珍本・百人一首

珍本・百人一首』 一首より十首

『珍本・百人一首』 第壱首

 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
           我衣手は 露にぬれつつ   天智天皇 

飽きたのよ 開脚いやと つまに言われ
  我が PHOTO趣味は つゆぞ果たせず   berander


悪評恐れづに、新解釈として上呈します。原作を通俗的に解釈すれば、「秋の田のそばの仮の小屋は、あらく屋根を葺いた粗末なものなので、その小屋で番をしているわたしの袖は、夜霧に濡れる」と言う意味になりますが、これこそ第一層の解釈であり、その奥に「私はあなたに飽きられてしまって、そのために泣いた涙で袖が濡れています」と言う恋歌としての意味が第二層にあるのだと、丸谷才一氏が述べています。


『珍本・百人一首』  第弐首

  

  春過ぎて 夏来にけらし白妙の
      衣ほすてふ あまのかぐ山   持統天皇


 

さて、持統天皇は天智天皇(昨日の第一首で登場)の娘なんだと、解説にありました。わたしが今ひもといている熟本は一昨日(4月2日)書き込みの最期で写真紹介したものですが、それぞれ一首ごとに、その道の第一人者が歌の解釈・背景・原歌、さらに選者である藤原定家が選定の際どんな思惑で選んだかに至るまで推理をめぐらせ、詳細に解説しています。そして、今回の第二首和歌を解説しているのが大岡 信氏です。熟本の巻末に出展一覧があって、それを此処で紹介しますと、−−『百人一首』:世界文化社【日本の古典】別巻となっています。昨日の第一首の解説者は、丸谷才一氏『日本文学早わかり』:講談社からのものだったんです。

 和歌の世界では、韻の構成である「5.7.5.7.7」の各区切りを第1句、第2区・・・として分析して、歌の解説をする際の指摘先としています。例えばこういうこと。今回第二首は、『万葉集』巻一に原歌があって、

 春すぎて 夏来るらし白妙の
     衣ほしたり あまのかぐ山   持統天皇
 (来る=きたる)

 となっているから、百人一首に編纂される時、第2句と第4句が替えられています、と指摘できるわけです。ではこの先大岡信氏が解説して語るこの歌の解釈について、一部の範囲で原文のまま此処に転載させていただきます。少し長い。

 【見ればわかるように、万葉歌の訓読と『百人一首』の歌とは、第二句目と第四句目がいちじるしく異っている。「夏来にけらし」という語調は「来るらし」にくらべて優美になっているが、第四句目はとくに相違が大きい。「衣ほしたり」だと、眼前の実景を目撃してうたっている形であり、しかもここで一たん切れるから、「衣ほしたり」の言い切りが、ある感動を表すことになる。ところが「衣ほすてふ」だと、「てふ」は「といふ」のつづまった形だから、実景の描写ではないことになり、写実的な印象のあざやかさでは万葉集の方が格段にまさっているということになる。実際、そういう観点から、『百人一首』のこの歌は万葉原歌を改悪してしまったという評価をくだす向きが少なくなかった。

 一首の歌の視覚的印象の強弱という観点から見れば、たしかにその通りといえる。けれども、『新古今集』時代の歌人たちは、歌というものの読み方をもう少し複雑なものにしていたことを忘れてはならない。島津忠夫氏は「第四句をあえて『ほすてふ』と〔定家ら新古今時代の歌人たちが〕よんだのは、『天の香具山』にまつわる伝承を脳裏に思いうかべているのである」と指摘している。すなわち天の香具山にまつわる伝説は少なくないが、とくにここでは、甘檮(あまかし)明神が人の言動の真偽を糾明するために、衣を神水にぬらして干したというような伝説が思い浮べられているのだろう。そのように見るなら、この歌の下句は、万葉歌の実景写生とはまったく異った意味をもつことになる。つまり、「神代のころから、白妙の衣を干す伝説に飾られてきたあの聖なる山、香具山に、今年もまた……」という、ある感動がこめられている歌ということになる。定家らは、一首の歌のそういう意味のふくらみを重んじて、「白妙の衣ほすてふ」という訓読を採用したのだ、というわけである。たしかにそういう解釈を与えてこそ、この歌のもっている、万葉歌とはちがった味が明らかになるといえよう。一首の歌を、単なる眼前の実景の写実としてだけでなく、長い歴史的時間への回想をも含んだ形で成りたたせようとするのが、新古今時代の歌人たちの発明した新しい方法だったので、この持統御製の独特なよみも、そういう背景の上に置いてこそ、よりよく納得できるといえる。】

