随 筆 川 柳

 

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  第二部

  第四話 (1) 高草山

 ふるさとの山に向ひて
 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな
 
  石川啄木 歌集『一握の砂』
 
写真は昭和35年(1960)ころ。
 3番目の棲家の近く、乙女ケ浜よ
 り写す。今は小川 (こがわ)港に
 なっている。


 お隣の国、韓国に『落郷』という言葉があります。『都落ち』には似て非なるものがあると思います。身も心もボロボロになって都を、あるいは栄華の園を追われ郷里に戻った後、後悔も怨念も無常観も、そこで癒され、やがて自分を立ち直らせていく懐の地“ふるさと”に帰る事。それが、かの地で言われる『落郷』ではないでしょうか。

 私の『落郷』の地は焼津です。町の北方標高501メートル、たおやかにそびえる“高草山”は今でも心の中に仰ぎ見ては勇気が湧いてくる山です。そして高校時代の日々を思い出す度、この高草山が背景に浮かび上がってきます。

 その山に遠足で行って登ったのが小学6年生の時です。学校の年度行事にパターンがあって高草山は6年生、航空燈台(写真右端の山)は5年生の時に登らせる山、となっていたようです。その航空燈台に登った時、生徒同士で「おかしいョ」とつぶやきあった事を思い出します。つまり、航空燈台を登るには手前の山を一山越えて入って行き、いつも町から見ている高草山が後方に遠ざかっていくのです。体力面を踏んで高草山が先じゃないの?と小学生は考えたのです。2度3度、腹痛で“野糞”を余儀なくされた生徒が出ました。予想以上の体力疲労を経験しました。眺望もいまいちだったのでしょうか。

 そして翌年の高草山登山。登坂の苦しみを払拭させる程に、皆が山頂から眼下に広がる自分の住む町焼津の全景を歓声をあげ、歓喜の感動で眺めました。毎日通う自宅と学校の道のりが、こんなにも狭かったと思い知らされました。パノラマのような視野の端から端まで、音もなく東海道線を走行する列車の非現実的な光景が忘れられませんでした。
 これが教育として行なわれる遠足の精神だったと思います。この体験が1年早かったら、これほどの感動が味わえたでしょうか。

 ふるさとに戻り、高草山の見下ろす街の中で、私の高校生活は再出発します。幾多の甘苦しい思い出も、鬼ッ子の業も、この山は見つづけていきます。



  
第四話 (2) 健児我等血潮はたぎる

  

 戦後の教育制度改正があったとき、旧制中等学校は高等学校となりました。旧制高等学校は統廃合や大学へ移行となりますが、各地方の旧制高校の一部と、海軍兵学校、陸軍士官学校等々も、この旧制中学校の範疇にあった様です。戦時、在校生の中からは学徒出陣で、“わだつみ”となられた方も多く居られます。 以来、卒業生も高齢になられ、鬼簿に入られる方の続いていくのもやむを得ない歳月が流れています。

 毎年10月中秋の頃、東京日比谷公会堂において、『日本寮歌祭』が開かれました。校旗と、制服・帽子と、寮歌吟唱を熱く披露し合い、我が人生の立ち上げの時代を懐かしむ催しです。聞く者の心も鼓舞し、純真になる雰囲気があります。20世紀最後の平成12年第40回大会で、それまでの形式は幕を下ろし、21世紀となって新生しています。

   青春はアイン・ツバイ・ドライとハイネなど  三 竿

          

          写真は3枚とも1996年10月5日撮影

1961年(昭和36年)の第2学期となり、生徒も教諭も学校に戻って後の9月初旬、私は静岡県立藤枝東高等学校に転入しました。男子生徒と女子生徒の割合は約“9対1”です。女子の大学進学志向が膨らむと同時に、共学となった学校だと思います。大学進学への猛勉と高校サッカーの雄を誇る高校です。 年間を通して体育の授業はグランドに出て、サッカーのみをさせていました。サッカー部のレギュラーと、一般生徒との実力と技術を伯仲させ、常に全校男子を2軍・3軍状態に置いて行く方針を採っています。私の在校時代、記憶にある強豪として、山梨韮崎高校・埼玉浦和南高校などがあり、常に遠征しあって切磋琢磨の試合を行っていました。  そして、全国大会規模の試合に出場の前、『壮行会』が体育館に全校生徒を集めて行われます。

