Room8   2018年5月29日  ニュースピーク

 《東京新聞 2018年(平成30年)3月29日(木曜日)夕刊 『論壇時評』に寄せられた中島岳志氏の文章》
−− 公文書改ざん問題 : 思考を奪う言葉の操作 −− 以下、全文引用です

 南スーダンPKOの現地部隊の「日報」破棄問題、そして、学校法人「森友学園」への国有地売却に関する決裁文書改ざん問題。安倍内閣で次々に起きているのは、何者かによって恣意的に言葉が書き換えられ、消去されるという事態である。

 ここに現在の政治や行政の本質が現われていると思った時、真っ先に手に取った本がある。ジョージ・オーウェル『一九八四年』だ。これは一九四九年に出版された近未来小説で、高度な全体主義が張り巡らされたディストピア(反ユートピア)がテーマとなっている。

 主人公のウィンストン・スミスは、真理省の役人で、過去の記録の改ざん作業を行うことが仕事だった。「過去は現在の状況に合致するように変えられる」。党が発表する内容がすべて正しくなるように文書が改ざんされ、破棄される。過去が刻々と改変され、破壊されるのだ。

 権力者は、国民の論理的思考能力を低下させ、国家への反対を抑えるために、「ニュースピーク」という言語体系を導入する。これは語彙を制限・消去し、単語の意味を書き換え、文法を極度にシンプルにした言語で、普及の暁には反体制的な思考そのものが不可能になるという。言葉をコントロールすることによって、政府にとって不都合な現実を、存在しないものにしてしまうのだ。

 確かに、安倍総理は言葉の操作によって問題が解消されるかのように振る舞うことがある。WEBサイトLITERA(1月22日)に掲載された編集部による記事「安倍首相の空疎すぎる施政方針演説!『非正規という言葉を一掃する』は真っ赤な嘘、裏に格差温存のカラクリ」では、通常国会冒頭の安倍首相の施政方針演説が取り上げられ、批判されている。

 演説の目玉に据えられた「働き方改革」の中で、安倍首相は「『非正規』という言葉を、この国から一掃してまいります」と述べた。しかし、二〇一二年から一六年までの四年間、非正規雇用者は二百七万人も増加する一方で、正規雇用者は二十二万人増加でしかなく、「雇用者数の九割が非正規というのが実態」である。就業者数が増え、雇用が改善したと言っても、不安定な非正規雇用者を増加させた結果でしかない。「騙されてはいけないのは、安倍首相はけっして『非正規雇用をなくす』あるいは『正規と非正規の格差をなくす』と言っているわけではない、ということ。たんに『非正規』という言葉を使わない、と言うだけの話なのである」

 この指摘は重要だが、問題はさらに深刻である。安倍首相は「『非正規』という言葉を一掃する」ことで、不安定雇用問題の存在自体を消去しようとする意図があるように思えるからだ。そもそも「言葉を一掃する」という言葉の中に、安倍内閣の本質が現われていると見るべきである。これはまさに「ニュースピーク」の世界。言葉の操作によって、現実を操作する手法だ。

 二〇一四年から一五年にかけて安保法制が大きな話題となったが、その際、集団的自衛権の行使容認の要件として閣議決定されたものに「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」と言う文言がある。具体的な武力行使については、かなり高いハードルが設けられているので、余程のことが起こらない限り集団的自衛権は発動されないと強調されたが、どうしても「明白な危険」という言葉が気になる。どのような事態を「危険」と見なすかについては、はっきりとした定義が存在しない。最終的に、「危険」の基準は、施政者の主観に依拠する。要するに、いくらでも操作可能な文言が、武力行使についての決定的な箇所に導入されているのである。

 安倍内閣の本質は、言葉の支配と操作にある。人間は言葉の動物だ。言葉によって存在や認識が規定されている。言葉が世界を作り、構成する。その言葉を権力者が恣意的にコントロールすると、私たちは世界を奪われる。

 作家の星野智幸は三月十二日のツイッターで、公文書改ざんを「国家が言論を独占しようとする行為にほかならない」と警告する。「国家が言葉を独占したら、法律は骨抜きになり、機能しなくなるおそれがある。なぜなら、法律は言葉で書かれているから。そして、最も厳密な意味の運用を求めているから。つまり、意味の運用の範囲を決める司法も機能しなくなるということ」

 星野の作品に『夜は終わらない』という小説がある。ここでは、言葉を支配しようとする人間に対して、豊穣な物語を奪還するダイナミズムが描かれている。小説が現実以上の現実を描き出している。

 私たちは言葉を奪われてはならない。この世界を「ニュースピーク」が支配するディストピアにしてはならない。公文書改ざん問題を巡る論争は、言葉をめぐる為政者との闘いにほかならない。

  なかじま・たけし = 東京工業大教授

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