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−闘病記− 第一節

 序章
 世のしがらみや渡る世間に於ける損得を考えた時、自分の病(やまい)に関する情報は極秘個人情報だと思う。あまり人に語るべきものでは無いと思う。かの「元」の開祖、成吉思汗(チンギスカン)も、遺言によって側近・肉親に、自分の死を流布してはならないと、厳命している。日本の戦国武将・武田信玄然り。

 人に悪用される可能性のある個人情報の管理は必要である。しかしあまりにあれもこれもと秘密を抱えていては、何をか言わんや。肩の力を抜き、虚心になってみると、どうでもいいじゃんと、こだわりが取れて楽になることってある。自分の経験や考えが人の役になるなら、どんどん披露していく事の方が、サラサラと生きていけそうな気がする。よし! 私はB型、胆はきまった。


 −闘病記 1−
 2004.9.16
 この日午後から予兆があった。喉元に引きつりを伴う焼ける様な痛みが始まった。ここから今回の入院治療のシナリオ、いやカルテが書き込まれて行ったと断定してよいと思う。この症状は遡ると、約10年ほど前に最初の経験をした事があった。

 朝の通勤時、発車間際の電車に駆け込み乗車して荒い息をしている最中に起きた。この現象がいわゆる最初の軽い狭心症であったのかも知れない。その症状は数分で収まり、その後何年間は一年に1.2度あった程度で、軽い同様の痛みがあっても、身体に潜む大病のシグナルであるとは少しも気付かなかった。このシグナルはふたつの音色を持ち始め、喉元の痛みとは別に、スルメなどを噛み続け過ぎた後の顎が痛むような、『顎疲労』症状で現れることがあった。

 その後、昨年4月初め、朝起きた時に今度は、ほぼ心臓のあたり、みぞおちの左二箇所に鈍痛がする。10日先あたりに海外旅行を予定していたので、こりゃ、チョット医者に行って「何だ?」と調べておいた方が良かろうと近くの総合病院に診察を受けに行った。血糖値=異常値。心電図=狭心症の疑いあり、かつ、過去の軽い心筋梗塞の形跡有り。直ちに入院の必要有り。

 入院を経て、その後、1年間、断酒をしました。一応薬を飲み続けました。しかし自分は判断に間違いをしていた。「人体に自然治癒力有り」などと呪文のように唱えながら、肉体を確実に成人病の隘路に踏み入れて行ったのです。


 −闘病記 2−
 その日は(9月16日)、血液検査の結果を見て、疑わしき二つの病気を医師は想定した。『逆流性食道炎』か、それと『狭心症、乃至心筋梗塞』。但し、それを決定付ける数値が出ていない。病名を判断する医学的手段を詳しくは私に判るわけが無い。患者側である私にとって、あの病気・この病気と希望的妄想がよぎる。単なる筋肉痛? ポリープ? 筋肉と骨の間にある神経などの炎症?・・・やっぱ、心筋梗塞? しかしそれって怖い病気?

 無知の度合いに比例して、状況は悪化する。と思う。身体の病気も、社会や経済の弊症も、ストーカーの心の中も、当事者の認識を離れて客観的状況は抜き差しならない地獄に向かっていくと思う。『様子を見ましょう』として医師は私を日常の生活におくりだした。その足で私は、日頃通っているスポーツ・ヂムに行きサウナで汗を流し、痛みを騙しながら翌朝を迎えた。症状が消えないでずっと続いていたのはこれまでに無かった事。 

 2004年9月17日
 流石に恐怖心が惹起した。朝一番で再び、病院に駆け込んだ。今度は、いくつかの検査によって結論が出た。私は『カテーテル』による治療を受ける事になった。聞いたことがある、私の長兄がやっている。心臓発作を起こしてその時治療していると聞いた。足の動脈から管を入れて欠陥箇所を脹らませて治療をしている。

 自分はこの段階で即、車いすの車上の人となった。そこまでの医師が、私の担当主治医を呼んだ。呼び出された主治医のそのときの顔は、『何でこうなるまで、きちんと私の診察を受けなかったんだ』と言っていた。その病院のシステムとして症状の安定しているケースの時間の効率を考えた対応として、投薬だけの場合は担当主治医以外医師からの処方だけを受けており、久しぶりに彼と顔を合わせたのだ。私は、この段階でもうひとつの後悔の念を感じた。ひょっとして、この主治医の立場を悪くしてしまったのではなかろうか。それまでの医師とは、この病院の院長、そして主治医とは内科担当副院長である。

 この病院では出来ない。あそこと、あそこのどちらが良いか? ではこちらで。となったところで救急車が呼ばれた。そしてこの病院の看護婦と細君の付き添いで救急車は一路治療を受けるべき病院へと向かったのである。


