珍本・百人一首
『珍本・百人一首』 四拾壱首より五拾首

『珍本・百人一首』 第四拾壱首
   6月17日

 恋すてふ 我名はまだき 立ちにけり
     人しれずこそ 思ひそめしか   壬生忠見


 この歌もあっという間に、心に思っていた自分の恋が人の噂に立ってしまった驚きの気持を現しています。

 歌一つにエピソードがぎっしり詰って解説されていますから、掻い摘んで紹介します。それを解説しているのが、吉井勇さんです、出典は『百人一首夜話』(交蘭社)

 天徳(西暦957年〜63年内)の宮中歌合せの席で『初恋』と言うお題が出されて、出席者一同が頭を捻ったり指を折ったりしながら創った作品を提出し、披講の段となり、淡々と歌が読まれていく。右方と左方の二首ずつ読まれその都度にどちらかの勝ち(巧い)という判定をしていったようです。判者の小野宮左大臣実頼(おののみやさだいじんさねより)がこの歌ともう一つの歌の優劣を決めかねていたところ、時の帝(年代照合すると村上天皇か)の口からもれ聞こえてきたもう一方の歌が耳に入りました。そこでこの勝負は忠見の負けとなった。

 実頼とて人の子、きっと帝は好きな方の歌を唱えられているに違いないと思ったわけです。この、雅な宮中の歌の勝負に負けた忠見は、以来鬱々として床についてしまった。そして、遂に病の為に起たなかった、そうです。

 彼を負かした歌は何でしょう、第四十首で上げた『忍ぶれど 色にいでにけり 我恋は 物やおもふて 人のとふまで  (平 兼盛)』だった。選者藤原定家は、この経緯を知っていて、百人一首にあえて並べて載せたと思います。改めて、我々も、じっくりと観賞してみても良いのではないでしょうか。歌は、『拾遺集』恋の一の巻頭にあります。

 忠見は忠岑の児。忠岑の歌は第三十首で百人一首に載せられています。はじめは、摂津の国に住んでいて(父の任地か?)幼少の頃から歌が上手と評判が高く、やがて宮中に知れるところとなって、呼び出しがかかったのだが、貧乏役人の家にあって、「乗り物が無いから参内できません」と断った。

 それを聞いた帝がおもしろいことを言いつけたようです。 「竹馬に乗って参れ」

 それを聞いて、「竹馬は ふしかげにして いと弱し いま夕かげに 乗りてまゐらむ」という歌を奉げた。つまり、直ぐには行けませんと言うことでしょうか。その後も暫らく摂津の国でくすぶっていたところ、やがて醍醐帝のお召出しで上洛しやがて、中央の官吏(蔵人所勤務)から始まって、結構出世はしています。上六位という位と成ったようですが、とにかく「たいしたもんだ」と、言われるほどだったのでしょう。それも歌がウマイという理由。当時の必須スキルはこのような文芸的才能だったことが判ります。

 バイアグラ すっぽん飲んで なほ勃ちぬ
     人知れずこそ 通販な人   berander


 男の必須条件も来る時が来れば、どう足掻いたところで、叶わぬものとなります。これを「赤い玉がぽんと出て、その玉に書いてある文字を読むと、『これにて打ち止め』とあった」とか。古人のほうは諦めが早かったようです。



『珍本・百人一首』 第四拾弐首   6月18日

 

 契りきな かたみに袖を しぼりつつ
     すゑの松山 波こさじとは  清原元輔


 愛を誓った二人の心の絆は、松林が波浪を食い止めてガードするように固いものだった。あの時、泣いて袖を濡らしながら二人は愛の世界に浸っていたよね。

 男が今、腕にその女性を抱きながら囁いているわけではない。やはり振られてしまった男の嘆き節なんです。耽美といえば耽美、女々しいと言えば女々しい。今の世にこんな平安時代の男たちが迷い込んだら、なんと非生産的な人達が居たもんだ、とキット呆れてしまうことでしょう。