 そうだったのか。今からおよそ800年も昔鎌倉時代初期の文学者は、万葉以降の勅撰和歌集を全て吟味した上で百人一首を世に出し、高貴なみやび人の精神が為した和歌を広く庶民に広めた。その功績は偉大です。日本人の心、特に情緒を創り上げてきたのが平城・平安王朝時代の貴人であり、その貴人たちの心をさらに昇華させた彼ら(百人一首編纂者)が心魂こめた息吹に、のちのあらゆる日本の藝術・芸能・文学・文化は、全て触れて生まれ、基幹の部分で悉く滋養を与えらたものとberander は言っているのです。それを踏まえて、参ります。berander の詠める第二首。

 暗くして なお夜目に映う 白ショーツ
     これも剥ぎます にほひ嗅ぐやも   berander
  (映う=はう)


『珍本・百人一首』  第参首


あし曳きの 山どりの尾の しだりをの
  ながながし夜を 独かもねむ  柿本人麻呂

今回の歌の解説は、文芸評論家・山本健吉氏です。俳句に対する評論も多いとあって、研究の対象は、ひとところに留まっていなかったということがわかります。その中で驚くべきことを言っています。「この歌は彼の歌ではない」

 ぬぁんと、その部分を抜粋すると、
【・・・この歌も、もちろん彼の歌でなく、後の代の調べだが、平安鎌倉の人たちがどんな歌を人麻呂の歌と思い、どんな歌を長(たけ)高い歌としたかが知られて、興味がある。この歌の出典は拾遺集、恋三、七七八で「題しらず」と詞書がある。・・・】

 この第三首の歌は、近似値の幾つかの歌、例えば
 (前註釈=念:おも。 長永夜乎:ながながしよを。 宿:ね。)
  念へども念ひもかねつあしひきの 山鳥の尾の永きこの世を
  あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長永夜乎ひとりかも宿む
等を挙げて、作者不詳の歌である。と断定しています。百人一首の選考のスタンスが此処でハタと見えなくなったと言う印象がberander の中に興りました。もともと、何の予備知識もなく、『珍本・百人一首』をブログ上で編纂し始めたのですから、何が起こるか判らないとはいえ、こんな「フォー」にぶつかるとは思いませんでした。選者が、万葉集三歌人のひとり柿本人麻呂の作風を良く良く吟味し、作風を描いてこの歌の詠み人に定着して行ったのだろうか。

 berander の経験で、二つ思い当たることが有ります。ひとつは、前にも書いておりますが私はひと頃、『ダジャレ芸術協会』という週刊誌の投稿コラムにせっせとダジャレ作品を創ってハガキを送り、宗匠・三遊亭小遊三師匠に目を通して貰っていました。多くの投稿者に次第に作風が出来上がってきて、師匠が「さすが、さらっとした・・・相変わらずとぼけた・・・いやらしいねぇ、大丈夫かい?女性のカケラくらい残しとかないと、お嫁にいけなくなっちゃうよ・・・」などと個性を理解していました。そのことは、川柳の作風でも言えます。捉え方、感性の持ち方、年齢・性別、家族との関わりなどが絡んで、一人一人の個性が、作品にしっかり表れるようです。選者の先生ともなると、吟社の例会などで撰をするとき、作者が大体見えてくると言うことがあるそううです。

 さて、山本健吉氏がこの歌にある山どりの生態についてこんなことを書いています。かいつまんだ抜粋です。なお、山どりと雉を他の部分で別の鳥扱いですから、尾が長い山にいる鳥が何者なのか、beranderにはわかりません、悪しからず。

 ・・・山鳥は、つがいであっても夜は寝どころを別にすると言う。雄は峰から峰へ飛び越えて嬬問するという言い伝えがあると、述べています。古典をひもといて調べ上げての解説です。そして平安鎌倉時代の人にとって、この鳥の長い尾をみた印象と重ね合わせて、ひとり寝の一夜の長い時間、恋する女性を忍ぶ心情を山鳥のつがい同志の別離に重ねて詠じているんだそうで、現代人には想像もしがたい自然との融合感を、先人は持っていたからこのような歌が生まれたのだ、と言っています。