 “フレー、フレー 枝高”

 応援団長絶唱し、ブラスバンド高らかに、トランペットは鳴り響き、大太鼓腹を打ち、旗手の手に校旗ははためき、全校生徒が右手拳(こぶし)をたすきに振り、校歌と応援歌を斉唱します。

 ♪ あゝ 東海の空遠く
   輝く光 身に浴びて
   溢るゝ幸に奮い立つ
   健児我等 血潮はたぎる
   いざ いざ いざ …


 壇上の選手を闘いに送り出す儀式には,全てとは言わなくとも、多くの生徒が高揚した気持ちになります。正に、寮歌の世界なのです。
 硬派の男の心に恋が芽生えるとどうなるでしょうか?『喜劇』が見られます。ちなみに、軟派と硬派の、女性への愛の告白・アプローチの違いを考えてみるだけで、凡その見当がつくものです。やりました。



   第四話 (3) マドンナ


      新調の万年筆でloveと書く   三 竿

 体に電流が走ったという体験でした。「東京から転校してきました…」ぐらいの言葉しか出なかったと思います、定かには憶えていません。その短い言葉で教壇の横で挨拶して目を向けた先に、掌に顎を斜にのせて、マドンナが私を見つめていました。その人にだけ光が当たっている映像、一瞬間の・しぐさの・美しき・かけがえの無いその容姿は、自分の感性で受け止め得る限界を超えて飛び込んできました。その第一印象が焼き着いて、時間が停まったままの一日となりました。

 まずはライバルの存在は?、そして本人の趣味、好み、家庭環境は?、それから起こした行動作戦……。夢にもこんな智慧は働きません。恋は盲目・猪突猛進・「まだ上げそめし 前髪の・・・」と舞い上がっていく起点が確立されました。

 人を恋する事が、向上心を昂める偉大なエネルギーを生む動機になることがあります。しかしそれを私は自覚することなく体現していきました。私の高校生活は、この向上心を何処に発露していけばよいのか、悪戦苦闘をしていきます。

 そしてその年の秋の終り頃でした。マドンナへの告白タイムは、夕焼けの空を背景にした一本のあぜ道の中ほど、彼女の通学の帰り道で、私が偶然のように現れて実現します。火の出る恥ずかしさが今でも湧いてきます。どんな言葉が私の心から、ほとばしったのでしょうか。

 「ちょー困る!」みたいな表現法は、まだ発明されていない時代です。少女は黙って私の話を聞いています。二人は自分の自転車を押しながら、そして時々立ち止まったり、心落ち着かない時間を体験します。

   ♪おんな心の 静かな 湖に
    誰か小石を 投げたのよ
    それは あなた・・・
     
(歌:コロンビア・ローズ「かりそめの唇」)

 果たして、自分はそうだったのか、体ごと飛び込んでしまったのではなかったか?



  第四話 (4) 次兄のこと

 私の高校生活のもう一つのキーワードは、“次兄に倣う”ということです。高校生活を送る中に、このキーワードを意識して体験したことがいくつかあります。慈母観音を母にたとえるとしたら、彼は私の慈父菩薩であったといえるのです。

 弟を田舎に戻した事をどれだけ自責していたか、心の深くに仕舞ったものを、もう聞くことは出来ません。次兄は陰からバックアップを続けてくれていたのです。

     

 
死別の悲しさを強く実感したのは、私にとっては父でなく、母でなくその次兄の死です。平成の世を見ることなく、昭和の中で生まれ、死んでいった兄。夏の急死でした。五十歳、自分は43歳、後厄の年でした。

 暑い日でした。炎天下の告別式から火葬場へと移動。淡々と傷心の時が過ぎ、斎場職員が遺族代表を呼びました。私と兄の長男(私の甥)が連れて行かれたところに、ブリキ(?)を葺いた浅い一畳程の箱の中で、兄のお骨が最早部位も分らなくなった状態で熱風を吹き上げています。

 「居る」存在から「ある」存在となってしまう事を突きつけられた情景、生から死への急激な戸板返しに私は声も出ず、嗚咽のように涙が湧いてきて、そして、スゥと涸れていくのを感じました。その兄の死から20年が経ちます。

   

 三つ違いの姉が結婚し、家庭を築きつつある状態の中に私は入り込みました。義兄は次兄と同じ年、ということで理解を持ってくれたのです。しかし、自分には小使いと学費はバイトで調達する必要がありました。

