってしまうのだから。

 自分は現在辻邦生氏の『西行花伝』をまだ読み終わらないで居て、只今は十七の帖まで読み終えたところ、その時点で、大学図書館から借りてきた本があって、NHKbooks「西行の風景」:桑子敏雄著の「はじめに」の中で、西行と慈円のくだりを知ったわけ。『西行花伝』の最終章の二十一の帖で、慈円が登場する事になっています。春の終わり頃から読み始めて、未だに文庫本の110ページあまりを残している。来る平成二十年の年の初めが、この本の読み終いとなるやも。

   おほけなく うき世のたみに おほふかな
    我たつそまに 墨染の袖   前大僧正慈円

  おケツ出す ベツドの人に 覆うかな
     我たつ魔羅に ローションの液  berander


      詞書:ホモ愛にあらず詠める

 こんな慈悲に満ちた和歌に何たるパロディー歌。相方へ天国にも昇る思いをさせてあげるからと言っても、これでは神罰が当たって、地獄道に移送されそうです。地獄道にお百度踏んでどうするつもりなんだ。



『珍本・百人一首』 第九拾六首   12月14日

 

 花さそふ あらしの庭の ゆきならで
     ふりゆくものは 我身なりけり   入道前太政大臣

  花びらが風に散っていく儚き様を、わが身に例えて詠歌している。

 この歌の作者は、藤原公経(ふじわら きんつね)と解説に在ります。入道になる前は太政大臣だった。多分に閨閥の益があった。自分の奥さんが源頼朝(よりとも)の妹の夫の娘だったので、鎌倉方との縁が深く、それが、政治的にすごく有利に働いたようです。奥さんのお母さんが頼朝の妹、つまり頼朝の姪と言っていない。でも閨閥の内にいることは確か。

 世は既に藤原氏摂関政治の栄華も今はむかしとなり、平家の奢れる公達も斜陽に近い、あるいは滅亡した頃の世の中に生きた人物ということが判る。

 書架にある歴史年表やサイト検索を用いて、この時代の考証をして見たいが、この作者の生きた歳月の幅が歴史的事実との前後をいくらか、曖昧にさせることになるとは思います。

 ・生没は1171−1244
 ・1185年−−平家滅亡(屋島の戦い・壇ノ浦の戦い)
 ・1192年−−源頼朝鎌倉幕府を開く
 ・1221年−−承久の乱の際、朝廷側動向を鎌倉方に通報し功績を上げる。
     承久の乱=後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱である
 ・1222年−−太政大臣になり翌年従一位になって、朝廷の実権を握る。

 これ以降、幕府と朝廷の権力の二重構造のゆがみ・歪(ひず)みの調整も手掛け、更に(時代を下って建てられた金閣寺の周りに)西園寺を建立した事で西園寺家を興し、これ以後この西園寺家から皇妃を出すという慣例を作った。おまけに外孫の藤原頼経を鎌倉幕府(第四代?)将軍に据えている。ものすごい権力の中枢まで登りつめていったわけです。ひとりで天皇(*)・皇妃(中宮)・将軍・摂関の祖父となってしまった−−−権力とは組織の実権を握った個人(時に徒党)に着くものであるという事の証左であります。(*=孫の結子が後嵯峨天皇の中宮になり、親王・後の後深草天皇を産んでいる)

 鎌倉幕府が開かれて間もなく、この政府には執権制度がおかれ、北条時政が祖となっている。歴史の解説では、やがて鎌倉幕府はこの執権を代々続けた北条氏が運営していったものと記憶しています。わが国は長い時間的スパンで俯瞰してみると、12世紀終わり頃を始として徳川の御世に到る17世紀初頭までの約400年間、栄枯盛衰を繰り返し、人心・国土の激動を経験したことに成る。この400年余を『国家と人間の生き様』にとって、ひとつの“missing link”(ミッシングリンク)と捉えてみたい。

 第九十六首の歌は、作者が絶頂のままに生涯を多分閉じたであろう中にあって詠った物としては、意外なものである。権謀術策もこの人の行動などには多かったものと想像されます。そのような自身を、恐らく真摯に見つめた時に去来した虚無感の吐露か?あるいは、老い行く身の落莫(らくばく)たる思いを詠ったものか? 人一人の生涯の中には、誰にでも滲み出る心境なのかもしれない。当時の世に西行も生きた。頼朝も生きた。前歌の作者慈円も、多くの藤原貴族一門、平家一族も生きた。−−世を、宗教を、和歌をそれぞれの思いで関わっていきながら、哲学的な様々な深い心境を彼らは見せている。