 しかし時代全体で貴族社会がこんな世界を作っていたんだから、へんてこなコチコチの硬派が一人二人存在したって多勢に無勢で辺境の防人に送られてオチ。やはり競って異性をもとめ、恋文送って、押しかけて、口説きまくっていた。−−−そんな上流社会を腐敗と見たかどうか本当に硬派の集団が立ち上がって武士が生まれ、鎌倉幕府が日本のまつりごとの主導権をとっていったのだろう。

 この歌に出てくるような男も、きっと悶死なんかしないで、ケロッと立ち直って次を求めて行ったほうが多いのではなかったか。パロディー歌はあなた、またはあなたの知り合いの方へ奉げる哀歌であります。

  帰りしな 女を倒し 上に乗る 
     そこへ情夫の サビ声が背に   berander




『珍本・百人一首』 第四拾参首   6月21日

 

 逢見ての のちのこころに くらぶれば
     むかしはものも(を) おもわざりけり  権中納言敦忠


 この歌は、私がご幼少の砌(みぎり) 耳に聴き口に出して唱えた記憶が有ります。ボーイソプラノで、朗々と吟じたかと思います...「昔は物をおもわざりけり〜」

 その時の意味解釈は、たしか次のようなものです(アバウトですが)。『昔(の人)は、何ンにも物事を考えなかったんだァ』

 この歌に関してはそれ以来の再開を今果たしたわけです。正調な解釈としては、岡野弘彦さんの解説を紹介しておきます。

 【あなたにお逢いして後の、この切ない思いにくらべると、お逢いする以前のもの思いなどは、なかったのも同然です。】

 続けての解説の中に、とてもいい言葉が出ています。『後朝』と言う言葉です。「きぬぎぬ」と読むそうです。この言葉を別途旺文社の全訳古語辞典で引いて調べたらこう在ります。

 【きぬぎぬ【衣衣・後朝】 @男女が共に寝た翌朝、各自の着物を着て分かれること。また、その朝。 A男女・夫婦の離別。 B別々に離れること】 更に【参考: 中古の恋の歌には「きぬぎぬ」を歌ったものが多い。当時の貴族の結婚は、男が女の家に通う「通い婚」だった。朝の別れ難い切ない気持を「きぬぎぬ」のことばに託して様々に表現したのである。】

 再び岡野さんの解説にある内容を要約して述べてみます。

 この歌は拾遺集恋二に「題しらず・・・」とあったが別の文献では、まず、拾遺抄恋上には「はじめて女のもとにまかりて、又のあしたにつかはしける」という詞書きのもとにある歌・・・とあり、更に古今六帖でも「あした」の題の下に入れている。それぞれ、歌集となった書籍だと思います。「るるぶ」が在って「地球の歩き方」があって、更に「〇〇Walker」、「散歩の達人」etc・・・今の旅情報が重複して発行されるように様々な歌集に秀歌は繰り返し載せられているのですが、編集人と言うか選抜をした際の解説者が時には、解釈を好きにしていたのかもしれません。「この歌は、本当に別離を迎えた男の哀歌である」 とか。

 決して誤解をしているとは限らないと思うのです。幼いなりに私も一種の新解釈をしていたことになる。現代のストレス社会を半世紀も昔に古典をもとにして、予言していた。

 それにつけても、昨今の若い男と比べ、貴族の男は、恋のマナーとして、女性と朝の別れをして自分の家に戻るや否や、こうして、「昨夜のあなたと過ごしたことは、素晴らしかった。離れているのが辛くて、つらくて・・・」と歌に表わして相手の許に届けさせている。どうですか?

 あっ、やっていそうなのを電車などで良く見かけます。携帯メールを打ち込んでいる若者の中には、きっと「後朝(きぬぎぬ)メール」を届けている人もいるに違いない。よかった!