 そこで頼った伝(つて)は次兄が高校生の頃世話になった、本屋の店番アルバイト。学校の引けた後、直接その店に立ち寄って夕方の7時頃まで、お客の混み具合や社員のローテーションに合わせて終業となります。アバウトな時間管理の固定月給制でした。1960年代初めにあっては、社会全体がまだコスト・パフォーマンスとか、時給制など緻密な労働管理の概念は希薄だったようです。

 これって何?という出来事がアルバイト先でありました。マドンナと一緒に夕日を仰いだあの日から十日ほど後、店に出勤して入り口から奥に入って行こうとした時、マドンナが立ち読みしていました。「オッス!」と言いました。心がワクワク、きゅんとした割には、そっけなかったかな?

 事務所で着替えを急いで済ませ、店に出てひと言話し掛けようと見ると、ポカンとそこは空いていました。マドンナは立ち去ってしまいました。告白タイムの、揚がりまくっていた時、この店で自分がアルバイトしていることなど、余計な事まで言ってしまったに違いありません。日記に『Sは、僕を見に来たのだろうか?偶然だったのか?…』。

 ああ、男女交際がしたい。『青い山脈』のような、兄の体験した充実した高校生活のような、世界を自分は思い描いていました。

 情報と物と様々な場やインフラが溢れ、人々の意識がひそかに且つ大胆に絡んでいるカオスな現代、男と女の交際の出会い系では、世代間ギャップを埋めてしまう『援助交際』まで用意されている状況に比べ、その頃自分は。数少ないチャンスをセットし、告白までしてせっかく飛び込んで行った愛の世界の中で、その後も何と失策の多かった事か。

   初援助小ギャルに敬語使ってる 三 竿
   あのゥそのゥ入り口見えぬ愛の園 三 竿


  第四話 (5) ヒッチハイク −1−

 高草山のふもとに広がる水田地帯を長く裂いて、廃墟のように取り残されたままの土盛が東西に伸びていました。大日本帝国陸軍か海軍、或いは鉄道省が建設途中で敗戦となり、幻となってしまった“弾丸鉄道”の夢の跡です。小学生の頃、夏から秋にかけてこの場所一面の雑草が生長をとめて、枯れはじめる頃、昆虫を採りに行きました。

 その土盛は街なかの平屋より高く、二階屋よりも低い程度。土手をよじ登るようにその土盛に上がって、昆虫を追いかけました。子供同士がトンボ・蝉・蝶を採る時は、より大きなものを必死に追いかけます。“しおからトンボ”より“鬼ヤンマ”・“銀ヤンマ”、“あぶら蝉”より“シャンシャン(クマ蝉)”を友達よりもより多く捕まえ見せ合う事で、鼻を高くしたり、悔しがったりしました。

 その土盛一帯は、小学生男子の昆虫王国でした。特に此処にしか居ないビッグなバツタ・イナゴの存在が子供世界で伝承されていたようです。自然界の息遣いが自分たちの身の回りにいっぱいあり、子供達を誘(いざな)ってくれました。鯰の棲む川。川魚がよく釣れるエサとなるミミズが掘るとわっと出てくる瀬戸(せど)。蜆(しじみ)が釣れる小川(川底に湧き水があって砂地の浅い場所の所々にある小さな呼吸孔に松の葉っぱを刺すと釣れる)など、日常の遊びの中、アドベンチャーランド・ワンダーランドを私達は駆け巡っていました。


 
    

 


 京都以西が未踏の地でした。さし当り、その先までは是非足を延ばしたいと思っていました。書店の家族に学年で私より1年後輩の息子がいます。出発真近になって「家の息子を一緒に連れて行ってくれないだろうか」と主人に頼まれました。『かわいい子には旅をさせろ』ということか?・・・お供つきとなって、とにかく出発進行。
                       
  大阪心斎橋(?) 1962年夏




  第四話 (6) ヒッチハイク −2−

  高校二年生で体験したヒッチハイクは、冒険と魂の旅でした。高い山に登るでも、広大な海原に漕ぎ出すのでもない私の旅は、「どの町の土を踏んで・どんな触れ合いをその地で体験するか・その夜のねぐらはどんな処になるのか」。その中に、限界・驚き・不思議そして、二度目がない体験などを得ていきました。