 ねッ! 恋狂いばかりしてたんじゃないでしょ、とひっぱたかれた感じです。日本の古代末までの日本人の心を『百人一首』という王朝和歌集で残したことの功績は、berander が僅か三首触れただけで言い切れるところまでは行っていないのですが、電流が体に走ったようなシビレで感じ始めています。では、アンサー。

 逢引の おじゃま幼な児 部屋に置き
    ながながし夜を ラブホのからみ  berander



『珍本・百人一首』  第四首


   

   田子のうらに うち出でてみれば 白妙の
      ふじの高ねに 雪は降りつつ  山辺赤人


この歌の解説は岡野弘彦氏です。情報検索にて、歌人・国文学者と紹介されているものがありました。膨大深遠な精神的活動をされた方の知識と知性は皆、筆舌に表わすことが出来ないと思います。西洋の諺に『ひとりの老人の死は、ひとつの図書館の消滅に等しい』という意味のものがあります。

 岡野弘彦氏の最近の活動は、去る3月12日にさいたま市が主催した、「第6回現代短歌新人賞」表彰式の特別講演でした(さいたま市広報サイトの紹介を参照のうえ、確認)。

 さて、例によって、この歌の出典と変遷について触れて見ます。岡野弘彦氏の解説では、この歌は新古今集冬の部にあるものを(百人一首第四首に)挙げていると記していますが、やはり先立つ原歌があって
 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ
     富士の高ねに 雪は降りける 
と、万葉集巻三の赤人が富士山を詠んだ長歌の反歌であることを表明しています。そして、【・・・その言葉に少しの違いがある。和歌の表現においては、その用語の少しの違いも大きな内容の相違につながってくるから、決しておろそかに見過ごすことは出来ない。新古今前後のこの歌の変化のあとをたどってみると、・・・】その先に詳しい技術的、観賞眼的な説明を述べているのですが、万葉歌人の原歌全般の調べの淡白さを、新古今歌壇は些か気にして、より抒情的表現の叙景歌に替えて行ったようだと述べています。これまで紹介した前三首と同じ評論がここでも見られます。

 では、此処まで書いていて、berander に二つの、「してみれば、・・・」と言う思いが惹起しました。まずそのひとつは、鉄火場で繰り広げられる丁半博打のこと、「半方ないか・・・ハイ、丁半出揃いました」は、長歌・反歌がやがて裏道を進んで行って、博徒の世界で開いたあだ花ではないのか。芸術的な彫物や壺師のキレのある動きと相まってそれは美しいものと見えます。ついでに言ってしまえば私設賭博は犯罪行為という意味でしか、違法性は無いと思います。ドラ息子がはまって、にっちもさっちも行かなくなったなどの社会倫理・道徳的なものを持ち出す必要は無いと思います。公営ギャンブルだっていくらでも転がっている話です。金の借り先なんかで堕ちこむ悲劇のほうだってひどいものがあると思います。

 もうひとつは、江戸時代の俳人二人。与謝蕪村と松尾芭蕉の作風の違いが、万葉歌人と、新古今時代の歌人の対峙した『絵画的対心象的』現象の二重写しとして見えてきます。

  五月雨や 大河を前に 家二軒   蕪村
  五月雨を あつめて早し 最上川  芭蕉
 
 たこ頭に 口吸われてみれば たえだえの
   乳の高嶺に 指は擦りつつ berander



『珍本・百人一首』  第五首


   奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の
      こゑ聞くときぞ秋はかなしき  猿丸太夫


この歌の解説をされているのは大阪大学名誉教授・島津忠夫氏です。角川文庫『百人一首』が出典です。和歌の研究や、中世文学の解説などの著作がたくさんあることをサイト検索で知ることが出来ます。大正15年生まれ。講演活動もされています。

 それにしても、学研の道を歩む人たちの、燃え尽きることのない頭脳には毎度毎度敬服してしまいます。すごく深い読みをしています。この歌の中で、もみぢとあるのは、晩秋に赤く染まる楓(かえで)もみぢではなく、萩の黄葉でありまだ中秋の頃の情景として観賞するのが正しかろう。と書いています。選者の定家が、秋深まる頃のうら哀しさを感じ高くこの歌を評価したからに他ならない、と述べておられます。現代の学研者が800年以上も昔の国文学者をこのように評価することには、時を越えて師の心理、立場を深く思索して、周辺の文献を一つ一つ拾い出して解答を出現させる醍醐味が、感じられてくるじゃあありませんか。

 さて、歌人の猿丸太夫とは何者か?