 この『百人一首』も九十首目を越えたあたりから、各和歌が、一種の風雲急を告げる啓示みたいな訴えを含んでいると感じる。その訴えの何であるかが、ボンヤリと今自分の心に居座っています。


 花さそふ あらしの庭の ゆきならで
     ふりゆくものは 我身なりけり   入道前太政大臣

  彼誘う あたしの家の 往き筋で
     触れゆく指に 我が身とろけり  berander


 よく見かける光景。こうして盛り上がって行くんだろうか? 私は知らない、または忘却。



『珍本・百人一首』 第九拾七首   1月11日

 

 こぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
    やくやもしほの 身もこがれつつ 権中納言定家


 この歌の作者は、自身が撰者となった『小倉百人一首』の藤原定家その人です。父は、俊成。親子で、時の宮廷文藝−−やまと歌(和歌)の第一位権威者と名を轟かせた名門であると言ってよい。漢詩についても、時のインテリは嗜んでいたし、雅なものは、他にもいくつもあっただろうと思いますが、ここを正しく詳しく自分が述べるには、甚だしく知識が不足しているので、「だろう、多分」として留めておきます。ちょっと心苦しい。

 これまで百人一首を自分が観賞し、かつ印象を書いていく過程で得た知識の内訳は、貧弱なものであると思う。このシリーズの最初に書いたとおり、百人一首は八代集(=古今集・後撰集・拾遺集・後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集・新古今集)および「新勅撰和歌集」の各勅撰集の中より選びぬかれたものであるとしても、それぞれの歌集の特徴的な区別も着けられないし、選抜の基準に、どんなコンセプトが在ったのかも、全く自分は考証していない。只々解説に載った様々な背景や意味解釈にチョツト手を加え、補足的にウェブサイトの辞書的ページの解説を付け加えてきたに過ぎない。

 『珍本・百人一首』は、この歌を含めて残り四首を残すのみとなった処に来て、これまでの取り組みについての慙愧の念が次第に膨らんでくる事になりました。この気持のわだかまりは、しばらく時を過ごし、新たな切り口を何処かに開いて、新たなものを呈示して著すことで癒してみたい。

 では。本歌取りと言う事を少し、この歌を通して齧る事になります。『万葉集』の中にある長歌が元歌になっていると言う。解説にこうありました。

 淡路島松帆の浦に 朝なぎに玉藻刈りつつ 夕なぎに藻塩焼きつつ 海人をとめありとは聞けど 見にゆかむよしのなければ ますらをの情(こころ)はなしに 手弱女(たわやめ)の思ひたわみて たもとほり 我はぞ恋る 舟楫(ふなかじ)をなみ
 (万葉集巻六 笠金村の長歌とあります)

 元の歌に対して、定家の和歌にはどのような違いが描かれ詠まれているか、を観賞していく事が、鑑賞者の醍醐味であろうと想像つくのです。まず、鑑賞者が元歌を完全解釈し、次に新たな歌を作者がどう手立てを使って、より昇華させて歌い上げたかを読むのです。この歌は、建保四(1216)年の歌会で、順徳天皇と番えて定家の勝ちとなった歌です。つまり、この時の判定者(衆議?)は、多分即座に、この和歌が本歌取りである事を悟り、吟味し、成立の確かさをみたわけであろうと思います。

 その時の順徳天皇の歌は次の通りです。

 よる浪も およばぬ浦の 玉松の ねにあらはれぬ 色もつれなき

 この歌への解説は無いけれど、よるは“夜”で、「ねにあらはれぬ」を夢にも出てこない、と掛詞にして観賞すると、優美な手法を遣っていて、いい歌だなあ、と思えるのです。この勝敗は、天皇が定家に勝ちを譲られたであろうと解説(安東次男氏:『藤原定家』筑摩書房刊)しています。だって、定家は、和歌の師を勤めていたからであると。

  来ぬ人は 学校の裏 丘の上
     始業の鐘に 気も乱れ居つ  berander


 不登校生徒の心情を詠めり。眼下に見える所はしかし、ものすごく遠いところ。



『珍本・百人一首』 第九拾八首   2月10日

 