右に居る相棒の意見を取り入れ妥協した結果やって来た地、敦賀の海岸:
1962年8月。波静かな夏の日本海に驚く。

写真右、沖に見える半島の山の中腹に時々白い煙が立ち、間を置いて「ドン・・・ドン」と鳴る音が届いた。
 「敦賀原子力発電所」建設(に先立つ周辺整備?)工事の“発破”現場を遠望していたとは露ぞ知らぬ体験となった



 怖いもの見たくて旅に胸躍る  三 竿

 願望通り、第一夜のネグラは名古屋市内に入ってから、街角に見つけた交番でした。宿泊交渉して無事、安全な寝ぐらをゲット、天井の明かりと、コンクリート床の硬さでよく寝られず、その反省で二日目は、大阪城濠の近くの芝生に新聞紙の中に、めいめいがサンドイッチ状態、簀巻き状態となって就眠。朝起きたところで、パトカーがサイレントに近ずいてきて、一応挙動不審者扱いで尋問してくる。最後に「仰山蚊にくわれてるでぇ」。

 ヒッチハイクをしているうちに段々学習していって、コツを掴んでいくことがありました。第一には都会の街中で車を拾う事の不利。大した距離を稼げないと言うより、自分の位置を見失ってしまう事。次に、拾うなら乗用車は望み薄。特に汚れた服装に見せても居ないのに嫌われてしまいます。ヤッバ有難かったのは、ダンプカーでした。高い運転席からの眺望の素晴らしさと、乗用車を睥睨(へいげい)し、まさに土石を満載して天下の大道を疾走する醍醐味が忘れられませんでした。煙草、饅頭、ガムを運賃代わりに用意し、運ちゃんに選んでもらって分かれます。

 陸送手段に長距離貨物トラックが主役となるのはもう少し時代が後になるのですが、それでも100キロ、200キロ位の距離は走っていたでしょうか。貨物トラックにも停まって貰いました。この車輌も道路を高く見下ろす事で、快適なドライブを満喫できました。時々、犬猫の事故死体を目撃しました。
 「こいつら、夜中の暗い中でチョロチョロされると、人と区別が着かんので危険なんだ。道を走る商売のわし等にとっては、要らんもんだよ」。

 二人の旅程が相棒の親によって、実はいじられていました。泊まるところのアテが無い旅とあっては、さすがに心配だったのです。親戚とか知り合いに依頼が届いていて、残りのネグラ2泊だったか3泊だったかは、ふっくらとした布団と冷風つきのスイートルームになってしまいました。

 この快適さは自分の今までの生活に無かったので、居具合は最高に良かったのですが、「つまんないなァ」という不満が生じました。最初の宿泊宅を出て、大阪の街中の本屋で地図を見ながら人目はばからず、私と相棒は行き先の事で口論となりました。

私の主張「四国とか九州とか、本州から離れている地へ踏み入りたい」

相棒の主張「このままの旅行のやり方では、何処に行ってしまうか分らない。不安である」

 今夜の宿泊先も決まっているとの事、やはりそうだったのです。彼は私のペースに引きずられ、親の敷いたレールが頭の片隅にあって、心構えの違う同士の旅になってしまい苦しみ始めていたのでしょう。


私の提案「では、せめて日本海を見たい」


 琵琶湖西岸の炎天下を歩いて北上していると、食堂があり頃合いも昼食時。メニューの「しっぽく」という名前に惹かれて、注文しました。自分は、サラリーマンの昼食時など、レストラン・料理店は日替わり定食に、「本日は〇〇・・・」と書いて欲しくないと思っている人です。
 なにかな?何かな?と出てくる前から、割り箸など早々割り裂いて待つ間の期待感が好きです。

 ひなびた土地のだだっ広いその食堂で食べた「しっぽく」という麺料理を汗を噴出しながら食べました。小ジョッキくらいの生ビール60円。相棒は、初めいらないと言っていたのを嘆願したので少し分けて飲ませた途端に、結局追加オーダーとなりました。旅の開放感を共有できたようです。