 なにが良かったのか存じませんが、よござんすね。とにかくアドレスを間違えないようにね。エールまで贈ってしまう『エール魔我人』な私です。

   整形の のちのこころに くらぶれば 
     むかしのわたし 惨めなりけり   berander




『珍本・百人一首』 第四拾四首   6月25日

 

 あふ事の たえてしなくは 中中に
     人をも身をも うらみざらまし  中納言朝忠


 【逢うということがまったくないものならば、かえって、人のつらさも、わが身のはかなさをも恨むようなことはあるまいのに】

 チョット回りくどい訳し方に感じてしまいますが詠っていること自体がややこしい心情であるから仕方が無いのだろうか。「たえてしなくば」がいわゆる「たら・れば」調であるから第五句に至って、「恨みざらまし」=「事実はそうではないから恨まないではいられない」、という逆説を含んで完結させています。

 解説は、島津忠夫氏です。第十七首「千早振・・・」の解説の際、長屋のご隠居に乞われて登場してくれた先生です。

 「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」の歌も同様であると、解説されています。そうでございましたか。そうだった、高校生時代の古文の授業は、このややこしい紐解きに、随分時間を使って古文の先生が説明していたと思う。桜がないとしたら、と言わずに実際にはあるからそれでどう言いたいのか?−−などと、どうにもスツキリしない気持になりました。

 算数で例えると、足し算では繰り上がった数字が上の桁に足されても、答えを出すのに順立てで計算できるから、あまり戸惑うことは無い。しかし引き算では上の桁から借りてくる場合だと、両者の位の間で値を考える事に行き来が生じる。この歌みたいってカンジ。−−−わかる?

 とにかく、観賞するのに苦しむのだ。作者が恋に悩み、心が千々に乱れる気持で居ることは好い。でもそれをもっと素直な気持で詠ってくれないかなあ、そんな思いがします。現代の男から女へのプロポーズの台詞でこんなの、相手にどう受け取られます?

 「君って存在がなかったらさあ、俺はきっと恋の何かって事が解らないままの青春になるかもしれない」

 もっとも、今の若者が愛唱するポップス系には良くある歌詞かもしれないかな、何故か。演歌には無いだろうヤッパ。

 さて、歌はこのままですんなり世に残っていったわけではありません。複雑表現の歌に仕上げたために、この歌は結局後世に二つの解釈を採られてしまうのです。「未逢恋(いまだあはざるこひ)」か、「逢不逢恋(あうてあわざるこひ)」か?この部分を本文から持って来てここに、例え要約で紹介しても、益々こんがらがってきそうだからやめます。こんなときは、早くパロディー歌に私は取り組んだほうが良さそうです。さし当り出典を紹介しておきます。−−−島津忠夫『百人一首』(角川文庫)です。これまでの第五首「おくやまに・・・」、第十七首「ちはやぶる・・・」、第二十首「わびぬれば・・・」、全て同じ書籍で解説が読めます。勿論百人一首の全ての歌が紐解けると思います。

   飼うことの たえてしなくば 老境に
     犬をみじかな 幸あらましや   berander


 原歌よりもう一ひねりしてしまった“”なあ。後世にまたひと波乱興りそう。



『珍本・百人一首』 第四拾五首   6月28日

 

 あわれとも いふべき人は おもほえで
     身のいたづらに 成りぬべきかな  謙徳公


 「あなたって可哀相」と言ってくれる人も居ないようだ。きっとこのまま自分は身を滅ぼしてしまうことになるんだ。と断定した解釈をしてみました。その上で解説の中にある語訳を見たら、ほぼ間違いが無いようだ。この問題、分析採点すれば10点満点で8点と言う所か。

 と言うのは「いたづらになる」ということは、片恋のために思い死にに死んでしまうことと言っています。解説は池田弥三郎さんです。歌の出典は、『拾遺集』恋五。女に捨てられたときの歌ですと。

 こういう歌が、このところ目白押しです。失恋だとか、逢わないで居る間の胸の内の苦しみだとか身の置き所も失いそうな人のために、当時の社会には、精神のケアをする“施設”などがなかったのか。イメージで湧くのが、『陰陽師』の厄払いとかになってきます。今日でも根治は本人の気持次第でしかないようです。でも、こんな苦しい青春の恋煩いは、避けるべきでない男の通過儀礼だと私は思う。私の20歳代の前半は、殆どそんな日に置かれていました。