 風そよぐ ならのをがはの 夕暮は
    みそぎぞ夏の しるしなりける 従二位家隆


 この歌に出てくる“場”について、解説者の説明文章を読むと、あたかも講義の教室で自分が聴講しているような気持に成ってくる。快い響きを聴覚で受けながら、やがて京の都の、清らかな川のせせらぎを聴いて涼を受けているような思いすらしてくる。

 そういう気持になって、改めて本歌を鑑賞すると、平安和歌の格調の貴さ、雅さ、華やかさ、などの叙情性に深く敬服します。

 「ならのをがわ」とは、楢の木々が繁る下(もと)を流れる川−−京都・下賀茂神社の近くを流れる『御手洗川(みたらしがわ)』を指す。

 みそぎは『禊』で、人が、己が身を清める事。今、夕暮れの時刻、一日の労働を終えた京の人が、その川の水で身を清めている。川岸か、河川敷かに葉を茂らせている楢の木が、風に吹かれて涼しげな音をさせているのを見て、ああ、まだ夏なんだなあ−−−下五句の「しるしなりける」がそれを象徴しているのです。余韻を鑑賞者に届けていると思う。

 本歌の出処について解説の中から引用してみます。

 【
  『新勅撰集』巻三夏に「女御入内の御屏風に 正三位家隆」として見える。この歌は藤原道家の女よし子が後白河天皇の後宮に入内したときのもので、十二ケ月の風物を月三題ずつ描いた屏風絵に合せて貼る三十六首のうちの一首である。このときは当代の代表歌人六人の歌が数首ずつ採用された。家隆のこの歌は「六月祓(みなづきはらえ)」の絵に合せたもので、「みそぎ」は「六月祓」にかかる・・・
 】

 引用文中にある「よし子」の“よし”を当用漢字外から取ると、字化けが起きるのでひらがなとした。女偏に尊(但し、旧字)で書く。

 引用の中に登場している後白河天皇は、即位と退位年度は西暦1155〜1158です。足かけ四年。その後に院政を敷いて権力闘争の数々の渦中に浮沈している。この時、侍方の平清盛・経盛兄弟等を動かしている。時代は藤原氏専制を大きく揺さぶっていた。当時の侍り方である武士の政権内での力は着実に強くなり、やがて武士同士の戦い−−源平の覇権争いの決着によって、ついに源頼朝による、1192年鎌倉朝開幕への国政委譲を迎えていく。

 動乱は収拾され、国家運営は鎌倉幕府に委譲していった。−−ある意味、朝廷は肩の荷が下りた思いが在ったのではないだろうか。つまり、そう思わないことには、その後も京都に於ける雅人の変らぬ、和歌を始めとする文藝・藝術の領域に身を置くことの出来得た情況の説明がつかない。

 そしてその帰結として言えることはこうである。この鎌倉幕府開幕によって、朝廷の地位の不変的立場が、(もしかして新めて)確立したのではないだろうか。国体として、国家元首の地位そのものまで移った事にはなっていない。鎌倉幕府は、現代の日本人の民族性が如何に形成されたかという答えを、ひょっとして内蔵した政権ではなかったかを窺わせると思うのです。

 実は、あの西行法師は、鎌倉幕府要人と交わって、多大な精神的影響を与えてきているようです。彼は、源頼朝と逢っている。頼朝は、西行法師の思想に充分過ぎるほどの影響を受けていると思う。これは『西行花伝』を読んで、自分は確信したことです。荒武者から芽生え、やがて覇権を得ていった武士階級の人は、政権を執ったあたりからストイックに身を置いて、人心の上に立つ人格と品性を常に心がけ、その上で国家の運営を担っていたのだと思う。

 鎌倉幕府は湘南の温暖の地に、もうひとつ東の都を築き上げ、その地をしっとりとして、静寂と霊験と華やかさを融合させた文化・宗教・哲学を豊熟させている。−−果てしなきロマン的発想かもしれないが。

 『小倉百人一首』をここまで観賞してきて、初期・万葉歌人の自然賛歌、平安貴族の恋愛、そして古代から中世へと移る時代の流れを眺める人の客観視から詠じた歌々、のひとつひとつに深く入ろうとしたり、その歌に跳ね返されたりして続けてきた長い道のりも、終着が近づいた思いは強い。