 これが居ないんです。氏の解説をかいつまんで書いて行きます。『猿丸太夫集』という歌集が在って、その中に出てくる歌であることがわかった、しかしよみ人しらずとなって居る。選者定家もそのことを知っていて、その時代以前のよみ人論争でも「兎に角、よみ人は歌集の名をとって『猿丸太夫』と言うことで」雰囲気がつくられていて、そこから何となく歌人像を作り上げてしまった。と言う所で落ち着いているようです。「これっていい加減だなあ」と思ってはいけない。選考には人よりも歌を重視する傾向が強かったから、この歌については、出典の歌集そのものをよみ人に据えたから理に合った編纂なのだそうです。伝説が生まれたりして、「弓削の道鏡だ」「巡遊詩人の徒の誰かだ」など、あるそうです。

 姉さんの 部屋に踏み入り 穿く下着
    萌え〜イクときぞ マスはかなしき  berander


 解説の中からもうひとつの収穫があります。奥山とは文字通り深い山奥の事であるのは、皆判っていますが、では対(アントニム)の言葉としての、奥山でない山のことをなんと言うのでしょう。『端山』だそうです。“はやま”と言う。その際の奥山とは深山(みやま)を充てたほうが良いかも。そうか皇室御用邸のある葉山は、端山からの転用かもしれない、山が海近くまでせり出しているし。


『珍本・百人一首』  第六首


   鵲の わたせる橋に おくしもの
      しろきをみれば 夜ぞ更けにける  中納言家持


 (鵲:かささぎ)

 

かささぎは、ここでは中国の伝説の鳥であるそうな。七夕の夜、この鳥が天の川に翼を並べて橋を架けて、織姫星を牽牛星の元に渡したのであるそうな。麒麟・鳳凰・あるいは龍など、もっともっと色々在るに違いない古代中国人の壮大なイマジネーションから生まれた伝説動物のひとつが、此処に登場しています。

 中納言家持(やかもち)とは、大友家持です。奈良時代の歌人で、 三十六歌仙の一人。万葉集の編集者と考えられ、家は代々にわたり衛門府(ゆげひのつかさ)の長官に任ぜられることが多かったとのこと。職務は宮門の守備隊長。つまり天皇親衛隊を取りまとめ、差配する立場です。この歌をどのような状況で詠んだのかの解説があります。『百人一首拾穂抄』でこのように解説されています。

 【冬深く月なき深夜に見わたせば、四方に物の音もなく心すみさるさま折節、橋の一筋見えて霜白く置わせるさま、更に此(これ)下界とも覚ず、天上の心ちして、烏鵲の橋にやなど思ひよそへてよみ出せる也】

 職務で篝火を焚きながら宮中の御階*(みはし)巡回警邏中にこの光景を目の当たりにして、凍える手で紙にしたためたのでしょうか。古代人も、余りにも美しい厳冬の深夜の景色に感動して和歌に詠って来たんだと思うと、嬉しくなってきません?第三首の解説に続いて、山本健吉さんの登場で紹介させていただきました。

 ばか騒ぎ 私は隅で 合コンを
   白けて見れば 世も末に見え  berander

 
*: 御階とは、宮中を天上に見立て、中国故事・鵲の渡した橋に模して具現したものだ、とのことです。その御橋の先に居わす『天上人』と言う意味が解りました。そして七月七日七夕の純粋な行事も、古き昔やんごとなき人のみやびな催し事であって、それがやがて庶民に伝播して、広く日本人が天上の世界に思いを馳せて情緒をはぐくみ続けてきたのだと言うことを思いました。これって、古代ギリシャ神話の神々あるいは星座の物語に似て−−「壮大は美しいのだ」


『珍本・百人一首』  第七首


  天の原 ふりさけみれば かすがなる
     三笠の山に 出でし月かも  阿倍仲麻


この歌を解説する出典は黒川洋一氏『阿倍仲麻呂の歌について』、雑誌「文学」昭和50年8月号とありますが、中国文学紹介の著書が多数ありました。と言うことで、この歌の解釈が次の点で、古来議論されているからのようです。「この歌の詠まれた場所はどこであるか?」