 自分が女を捨てるのではなく捨てられる側、あるいは悶々と女の事を想い、胸苦しくなりあるいはいつしか股間のモノが膨らんできたりしていいじゃありませんか男なら。死んじゃうなんて情けないなあ、歌に表現できるうちならまだ好いのかもしれません。

 歌の作者紹介が簡単に出ています。紹介しておきます、この優男のこと。【作者名は謙徳公。円融天皇の時の摂政太政大臣。師輔の子】

 政局を担当していながら、何を色ボケしているんだろうと呆れていたら、やはり「気をつけろ!」と池田弥三郎さんは最後に言っています。絵に絵虚言(えそらごと)があるように、歌には歌虚言(うたそらごと)がある。当時の貴族には、漢詩を素養とする技量だけでなく、恋愛の歌として大和歌を創る才も求められていたから、そのためにこうして、刹那的な恋の歌の一つも詠ってみなければいけなかったようです。そこんとこ、「よろしう思し(おぼし)ておじゃれ」

   あわれとも 言うべき母は 憎し気に
      児をいたぶりて あざになるかな   berander




『珍本・百人一首』 第四拾六首   7月1日

 

 由良の渡を わたる舟人 かぢをたえ
      行へもしらぬ こひのみちかな 曾禰好忠


 直感的に、現代感覚の視覚を持った人の歌だと思いました。景色を俯瞰して思い浮かんだイマジネーションをこの歌に感じるのです。その上で、解説を読んでみました。

 由良の渡は若狭湾の由良であると言います。解説に従って地図を調べました。若狭湾の中の西側、天橋立と舞鶴のあいだ辺りにある丹後由良であろうかと思います。由良川が流れ込んでいます。この辺りを近くの岬の上などから眺めて、海を櫓で漕ぐ漁師の舟の進むさまを見て、感慨を持って、「ああ、あの船だってかじを失えばきっと方向性を失って、行く先も判らないものに成ってしまうだろうな−−−恋の行方を見るようではないか。

 解説をされているのは百目鬼恭三郎さんです。実は私も思った気持を述べていて実に鼻が高い気分になりました。彼はこう言っています。

 【萩原朔太郎は「Uの母音を多用して、静かに浪のうねりを感じさせる」とほめているが、視覚的にもこの歌は不思議な新しさをもっている。作者の目は、足下に横たう海峡をわたっている小舟を見下ろしている。と、それはやがて渺茫たる青い外海に漂い、ついに消える。これは近代人の視覚だ。好忠が当時の歌壇に異端視されたのは当然といわねばなるまい。】

 やはりこの歌に先立って登場しているそれまでの歌の中で、「人」だとか、「むかし」とかの言葉を当時の一般の歌人がどう歌っているのかが判り、つまり人とは恋人の事とか、面と向かってあなたという意味が多く、あるいは「昔」とは、自分以前の昔のことなんかではなく、単なる自分の過去であったりとなって感覚の狭さという印象が強かったのです。だから、この歌にあるように、船の行方を思索し、そこから恋と言う男女の心模様に思いを馳せる精神の高尚さを驚き、近代人感覚を感じたわけです。

 さて、作者紹介にもこう在ります。

 【一生を六位丹後掾(しょう?えん?)という下級官吏で終りながら、自尊心が強く、円融院の子の日の御遊の歌会によばれないのに現われ、歌ではだれにも劣らぬと豪語して居坐ろうとして、ひきずり出された逸話がある。】

一種の奇行の多い人物と言うことです。「そねのよしただ」と読みます。

   信号機 渡る車の 赤を無視
     行方も先の コンビニのパン  berander


 近頃都会・郊外の道路を走る車が、無理渡りするケースが増えています。交通安全上、困ったことに成っています。知らん振りは困ります、交通係官へ。



『珍本・百人一首』 第四拾七首   7月5日

 