  第四話 (7) 高校3年生

  流行歌の盛衰に合わせて、当時の世相が印象強く思い出されることがあります。大戦中の軍歌は無論。昭和20年代、戦後の混乱・復興期に人々が一生懸命生きながら聞いてきた曲は『リンゴの歌』、あるいは、『星の流れに』。やがて、アメリカンロックや、ボーカルが文化の艦砲射撃のように襲って日本の音楽界の景色を一変させていった30年代−−オールデイズ。学生運動が反体制活動化していった40年代には歌手も若者も一体感を感じながら唄ったフォ−クソングや、ナルシズムを思うさま発露させていくシンガーソングライターの曲などがありました。懐かしきそれらの曲はカプセルの様に、その時代を包み、凝縮して後世に残しているのではないでしょうか。


1963年高校3年生。前列しゃがんでいるのが私

 更に、ひとりひとりに思い出の音楽が、その人の人生のある時期の生き様の中に、一小節のバックグラウンドで響いていたという曲がいくつかあると思います。

 1963年(昭和38年)6月、舟木一夫さんの『高校3年生』の曲が世に出ました。私にとってのバックグラウンド・ミュージックとなります。不思議な事に、この曲を私は高らかに、或いは、思いを込めて唄うことが出来ません。ひと言で言って、バツが悪いという気持になるのです。歌に唄われている舞台に端役として登場し、臭い演技をしている自分のビデオ・テープを見せられている気持になってしまいます。




 義兄の許で送っていた高校生活の真っ只中、義兄に対して私は許しがたい発言をしてしまいまいました。私の長兄と義兄が共同経営者として、クリーニング業を興こしていたのですが、長兄がその仕事で少しも働かなかったので、目標としていた規模に発展できず、先細りの様子となっていきました。私も実は、居候の立場として、書店のアルバイトの他に、時間を割いて集められてきた洗濯物を洗う手伝いもしていました。

 義兄は共同経営者をアパートの自宅に呼び、善後策を相談しました。襖を隔てた隣室に長兄と義兄、そしてじっと姉が控えている話し合いの最中、義兄一人の嘆願調の声が続いていましたが、ついに、義兄がキレました。喧嘩の様相になってしまった処で、私が飛び出して止めたひと言が、義兄を絶望の崖っぷちで救い上げるものとは逆の行為となってしまいました。「俺の兄貴に何をするんだ!」。そう言って実兄をかばってしまいました。

 後々、前後の状況で「これは酷い」と判った事が二つありました。一つは、当時雇っていた職人の不正行為が段々コントロール出来なくなっていたこと。この職人は、他のクリーニング店に勤めていた中学校同級生に誘われて、義兄のクリーニング店の報酬を貰いながらも、せっせと友達の店の営業をして居たのです。

 そして、もう一つは、これ等管理面、経営面で、善後策に辛い話をしている義兄の前で、長兄はあくびをしながら横にごろりとして聞いていたのです。職人の不正については自分も本人の口から直接聴いて、不快になって彼と口論になった事もありました。
 
 若者の単なる常識感による義憤から一歩も出ることをせず、問題の改革に何の力にもなってやれず・・・・・自分の義兄への振る舞いが今も悔やまれます。

   ナメられて裏切られても世間かな   三 竿

 学業が今度は続けられるかどうかの問題となってしまったのです。自分の身の置き所を親族一党が話し合いました。「兎に角学業を続けさせること」にして、叔父の許に移る事になりました。その時自分は「最早学校中退」の道を考えて少しその方向で動いたのですが案外素直に従ったのです。

 人の生き方とはなんだろう? 自分で決め、歩んでいく道の分岐点にその時私は立たされて居たはずです。その視点で将来を何処まで見据えていたか、移ろいゆく人間の心であっては、然と思い出すことは出来ませんが、「情に棹」さして流されて行く事となりました。

  大船も木の葉もゆれる人の海 三 竿


  第五話 (1) 社会へ


  私は小学生高学年になった頃から、家計を少しなりとも成り立たせるための働き手をしてきました。近所の鰹節製造所で、あるいはだるま製造所で、荷を運んだり、乾燥干しの手間仕事などなどの、アルバイト先の作業の手伝い仕事でした。

 次兄の庇護の下、東京で中学3年生のやり直しになった時は、冬休みに正月用切り餅を作る家内工場で、機械搗きで出来上がった熱々の餅を平に延ばす作業をしました。徹夜作業でした。この時は、下宿先の息子さんも、多分母親の教育的な指導でもあったと思いますが、一緒に通っていました。