 阿倍仲麻呂は、8世紀の中頃には遣唐使船に乗って中国に渡り、長い滞在の後に彼の地で、故国日本のふるさと奈良の都で見た三笠の山の上にのぼる月のようだと、望郷の念を抱きながら眺めて詠んだ。いや現実に奈良の都に居た時に詠んだのである、という、設定の問題が中心と成って解説を展開していました。しかし残念ながらberander には、今回の解説に、いささか内容が微細に分け入りすぎていて、観賞の雰囲気を保つことが出来なくなったので、この歌についてのこれ以上の紹介が出来ません。少なくともこの歌を読む我々のセンスをもって判断していきたい。そしてパロディー化したberander の歌も、よろしくその様に判断してください。

 尼の腹 ふくらみすぎて みな騒ぎ
   まさかのうわさ 実は便秘と  berander


 済みません。あまのはら+変換キーとしたら『尼の腹』とPCが、コケてくれたから、そのままこれを使ってやってみました。


『珍本・百人一首』  第八首

  我庵は 都のたつみ しかぞすむ
      世を宇治山と 人はいふなり  喜撰法師


この歌の解説を読むに至って、やっと肩の凝りが取れるような思いがしました。この歌は後世江戸川柳に色々とこんな風に詠まれたゼ、と紹介してくださったのが、池田弥三郎氏です。では、その引用句を。

 お宅はと 聞かれたように 喜撰よみ
 江戸ならば 深川辺に 喜撰住み
 わが庵は 月と花との 間なり

 そしてもうひとつ。「然(しか)」を「鹿」ととって

 茶と鹿で 喜撰たびたび寝そびれる

 この句をきちんと理解するために、「喜撰」とは上等な茶の銘柄ですと、説明があります。お茶は眠気を覚ますということで理解すれば良いでしょうか。さらに幕末に至って、こんなはやり歌が生まれた中にもこのお茶の銘柄が入っているんだよと、付け加えてくれています。

 太平の 眠りをさます 蒸気船
    たった四はいで 夜も眠れず

 隠された掛詞は次の通り。 蒸気船=上喜撰 四はい=隻・杯

 この歌の解説者・池田弥三郎氏は国文学者・民俗学者と、サイト検索で紹介がありました。慶応義塾大学教授、洗足学園魚津短大教授を歴任。NHK解説委員、同用語委員、国語審議会委員等もつとめ、1982年亡くなられているとありました。有難うございました。たつみ(巽)の方角とは東南の事です。この解説の出典は『百人一首故事物語』(河出書房新社)。

 わがいもは 都のすみで ひとり棲む 
     夜は留守がちと 人はいうなり  berander

       

 いも:古語辞典を見ると、男性から妻・恋人・姉妹などを親しんで呼ぶ総称とありますからそこんとこ宜しく。それから、昨日から分芸春秋は、“追春号”に、装いが変わっています。其処んとこ夜露死苦!


『珍本・百人一首』  第九首

  花の色は うつりにけりないたづらに
      我身世にふる ながめせしまに  小野小町

おや、お久しぶりです小野小町さん。私、高校生の頃この歌を古文の授業で初対面*して、其の時の先生の解説で、和歌には詠われている表面の意味と、もうひとつ隠された表現のあることを読み取らなければいけないことを知りました。「その言葉の部分を掛詞 (かけことば)という」 「はい、わかりました」と、とてもよく納得すると同時に、人の言葉の複雑系を理解することの大切さを、何となく意識したことを憶えています。【*後註:もっと小さい頃百人一首の絵札を使った坊主めくりでお逢いしてました。それを後で思い出しました。】

 あなた、この歌に何を表現したかったのか、もう一度伺ってよろしいでしょうか。後世、大論争になっているんです。「小野小町は、この歌の中にご自分の容姿の衰えをダブらせて、詠嘆の気持を含めて詠っているのだ」論と、「それは違う。あくまで、花=さくらの色は褪(あ)せてしまったと言うことだけであって、花愛でる女性の感嘆の歌として読むべし」論が渦巻いているんです。ただ、私が不満なのは、こういう論争には、絶対同じ立場の女性の意見が大切なのに、古来、論争をやっているのは男ばかりなんです。