 八重葎 しげれるやどの さびしきに
     人こそ見えね 秋は来にけり  恵慶法師


 八重葎(やえむぐら) については参考サイト花の写真館 (ここから左側のメニューリストにある『五十音順」のなかから)参照してください。

 先にひもときをしておきます。出典は拾遺集の秋の部、詞書に「河原院にてあれたるやどに秋来るといふ心を人びとよみ侍りけるに」とあります。この歌の解説をしているのは安東次男さんです。−−−最近解説者の紹介をサボりぎみで申し訳ありません。近況等をうっかり間違えてしまってはいけないので、省略させて頂いています。以下、解説を読みながらこの歌の世界に入って行きます。

 秋になったら参りますと誰かが約束したとか、その誘いにのって秋になったから行ってみたのでなく、秋の季節になったなあと作者が河原院という庭園の中で詠ったわけです。作者がこの宿にいて、荒れ放題を嘆いたり、自慢したり突き放して詠うなんてのもヘンですから、あくまでも吟行に来た折の創作です。

 この河原院は六条坊門の南に源融(みなもとのとおる)が塩釜の景を模して造った、数寄を凝らした庭園だったものを、100年ほど経った頃は、作者恵慶法師の友人、安法法師が気楽に住んでいた。その法師のほうが、一向に構わずその庭を荒れるに委せて居たわけです。ここで幾人かの歌人が歌を詠む溜まり場にしていてこの歌の創作に繋がっていくわけです。

 四句目の「人こそ見えね」は、その庭園に人影も無いという意味と「忍び寄る秋」といういみで目に見えぬほどのかすかな、と言う意味を掛けているようです。しかし実際は仲間達のにぎやかな話し声も聞こえていると推測していいのだと。

 この歌を掛け軸に書いて茶室に掲げたらしい(誰が、いつ、何処で?)。本来だと枯山水などを掛けていたから、侘び・寂びの空間にこんな歌を掛けたらどうなっていくと思いますか? この歌以降に幾つかのケースがあったそうです。

 当然、歌の解釈が変わってくるでしょう。こうして、作者の意図する意味以上、あるいは違う方向に向かうことがあると言っています。「人こそ見えね」を、だから寂びの世界に展開しようと言う意図が選者(百人一首の選者、藤原定家)にも出てくるのだというのです。

 我が家では 白ける空気 晩餐に
     顔こそ出さね 妻のシカトは  berander




『珍本・百人一首』 第四拾八首   7月10日

 

 かぜをいたみ 岩うつ波の おのれのみ 
     くだけて物を 思ふころかな  源 重之


 相変わらず萩原朔太郎さんの百人一首解釈法には、悩まされます。今回もそう。歌の意味も解説することもなく、こんな書き方で歌をいじっている。

 【この歌は上三句でtami nami,nomi の三重対比を押韻している。そして第四句の起頭音を第一句の主調音たるKと対韻させている。・・・】とこんな調子で続けています。

 正直言って何か勘違いをしているって感じ。和歌の創作時点で作者が意図したことと全く違った世界を敢えて発見してみようと睨めっこしているうちに、こんな方向に行ってしまったという感じ。一種の形而上学を意識しているのかも。

 私たちは、食事をした後は美味い、安い、元気が出そう、身体に良さそうなどと、単純に舌や胃袋の感覚から感想をもつのであり、人によっては、カロリーを意識して、摂り過ぎたとかの心配をするくらいであります。それを、食べる客でありながら料理に対し味わうという事を後回しにしてしまって、その料理を作るときの火加減がどうだ、とか、“さ・し・す・せ・そ”の手続きの講釈をしたり、食材への包丁の入り方などはこんなであるとか、そんな事を言っている客のたわごとを述べているみたいです。そんな事は聞きたくないでしょう、厨房に居る料理人だって言ってもらいたくないんだから。

 風をいたみの“K”であってと言っています。くだけて物をの“K”が韻において繋がっているなんて言ってるんです。その上で、かぜ・・の「か」を主調音といい、くだけての「く」を起頭音と言うのです、彼は。最早、感性の成せる発言とはとても思えません。もう、どんな感覚でこういう解説をしているのか理解不能で有ります。

 前回の歌(第42首)では、彼の解説は参考に値しないとして無視しています。その前は第三十九首です。そこでの心境は、もうこの人の解説には出会いたくないという気持でありました。