 その彼は、蒸かしたもち米を投入した後の餅つき機(こねは中のプロペラ状の練り板)に、すりこ木のような棒で万遍なくもち米が絡まるように配慮する仕事でした。一度、遂にコックリを始めて、棒を練り板に突っ込んでしまって、バリバリに砕いてしまいました。周りの人は、彼の身の危険のほうを心配しました。僕達中学生のケナゲさに労わりの気持が多分にあったと思います。

 義兄の家から、その後叔父(父の弟)の家から高校に通う間は、一時期小学生の家庭教師を挟んで書店のアルバイトを続けています。居・食費を除く全て−−学費・小遣い・衣服代・デート代全てを奨学金を除き、人から与えられたものでなく、アルバイトで働いて賄っていました。

 中学校の同級の女性と、ある日アルバイト先で再会しました。何を隠そう、初恋の人です。中学を卒業して社会人になっていました。その女性と卒業するまでの間、交際しました。メンツみたいのがあります。喫茶店でレスカなんか飲んだりしても、奢らせてばかりも居られません、ワリカンぐらいは時にはしていました。外に出て、もし学生服のままだった時にタバコを切らせてしまうと、自販機など設置の無い頃ですから、彼女に30円渡して「『光』を買ってきてくれない」と頼む。

 戻ってきて、渡してくれたタバコは、ハイライトです。『光』は、両切り10本入りです。ハイライトはフィルターつき20本入りの70円です。気配りをしてくれているのですが、嗜好というものがあって、嬉しいばかりでもなかったのです。しかし、二人で過ごすひと時の中のこんな出来事は青年期の純真さで、ありがたい気持になって受け取りました。

 喫煙のきっかけは、鮮明な記憶で残っています。その時のタバコはピース。叔父の家の近くの家の庭に夕食後、日暮れて入り込んだ八つ手の繁みにしゃがみ、手を震わせながら、マッチを2.3本しくじったあと、くわえたタバコに火をつけ、今度はタバコを挟んだ手も指もガタガタふるわせ、吸い口は唾液でべとべとになって、やっとプカプカ空吸い状態で先ず第一本目が終了

 翌朝、日が出てから浜に出ました。かなり早い時間です。海岸線に沿って、波除け防波堤が城砦のように伸びています。長い歳月の波の浸食で海側に少し傾いています。防波堤の上は、2メートルも無いほどの幅の土手状態になっていますが、この時間私のほかそこに立居している人はいなかった。そこで、防波堤の陸側に程よい高さの段があり、そこに腰を降ろして、大海原と向き合って第二本目を、今度は、紫煙を胸深く吸い込みますと、突然襲ってきた。視界が暗くなって、力が抜けていくのです。このままで居ると、防波堤から転げ落ちます。高さ約5メートル下に待ち構えているのは、波消しのコンクリートブロックの塊です。私たちは「とうふ」と言っています。とうふの角にでも頭をぶつければ、ほぼ確実に死ぬでしょう。必死に坐っていた防波堤の角にしがみついていると、しばらくして、元の景色が戻り、意識も正常に回復しました。でも怖かった。

 赤提灯の暖簾をくぐって、友達と焼き鳥屋にも入りました。ビールを二人で1本か2本に、焼き鳥がせいぜい5本づつくらい。ビールは、95円だったり、100円チョイぐらいだったと思う。焼き鳥は1本15円くらいだったと記憶しています。何を話していたかなあ。お店の人もこちらが高校生くらいの事は判っている、でも寛容だったのかも知れない。

 良いじゃないか自分の稼いだ金だ、よい子ちゃんばかりしてもいられません。そんな背伸びをして居たのです。

 飲み友達は親友でした。事件もあって、卒業を機会にやがてそんな間柄は解消されていったのですが、一方でマドンナとは学校で毎日顔を合せているのです、穏やかではない気持が続いていました。心を吐露すると、じっくり聞いてくれる友人もいました。

  教科書に紫煙の影が訊ねてる  三竿


  第五話 (2) 就職活動


  第三学年になって、進路の確定をしていかなければなりません。上に行きたかった。しかし、学費のフォローは自身で為さない限り、選択出来ない状態でした。防衛大学・気象大学など、政府が設立した大学があって、それらに、もし入校できたとしたら、公務員としての給与が与えられた上で、学費の出費なしで大学生活が送れます。そして、入学したその時点で自分の将来は決るのです。