 −闘病記 3−

 本来、私の血管は人並み以下に細い。そのこと自体血液の渋滞を身体の諸所に起こす危険が大きかった。高脂血症となり血流は澱み、パイプ自体も内壁が膨張して管が更に細くなっていく動脈硬化を起こして、最早どの箇所で事故が起きても少しも不思議ではない肉体となっていたと思う。

 気持だけが勝手に健康体を過信して、スポーツヂムでは週1ペースでエアロビクスを舞い、月に半分は、サウナ風呂と水風呂をセットにして汗をながしてきた。1年余の断酒を成功させた強い意志の元に生きてきた。それが今、命に関わる危険な領域に立たされた、いや、横たわっている。酸素を供給するチューブが鼻腔に突っ込まれている。チューブ状態の始まりである。

 ベッドの幅の半分ほどの広さのものを“ストレッチャー”といいます。その上に乗せられた私の顔の上に白衣の医師の顔が視野いっぱいに覆いかぶさる。心不全との闘いだという。エコー検査を見ると心臓の一部に、既に壊死が見られると言う。直ちに詰まった血管を修復する治療をします。・・・・手術でなく、治療であると言う。下半身、ジーパンとブリーフを同時に掴まれて、ずり降ろされ引っ剥がされる。「きゃーッ!」と言う場面、「あ゛ー」と涙が頬を伝わる場面であった。臍下からポールの近くまで、陰毛が剃られる。

 第二のチューブがペニスに差し込まれる。腰の周りに男女の若い3.4人の看護士がいる。誰の手によってこれ等が進行しているか定かでない。現実は、彼らにはどうという感想は無いだろうが恥ずかしい。それ程誇れる一物ではない物を見せてしまった、晒してしまった。殊更にチンチクリンに萎縮している事だろうに。腕に点滴の針が刺さる。3つ目のチューブであった。

 「先生、私は俎板の上の鯉になります」。虚勢ではなく真から心に湧いてきた言葉を私は述べた。こういう体験は過去に二・三度ある。年季が入っている。20代初めに喀血している。今から10年ほど昔、脊椎圧迫骨折--いわゆる背骨をつぶしている。どちらも苦痛な入院生活を経て社会に復帰している。自分の身体には修羅場を潜ってきたという紋章が刻まれているんだ。

 視野の端に外来患者の視線を浴びながら、一路オペルームへ私は運ばれていった。


 −闘病記 4−
 ハイヌーン。窓の無い部屋であった。手術台に移される。私の着衣は、素肌にバスタオルと薄い寝巻が上半身に掛かっているのみ。その上に保護シートが掛けられる。腹部の上に治療を施す際の各種器具、用具が置かれるようだ。覗き窓のように一部が開けられている。余程首を上げて見ないと、視界に入らない。しかしそんな事で力んだら怒られるに決まっている。胸の上方にエコーか]線発信機あって、私の心臓をこれから舐めるように走査していくのだろう。両足の付け根から動脈を通して心臓まで血管の中を這って行く治療管をモニターに映していくのだろう。モニターの一部に心電図の波形と血圧の数値が現れる。クランケ(患者)はこれを見続けていると、どういう気持になるんだろう。

 医師が二人タッグで治療に当るらしい。見習医師か看護士か、4人ほど私の周り各部署に立ち、声の指示に従って動く。「麻酔を打ちます、少し痛いですよ」「気分はどうですか?」「胸に圧迫感がありますか?」−−− 人が最も正直に意思表示をしなければならない瞬間とはこんな時を於いて他にないのでないか。ブスリと動脈に針が刺さる。ぬらぬらと生暖かい血が周りを伝わる。若干の溢れ。

 「あっ、ここだ!」。造影の画像か? 患部が詳細に見えたらしい。画像が拡大されていよいよ施術がはじまる。血管と、血液の流れが見える。その先に血液の詰まった血管があるのだ、私にはそこは見極められない。この先、クランケには意味不明の専門用語が飛び交う。『此処は何処? 私は誰、何されているの?』の状態。正に俎上の鯉。私は地雷。センサーか、発信機なのか、胸の上を縦に横に角度を変えながら私の心臓を見ている。手術台がレールの上を走ってガタン、戻ってガタンと動く。ガラス越しの隣室では、医師の指示で様々な動力をコントロールしている様子。カテーテル治療によるステント血管内装着です。