 いま、彼をケチョンケチョンに批判しています。仕方が無いからです。百人一首は、庶民への遺産でしょう。古代から中世のこの国のいわゆるインテリが心を述べた文芸なんです。一つ一つの歌を言語学、発声学などで研究するのにはそぐわないのです。勘違いの最大の理由は、ここにあると私は言って居ます。百人一首に向かう殆どの国文学者のスタンスが正しかったのです。

 歌の解釈に気持を巡らせることは、もう出来ません。いい意味を持つ歌なんだろうなあ。

 かぜをいたみ 岩うつ波の おのれのみ 
     くだけて物を 思ふころかな  源 重之

 

  胸の痛み 波打つ脈に おののいて
     心筋梗塞 思う心地か  berander





『珍本・百人一首』 第四拾九首   7月17日

 

 御垣守 衛士のたく火の よるはもえ
     ひるはきえつつ 物をこそ思え 大中臣能宣朝臣



     御垣守:みかきもり  大中臣能宣朝臣:おおなかとみのよしのぶあそん

 この歌に出てくる衛士の焚く火から連想したことがいかにも直情的です。当時の和歌の作者の精神構造がしのばれます。で歌の中の第五句「物をこそ思え」は、宇宙感とか観念とか、愛の何たるかなどと、哲学的なんじゃなく単に、そんな風だねと言っているに過ぎないことをも踏まえて観賞すると、「それで?」と先を聞きたい気持になります。

 御垣守とは宮廷の警備をする部署で、そこに配属される衛士は交代制で諸国から上洛して一年間(後に三年間)その任務にあたったとあります。その篝火のもえるのも女との愛の行為も夜。

 そして、第四十三首の解説の中に『後朝(=きぬぎぬ)』という言葉の解説が有ります。朝になって男と女がそれぞれの衣服を着るという説明部分があって、当時の人もちゃんと服を脱いで肌と肌を合わせて愛し合っていたことが判ります。あの十二単(じゅうにひとえ)の重厚な衣服も、男の装身具もかなぐり捨てて肌を重ねて愛し合ったなんて、ほっとしませんか? 

 オーソドックスなセツクススタイルといい、昼は萎(しぼ)んでいるという心境は今も昔も基本的に変わっていなかったと。安心します。私にとってこういうことの確認をする事も一つのワンダーでサプライズな百人一首紀行であります。

 歌を吟じる際も素直な表現であると同時に技巧的なものも入っていると解説するのは、岡野弘彦さんです。夜の燃える様、昼の消えている様の篝火と愛の血潮を言葉のしらべをととのえて、美しい和らぎを持たせている。と言っています。−−−然り。

 当時の人たちは桜が咲いては愛する人の事を、宮廷の庭に焚かれた篝火を見て、一種の異性への発情をしているなんて、結構実存主義的とも言えるストレートな生き方をしていたと言っては、マチガイだろうか。

 作者大中臣能宣朝臣と言う人についても述べていますから、記しておきます。原文そのままの引用ですからこれまでと同様、【  】内のものとなります。

 【大中臣能宣は延喜二十一年(九二一)生まれ、その家は神事に奉仕する家であったから神祗官に仕え、祭主、正四位となり、正暦二年(九九一)に没している。天暦五年には梨壷の五人の中に加えられ、萬葉集に訓点を付し、後撰集を撰進することにたずさわった。神主の職の家に生まれた能宣は、この歌の作者としてもふさわしい】

 暗い森 エッチの度の 夜のゴミ
    昼は散らかる 物をこそ思え   berander


 自然保護のためバッチイごみ等は、持ち帰りましょう。



『珍本・百人一首』 第五拾首   7月17日

 

 君がため をしからざりし 命さへ
    ながくもがなと おもひけるかな 藤原 義孝



 この歌は後拾遺集恋の一に、「女の許より帰りて遣わしける」と詞書があって出ているようです。をしからざりしは「惜しからざりし」で、惜しくない命となり、「あなたのためならいつ死んだって構わない」とかなり刹那的な気持で居るようですが、多分嘘っぱち。その後に四句・五句で、「とんでもないことだ。ずっと、ずっといつまでも生きていて、貴女に逢っていたい」と言うことで、女の心を繋ぎとめている。言葉の対比による効果を狙っていると思います。