 しかしこの進路は具体化する前に消えて行きます。当時の藤枝東高校がそれらの大学とのコンタクトがあったか、自分がその大学に入学するに適う学力があったのか、どんな理由だったかも思い出せません。

 それよりも既に大局的にみて、就職進路が真っ当なのだと考えて、進路クラスの選定では、学年の始めの時点で就職クラスに進んでいたからだと思います。

 やがて就職活動となりました。一度だけ、某大手の金融機関の入社試験を受けるために、東京の本社に行って面接を受けました。今から考えると、この面接には該当三者によるセレモニーの企画でしかなかったように思います。学校と企業の間のパイプの継続、自分自身の面接慣れ試しがあったかもしれません。少なくとも自分にはこの金融機関に入社できる可能性など、ありえないと判断して居たのです。

 実際の気持としては、「何とかなる」みたいに求人のあった会社に学校の進路指導担当教諭に願書を提出して、相手側からの意向待ち状態にしておきました。

 折からの東京オリンピック特需で主に都市圏からの求人が多かったと記憶しています。ある熱海の名門旅館から、書類選考で就職決定の通知が来ました。私は、高校を出ると、もうどちら向きの風が吹いてきても、それに乗って、身一つ何処にでも動く事ができるのです。

 昭和38年秋の頃だったと思います。しかし、この経緯に自分は抵抗感を持ちました。どんなホテルで、どんな部署に行くことに成るか、志願とは、こちらの目で相手側を見たうえで、自分の意向を決めてよいものだと思っていたからです。そんな私の思惑も無関係に、企業は労働力を求めている。

 時期を同じくして、東京の次兄が、仕事の得意先であるTV業界の或るプロダクションの社長の要望があって、私に是非その会社に入るよう連絡してきました。次兄は、学校側が示した就職先についての不安と、自分が薦めるプロダクションの優勢さを色々な言葉を使って説得してきました。その最大にして自分がその気になったことは、ホテルに就職した場合、遅くない時期になって、知らない土地で一人で世を送ることの不安定さに対する尻込みが、起きた事でした。兄の薦める東京に再び出て行くことが自分の巣立ちなのだと思い、軌路を決定したのです。

 百本の岐路を迎えて賽ひとつ  三竿


  第五話 (3) 親友は悩んでいた

  知らなかった。親友のサインを自分は受け止められないで居ました。ご家族からの連絡であったか、彼の恋人からであったのか、知らされてすぐに、彼が運び込まれた病院に行きました。ベッドで深々と眠っているその時の彼の表情は、すくなととも、苦痛の表情をしていませんでした。自分の部屋で、昏睡しているのを発見されたのです。

 様々に自分の頭の中で、彼を襲っていた悩みがなんだったのか考えました。この時の自分は、驚愕という気持よりも、「なぜ?」という思いが大きかったのです。そして、数日だったか10日ほども前だったか、ある日彼が自分を誘った先が薬局で、−−−彼はそこで市販の睡眠薬を買い、こう言ったのを思い出しました。

 「最近、受験勉強で遅くまで起きていると、その後眠れないんだ」

 ベッドの脇に立ち尽くしたままで、その時の事が、彼から自分に発信した心のメッセージだったのだと悟りました。しかし、其処から先の「なぜ?」については、疑問の解消するものは何もありませんでした。

 彼は、しばらく経って身体も回復して、自宅でしばらく療養した後、学校に戻ってきました。後になって、彼以外の口から発せられた、自殺行為の動機とされることを聴いたのですが、自分は信じようとは思わなかった。

 「彼は、或るグループからいじめを受けていた」

 いじめがあったという事は、有り得るという過去の出来事はあります。あるとき彼は、何かの話の輪の中で孤立し弾劾的に罵られた事があって、直後にやってきて自分の腕の中で泣いて悔しがった事がありました。自分が同席していればそんなことにはならなかったと、ひどく後悔しました。

 その後、彼がその時のグループに常に呼び出されて苛められたのか、或いは自ら、あの時の屈辱を忘れられずに、中に加わって状況を逆転させようとして関係を持ち続けていったかの疑問が残っていきました。

 なるべくその話に触れないように自分は振舞いました。自分は彼に援護射撃をしなければいけなかったのか? 悩みました。彼の彼女と一緒に色々、彼のことについて話し合いました。そして、