 風そよぐ ならのをがはの 夕暮は
    みそぎぞ夏の しるしなりける 従二位家隆


  風を読め なぜにお前の 言ふことは
      皆の話題の 外にあるのだ  berander



 

『珍本・百人一首』 第九拾九首   3月23日

 

 人もをし 人もうらめし あぢきなく
     世をおもふゆゑに 物思ふ身は  後鳥羽院


 この歌の作者後鳥羽院は、彼の死後に称された院号であると言う。第八十二代後鳥羽天皇として在位した後に、土御門天皇に譲位した後に院政を敷いて後鳥羽上皇となる。没して後に、最初は諡(おくりな。諡号(しごう)とも言う。主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名号)が顕徳院と成ったのだが、後に諡号が改められて、天皇の名称を復活させられられ、『後鳥羽院』という真っ当な院号に落ち着いたようです。

 いわゆる、死後に彼を讃える人の力によって、名誉を取り戻して貰ったと思います。

 どういうことでこんなややこしいことが存在したのかと言うと、上皇時代に、畿内・近国の兵を召集して、時の鎌倉幕府執権である北条義時追討の号令を掛けた承久の乱の発動者であり、そのいくさに敗れて隠岐島(おきのしま)に流され、其の地で没してしまう。このような反逆者としての死に様が院号に反映されている事を思うと、政争のすざまじさを思わずにはいられません。

 改めて年代を確認してみると、院の天皇在位が1185年〜98年。但し、その2年前に、時の後白河法皇が院宣し、三種の神器なしで後鳥羽天皇を担ぎ上げてしまった。と言うのは、その時、平家一門が安徳天皇と共に逃走していて、三種の神器はそちらの手にあったわけ。鎌倉幕府成立前夜の頃であった。

 そして、やがて鎌倉幕府も執権の北条氏が実権を持つ時代となり、その間の消息として、京都方としては、失われた政権の奪取の気風が燻っていたことも有ったのだと思う。それがひとつの象徴として、1221年(承久三年)に起こした後鳥羽上皇の大見得とも思える倒幕の号令−−之が承久の乱です。

 幕府方の大軍によって鎮圧されてしまうのだが、こうなっては元天皇であったといえども国家反逆者となるわけです。

 百人一首の選者は藤原定家です。その彼は、百人一首に何故後鳥羽院の歌を九十九首目に選んだのか?歌が詠まれたのは、勿論反逆者となった後ではないことは想像できるのですが、何時なのかは、ここでは調べ切れません。しかしながら、この歌を定家が院の最高の作品と選んでいることに、後の人はその訳(わけ)を考察していかなければなりません。当然歌に込められた院の思いに踏み入って、恋の歌であるのか、生々しい人の社会で疼く複雑な心境を詠ったものであるかを議論しています。

 それは、歌を詠んだ作者の人生を知っていかなければならないことに成る。そして同時代、院の生き様を直に視ている定家の思惑にも踏み入っていく事になる。そしてこうなった。

 其の事を、この歌の解説者がこう語ります。解説者は、丸谷才一氏です。この『珍本・百人一首』・序で私beranderが掲げ、手に持って始めた熟本の篇者自身です。丸谷氏は、次の第百首の解説にも関わります。第一首で初口を切り、こうして有終に登場してきました。

 丸谷氏は、この歌を最初、定家が院の作品の中で、一等に評価する事に不審を抱いたと書いています。それが、後世の国学者達が解釈に様々な引用を用いている其の内容を知るに及んで、一転の変化を体験したというのです。

 人もをし 人もうらめし あぢきなく
     世をおもふゆゑに 物思ふ身は  

 出だし第一句は「人も、をし」であって「をし」の意味が愛スベシ、イツクシなどの意とあるので、「人も愛し」の意味になるようです。二句目に其の反語的な意味が来ていることで、歌の全体の意味はそれ程ややこしくなっていないことになる。其の上で作者の心の中のため息や、切なさ、哀れさを選者定家がよくよく理解した上で観賞したに違いない−−−丸谷氏はそこに到ったように説明しています。