 別にあなたの歌に限らないで、どの歌の評論もその状況は同じだから、あなたに対して後世の女性が妬みなど持って無視しているとも思えないんですが、何故か男どもばかりが騒ぐ。だからあなたは、男どもに変な噂立てられてしまってもいるのが可哀相なんです。私は今回、あなたの歌をどうパロってみようか考えたのですが、思い切ってそのことを取り上げて、勇気を持って創って見ます。後で披露しますが怒らないでください。ブログ読者に顰蹙買うことよりも、極楽でいまみやびに男どもと戯れておられるであろうあなたに、矢張り「その歌は、良くないわ」と言われてしまうことがつらいのです。

 あなの位置は どこにあるかと いたずらに
     わが如意棒は 中に攻めえず  berander


 でも、聖母マリア様って人を知っていました? 男を受け入れなかったけど、立派に子供を生んだと言うじゃ有りませんか。のちの人って、いつも勝手に伝説なんか作っているんだから。

 追申:あなたのこの歌の解釈についてちょっと細かく言うと、江戸期に入る頃を境にきちんと評価が分かれる傾向にあったそうですよ。最初(江戸期前の中世まで)はご自身の容姿を桜になぞらえていたと裏読みし、やがて、単に桜花の色褪せる情景歌という事になっていったようです。あなたの歌は、勅撰和歌集「古今和歌集」巻二の『春下』に入っているのです。


『珍本・百人一首』  第拾首

 

  これや此 ゆくも帰るも 別れては
      しるもしらぬも あふ坂の関   蝉丸

 昔、坊主めくりで遊んでいる時、この蝉丸の札を引くと、それまでの進行で、場に(坊主をひいたために)さらされていた札も、他のゲーム仲間が(姫を引いた時、場にさらされた札をゲットして)手に貯めていた札も総ざらい、全部没収して自分のものにすることが出来る。いわゆるスペキュレーションカードでした。だから子供心にこの人が百人一首に出ている中で一番えらい人だと思っていたかもしれないと、今思えば考えられます。最近の言葉を使えば、『カリスマ坊主』。兎に角、坊主と解釈していました。

 ところが、文献に踏み入ると、この人物に幾つもの伝承があって、こうなります。この歌の解説は、第二首で登場された大岡信氏『百人一首』:世界文化社【日本の古典】別巻です。

 @:雑色(雑役係。身分は低い)
 ・・・『敦実(あつざね)と申しける式部卿の宮の雑色』と在り、この文で蝉丸とは敦実であるという解釈をしていいのか、私には自信がない。身分が低いんなら、太郎丸とか与之介みたいなのが相応しい。式部と言うのが姓でなく役どころとすれば、敦実とは蝉丸と言われる男の上司の名かもしれないと、 berander はあくまでも懐疑的思考でいます。

 A醍醐天皇の第四皇子説。・・・多分(なんて言って不確かにするのも気が引けますが)側室からの皇子か?皇室に側室制度は第二次大戦の敗戦に至るまで制度的に存在していたようです。この際、麻呂が言いたいのは、これは皇位継承、いわゆるお世継ぎに必要な制度だと、“男子たるberander” は思うので、現在『皇室典範』議論の中に、女性の人権を尊重する形の側室制度が何で検討されないのか、不思議事項です。でも之って婚姻制度との矛盾があって矢張り・・・いけねぇ、麻呂はちょっと話を外してしまっちまったけど、兎に角この場合の仮説では高貴なお方。

 B逢坂の関の近くに棲む、盲目の琵琶法師。

 逢坂の関とは、山城・近江国境にあたり、滋賀県大津市にある。畿内の北限の関があって、ここを過ぎると東国入りとなった。平安の昔から、往来の要所であるから、この歌が確かに風景描写を超えた状況描写、人の出逢いの非可逆性の無常観まで、感じてくる歌です。日本人の美学のひとつ、無常観を強く持つ berander には、若き日の幾多の恋の破綻を経てきたがために出来上がったパーソナリティーに、深く響く歌であります。

 麻呂の詠めし第十首、とくと観賞しておじゃれ。

 今夜こその 行くな帰るな 別れるな
    妻にお願い 調停の席  berander

(今夜:こや)
 尚、サイト検索で蝉丸を『せみまろ』ともよむとありました。