 この治療の最も危険な事態とは何か、終了後の出血である。足の両付け根からこの治療後、直ちに血管から管を抜いていない。血管に管を刺したまま丸一日置かれる。この間、患部(冠動脈)にどのような事態が起こるか判りません。その為に、管を差し入れたままで安定を待つ。身体を伸ばしたまま、天井を見つめたまま、24時間、時の刻みを見続ける事になっていくのだ。手術室から病室に移される。看護士約六人によって身体の下に敷かれたシートごと、ふわりとベットに移動させられる。此処は集中看護室である。常に私の体は看護士に晒される。

 チューブ等を確認する。右足付け根に管が差し込まれたままで、バルブを閉めた蛇口状態。左足付け根に挿した管から酸素が心臓の鼓動を介助している。心音がだからひとつ多い。『ドドックン、ドドックン』と鳴っている。右足太ももに点滴その1、左腕に点滴その2、あわせて4乃至6袋くらいの液が私の体内に注入されていく。そして、右足親指は洗濯バサミに咥えられている。頭の上のモニターに血中酸素量98%前後の数値がでている。心電図の吸盤が5,6箇所胸のあちらこちらに吸い付いてこれもモニターに波形をおくっている。右腕に血圧測定ベルトが巻かれ、約30分毎きりきりと腕を締め付け、ホッと弛緩する。上が100前後、『低くない?』とつぶやく。鼻腔に酸素が補給され心肺の負担を軽くする。ペニスに挿入されたチューブからときどき、膀胱から尿溜めの袋に移る尿の流れる感触が伝わる。

 そして、腰痛が襲う。腰とベットの心地の悪い会話がはじまる。


 −闘病記 5
 本来、挿入の用をも為す私のイチモツが、今は敵討ちにあっている様。これが時々尿量の計量に来る看護士によって引張られる。痛い時、普通にその痛い部所を言うのだが、言えない。

 ウォーターベッドというのがあって、その寝心地がどんなであるか知らないが、こんな時に良いのではないか。膝を曲げて、腰を楽にしたいがこれが厳禁、足の付け根に力が入ってはいけない。この状態が2段階あって、まず針が刺してある状態の24時間、次にこれを抜いて、その部分からの出血を押さえる為の圧迫処置に約12時間である。

 更に私は、9月18日の昼食から三食の絶食をさせられた。入ったものはいずれ出て行くから今の状態でウンチングを抑える為に仕方が無い。そして兵糧攻めと、監禁に等しい拘束状態をこらえている精神状態にとって唯一の拠り所は、この苦痛が開放されるときがやがて確実にやってくると言う希望だけだと思う。重い病を身にもって、日ごと苦痛や不安が増していく病床の中で、やがて絶望した精神の果てに亡くなられていく人に比べて、私は雲泥の差で今は恵まれていると真から思っている。腰の下にタオルを当てて、多少の向きを変えてくれるとは言うけれど、一度始めたらもう頻繁にやってもらわないと気が済まなくなるのが目に見えている、これもガマン。私は、誓っている。看護師を煩わせない患者でありたい。多分『やせ我慢の美学』に染まっている。

 患者に対して、病理の説明、治療の詳細をきちんと説明する医療は有無も無く私は必要だと思った。時に、死の覚悟を促す事を含めて。言葉は適切で無いかもしれないが、究極の自己責任で自分の肉体と精神を見つめなければいけないのだから。それにつけて思い出される逸話がある。自分のサラリーマン時代の或る社長の話。本人の尊厳やプライバシーをいくらか傷つけてしまうかと思うが、読む限りその方を特定できない形で敢てここに述べてみたい。

 ヘビースモーカーの末、肺を患いその方は小型の酸素ボンベをキャリヤーに載せて行動するようになり、やがて病床に横たわり、そしてなくなられました。私が彼を最後に見たときの光景はそうなる少し前だった。彼が外出から帰ってきて、苦しそうに呼吸をしながら、玄関から階段を昇降する電動椅子で上階に辿り着いて、社長室の手前の1メートルほどの高さの事務所カウンターの上にある携帯酸素カセットボンベを必死に掴み、吸引マスクに口を当てて、荒々しくそれを吸い始めました。そこは事務所の中で幾人もの社員の目の前でもありました。

 自分は、別の場所にいる人間で、たまたま仕事上の用事で此処に来て、この光景を殊更印象的に見たとは思う。しかし『何故、社長室に駆け込んでからそれをしないんだよ』と感じました。そうでなかったら、何故常に携帯していなかったの? たまたま、持ち忘れたの? 人間には、人に見せてはいけない“弱さ”と言うものが有るんじゃないか!

 やがて彼は入院していった。病室での彼を風の便りのように聞くに、往生があまり良いものではなかったと言う。会社幹部の話であった。さて、人事(ひとごと)で無い自分の病床日記は、それでは人に失笑を買うことの無いものであったか。  続く

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