 定家は、百人一首の編纂前に『新勅撰和歌集』を撰進しています。それが1232年。定家は後鳥羽上皇の歌に優れたものが多い事を理解していたのだが、この時は上皇の歌を撰入していない。時系列で見ても、承久の乱の後である。時の権力者が鎌倉幕府であるゆえに、虚しくも上皇の名をそこに残すことを控えたはずです。その忸怩たる思いは、この百人一首に挙げることでそれを払拭することになったのではないだろうか。

 作者の人生と、選者と、そしてその時代の色合い・・・歌にそのような入り組んだ人の心の綾が含まれたものであると考えれば、この歌は、第九十九首目となりえるのだと思うのです。




 既に百人一首の殆どを読み終え、長き道程(みちのり)の終点を眼前にした時、之までに儀式のように私が掲げてきたパロディーの作歌意図は、当初に描いたものと変質しています。今は、王朝和歌が日本人の本質を実に絢爛にして奥深く表現してきて、其の事で、古人が後世の人の心に残したかけがえのない宝物であったと覚って、畏敬するばかりなのです。

 其の中でもひとしお、歌人・西行法師の息吹を受けてきて後、いくらも彼の歌を鑑賞も出来ずに居るのですが、自分の中に、願わくば彼に近づく歌を詠む思いも抑えがたくなっています。

 百首を読み終えた後、幾つか残る課題が惹起します。そのひとつが其の事。新たな雅号を設けました。

 春なれば ひかり拡がれ 風ゆるめ
       蕾に花の 嬉しさをみる  西望




『珍本・百人一首』 第百首   4月8日(平成二十年)

 

百敷や ふるき軒端の 忍ぶにも
     猶あまりある むかしなりけり  順徳院


 この歌の作者も前九十九首を詠った後鳥羽院と同様、鎌倉幕府と深く関わった(対立した)第84代順徳天皇です。後鳥羽院は第82代後鳥羽天皇の事で、お二人に共通することは、鎌倉幕府の攻勢の時代に生きて不幸な境遇になられたと言うこと。

 この歌を、百人一首の最終に置いた事にどんな意味が有ったのか、思いを巡らす必要がどうしてもあります。

 既に選者藤原定家は、ご子息の為家を撰に参画させていることとは言え、自身が充分に強い思い入れを込めて歌のひとつひとつを吟味していったのだと思う。かつての宮廷文化の栄華を強く懐かしんでいただろうと思うからです。彼の許に多くの皇室・皇族、そして貴族が慕い集まる事で、定家は彼らに和歌の指導を熱心に果たして来た。彼の晩年はきっと、過ぎし日々の門弟とも言える人々を追憶し、彼らの歌を吟唱しながら日を送ることもあったと思う。

 年表に拠ると、『小倉百人一首』は、1235年成立となっています。藤原定家の没年は1241年です。時代は最早、朝廷の威光すら地に落ちた感があり、京の都も内裏の佇まいも、うら寂れていただろうと思うのです。定家自身の生きかたも、幕府方に対する様々な不本意を抱えていたものと思う。「腐っても貴族」−−−そんな意気の中で最後に撰んだ歌に、順徳院が切実に昔の朝廷の栄華を偲んで詠ったものを持って来ている。百敷(ももしき)は、この歌の詠まれた頃には、宮廷そのものの代名詞になっている。

 政治の勝利なんてものは、文学の崇高さの前には取るに足らない、とでも言いたかったのだろうか。藤原定家は恐らくそんな気持を強く持って、自分が生きた証(あかし)である王朝和歌が後世に決して色褪せないだろう事を確信して、この『小倉百人一首』を編纂したのだと思う。後ろ向きの美学を、ものすごく感じるのです。

 自分は、この『珍本・百人一首』を書き始めた当初は、夫々の解説者の述べていることに敬服の思いを持ちながら、歌そのものを真剣に解釈しようと腐心していた。と同時にパロディー和歌に到っては、非常に不謹慎とも思えるものを創作し、あたかも古典に対峙するかの如きスタンスで進めてきた。しかし最後半に到って、その時代の人々の苦悶、或いは心の深いところから湧く心理の描写に、その時代の人が必ずしも優雅・華麗だけを詠っていない−−−時代を詠っていることを理解して、衝撃を受けていった。

 こうして、最後の百首目を観賞し終えて、人の営みとは何か?のテーマを、心の隅に置くと共に、筆を折ることにします。

  王朝の 和歌千年の 時を経て
     地下水脈に なりて湧き出で 
 西望