 多分当時の男女関係は相関図を表してみると結構入り乱れていたのではないか。女のスケジュール表に、「あら、あと2時間すると、ズーさんが来るじゃない、たいへん」なんてこともあるかもしれません。そういう時さっきまでくっついていた男としては、そんなことを予見して、手を打っていた。それが後朝(きぬぎぬ)の歌に籠めた男の心情か。

 「二人目の男との床かたりで自分がコケにされたら堪ったものではありません。それこそ心は千々に乱れて思い悩み、更に周りからもきっと笑いものになってしまうかもしれません。

 何かの機会に平安時代には、肺結核が貴族社会にも蔓延していたと聞いたか読んだかの記憶が有ります。微熱出しながら、のどに痰を絡めながら、時に咳を発しながら営んでいたなんて、まさにせつな的な恋であります。と、ここまでが私の思い込みを籠めた解説ですが

 ここから少し長い文章ですが、解説者吉井勇さんの解説をそっくり引用します。ヘンな方向に話が行かないように正しく載せたいというのが理由であります。出展は、以前のものと同様『百人一首夜話』(交蘭社)です。原文に表記されていたルビの一部を割愛しています。


 【義孝は一条摂政伊弄(もろたヾ)の子で、母は代明親王の女(むすめ)であつた。彼にはもう一人同腹の兄の挙周(たかちか)があつて、二人とも容姿の美しい青年であつたが才能は弟の方がずつと優れてゐた。

 或る日一条院で連歌の催しがあつた時、「秋はただ夕まぐれこそただならね」と云ふ上の句に付ける下の句に困つて、みんなが幾度も繰り返して詠じてゐると、傍で聞いてゐた彼は横合から、「荻の上風萩の下露」と云つて付けた。その時彼はまだ十二歳の少年だったので、みんなはこの少年の異常な詩才に驚かされた。

 彼は若い時から仏教に帰依して、道心の深い信者だつたので、世間の多くの公達のやうに浮かれ歩いて、女に戯れるやうなことがなかった。それが或る夜知つてゐる女房の局になつてゐる細殿に立ち寄つて、夜が更けるまで話し込んで帰つて往かれたので、女も変なことだと思ったから後から人に随けさせると、彼は禁裏の北の陣を出てから、道々法華経を誦しながら、大宮通りを上へ上がつて、氏寺の世尊寺に詣でられるのであった。

 寺の庭の紅梅の木の下に立って、「滅罪生善往生極楽(めつざいしょうぜんわうじょうごくらく)」と唱へながら西の方へ向って額づく姿が、月の光の中に美しく見えたと後を随けた人が話すのを聞いて、女は一層彼を奥床しがつた。

 彼はかう云ふ厚い信仰心を持つてゐたので、殿上で何か御遊がある時なぞも、人がみんな狩装束をしてゐるのに、彼は一人白い衣を重ねた上に香染の薄い色の指貫(さしぬき)を着て、水晶の飾りをした紫檀の珠数を袖に隠れるやうに手に懸けて、いつも口癖のやうに法華経を口の中で咳いてゐた。それが又かへつて人よりも艶に見えた。

 天延二年には天下に痘瘡が流行つて、多くの人の命を失つたが、彼の兄弟もまたこの疫に罹つて、九月十六日の朝兄の挙周が亡くなると、その日の夕方に彼も又果敢なくなつた。彼は再び起てないと云ふことを知ると、「死んでもその儘にして置いて呉れ、もう一度蘇生つて法華経を諦むのだから。」と云ふ遺言をして、方便晶を講みながら死んだ。・・・】

 逸話として、伝えたいという意志による引用であることで、お許し願います。前半の私の歌の解釈がまさに下司の発想と言わねばなりません。

 君のため 出し惜しみした 命さへ
     個室ビデオで おもいきりヌク   berander


 四拾九首目と前半最後のこの歌。よせばよいのに初心に戻って創りました。



 第51首〜60首