 自分の中で友情が揺らぎ、親友の彼女の心で彼に対する愛情が揺らぎました。お互いが夫々の心の中を確認できたときに起こした行為は、結果的には彼に対する背信でした。若い男女が恋心として抱く、純真的に引き合う心であっただけの事でも、最早、彼の知るところとなっては、これは全ての関係の破滅となってしまう以外の道はありませんでした。

 彼は受験に失敗しました。自分は、兄に敷いてもらった社会人への道を歩んでいきました。社会に出た後、一度だけ彼と彼女に再会しています。二人は全てを許しあったのか、その後どうなっていったのか判りません。

 転校した際に運命的出会いをしたマドンナとは、卒業式が始まるのを待つ束の間、想い出の残る教室で今日が最後と皆で懐かしがって三々五々、来し方の高校生活の思い出話をしている輪の中で、ごく自然に接して話をする事が出来ました。マドンナは、もはや遠いところに存在する女性となっていました。

 「さようなら、青春」

 心の底からそう思いました。

   青春を十九の春に捨ててきた  三竿


  第五話 (4) 星雲の志 −最終回

  高校生活最後の三年生三学期は、年が明けた昭和39年(1964年)2月初旬くらいで終りました。進学志望者の受験追い込みや試験日程に併せて、授業終了となったのです。就職組にとっても卒業式まで一箇月有余があって、多分付き合いの有った幾人かの友達に自分は、東京を目指す事を話したと思います。

 就職組と進学組の間に、自分の目にした印象としては断絶とか溝が出来たようには思いません。自分は上京して、直ちに勤め先の決った会社に通い始めました。下宿先は次兄の奥さん(義姉)の姉宅です。

 千葉県市川市から千代田区飯田橋まで総武線で通勤しました。仕事は録音技師見習いです。日本のテレビ・メディアの歴史は、未だ10年余を経て、創生期から次のステップへ飛躍を始めたばかりの頃だったはず、番組制作プロダクションも、テレビ番組専門タレントの数も充分に行き渡っていない時代でした。自分が所属した会社は、先進国アメリカで評判をとった番組を輸入し、日本語版音声を製作し、主体が首都圏にあるテレビ局(キー局)に配給しているプロダクションの大手会社の一つです。

 マンションの一室にその録音スタヂヲが在りました。一般世帯用に間取りされた部屋を、跡形もなく改装したおよそ八畳ほどの密閉された部屋の中で、声優がプロジェクターからスクリーンに映された映像にあわせ、ヘッドホンの原語音声を聴きながら吹き替えをします。背後のミキサー室では主任ミキサーと、番組ディレクター、音楽ディレクター、そして、収録音を16ミリ録音テープに録音する録音技師など、常にスタッフとして、5〜6名がせまい場所にひしめき合っていました。

 都心の、マンションの一室は、閉塞感が自分の気持ちを包み込みましたが、殆ど数日の内にその雰囲気に自分は慣れました。そして、物を生み出していく、それも郷里焼津に居ても一生触れることの無い、先進のテレビメディア制作現場に自分が今浸っていることが如何に人生航路として進むことに相応しいものかと、大いに満たされた気持ちで受け止められました。

 発つ鳥は後を濁さず去ることが出来なかった。

 高校の三学期を終えた早々から、新学年を控えてアルバイト先の本屋さんは、市内小中学校に出向き、新教科書を販売をしなければならない。この繁期に本屋の主人は当然自分の参加を期待していましたが、この機に自分は今後の人生スタートラインに登ったのです。恨まれました。

 卒業式に併せて一旦郷里に戻り、日を置かずアルバイト先の本屋にご挨拶に伺ったとき悪態こそついてきませんが、最早取り付く島も無いほどの扱いを受けました。あくまで自分の方に説得不足、説明不足があったと思います、そのとき「しまったッ」という気持ちが湧いたのですから。

 自分は矢張り周囲に角(つの)を向ける鬼ッ子のままで生きてきたのです。

 しかし、このまま未熟な世間知らずで世に出ることのおそれはありませんでした。そういう認識すら当時は持ち合わせていなかったと思います。すべて心の中の恐いものを取り払い、未来への希望だけがその時の自分が抱いた心境だったのです。

 生まれ変わる、創り出せる・・・それだけが心を満たして居たものでした。

   星雲に乗って目指した未来行き  三竿

            − 完 −