Room9   2019年12月8日  忠告について

 今日の命題について、一般的・定義的な説明を描いてみましょう。

 @ ある人の行動・考え方に対して周囲の人が、方法・手段等について意見を示すことである
 A ある人の行動・考え方に対して周囲の人が、咎めることである
 B ある人の意識にない状態に対して、周囲の人が善かれと思う事を具申するすることである

 夫々を判り易い例として挙げると、次の通りです。まず、夫々には或る人自身がそれ(忠告)を求めてくる事も、周囲が本人に働きかけていく事両方のケースがあるとします。

 @ 学生と教師との間柄であれば、教育的に的確な指導をすることであり、友達同士であれば、悩み・迷いに対して、相手に相応しいと思う範囲の意見を言う、或いは、自分の考えたことや体験した事を通した道しるべを述べる事

 この@のケースでは、両者の中に信頼というベースが敷かれているとが多いと思います。

 A 「貴方、ごみを捨ててはいけません」
   「それは幼児虐待ですから止めなさい」
   「その考え方は間違っている」

 このAのケースでは、道徳的・法律的な面へと議論が続けて展開されることがありそうです。諍い、言い合いになることもあるし、言われた人が非を認めなければ、更なる問題点が惹起する場合があり、厄介なことになりますが、その忠告が必要なことである場合が多いと思います。

 そして、Bについては、今回のテーマの本命として、少し突っ込んで考えてみたい事があります。

 前に歩いている人の衣服に値札が付いたまま、程度の事であれば、「言ってあげようかな」くらいは思いますが、どうも近頃の世相では、この忠告は実現しないことが多いようです。もう一つが、組織や社会の中で一定以上の立場に立っている人に対して、誰かが忠告する場合です。

 そして、今回のテーマを書く契機になった事案が、インターネットのブログを発信していた或る人(A氏)の記事の中に見つけました。A氏は、主に日本の政治・外交・経済などに強く自分の意見をブログの中に書いていますが、先日のアフガニスタンで人道的活動をしていた中村哲さんが凶弾に倒れた事で、世界中からその悲劇に哀悼のコメントが寄せられている事に呼応して、

 「安倍首相は日本国民を代表して中村医師の遺体を空港に出迎えるべきだ。」

 と書いている。これが正に彼の忠告であります。安倍首相の側近の中に、誰か具申した人が居たのかどうかは私は判りませんが、私の見る今の首相は、上に立つ者としての慈悲・気配り配慮・使命感・社会常識を多分に欠いた政権運営をしているように見受けます。

 この姿は、亜米利加のトランプ大統領の自国愛の質や程度とは、雲泥の差があるように思われるのです。そういう安倍首相に対して、A氏は堂々と忠告をしたのです。彼は公的発言の場としてメジャーのテレビ局に登場することは多分ないものと思われますが、ブログの発信では、かなり多くの人には読まれていると思います。

 多分、これまでの発信内容は官邸筋も日常的にチェックを入れて、批判であれ提案としての忠告であれ、今回の内容は、承知していると推測できます。

 さて、私はA氏の意志を代弁する為が目的ではなく、述べたいことがあります。

 「世の見櫓」から見えた景色を、もはや燦燦と太陽に照らされた青天の空に躍動している日本社会が終わりかけて、人々が黄昏時になって疲れ果て、希望すら失われつつ動いているように見えて仕方がありません。

 これまた亜米利加を例にしなければなりません。いまアメリカは、大統領弾劾に向けて反トランプ陣営が議会で正義の鉄槌を下降ろそうとしています。更にマスメディアも、大統領の不正に真っ向から対立して批判しています。民主主義の理念が強いところを、日本からも見ることができるのです。

  −−− 中国の政権にとって、この状況は国内でどんな風に公開されているかは、多分に客観的ではないと思います (余談)

 日本のメディアの風景についての噺に戻します。

 日本のマスメディアの特徴を考えてみると、今回の「桜を見る会」に安倍首相がどんなことをしたかは国民にも大体認知されたようですが、それなら冒頭で分類したAの忠告をしっかり果しているか、忠告では生ぬるくて、しっかり批判しているか、というのです。この部分を報道番組で思いっきり突っ込んでいっても最後は、希望的発言で終わってしまっています。

 これは仕方が無い。安倍総理はメディアのトップの人たちを頻繁に招いて高価な店で食事を共(朋)にしている。

 対立軸に居る人との付き合いに、まともな関係であれば、お茶一杯出されても口に入れない、という毅然とした態度であるべきなのに、いわゆる「同じ釜の飯」を食べた仲間になってしまったからです。

 テレビの中で解説する人の多くは、フリーの一般人の政治評論家なのであるから、もし彼らも「同じ釜の飯」を食べた仲間になってしまっていたら、Aの忠告者から陥落し、@の忠告者になってしまう事になります。そういう誘いに漏れたのなら、誘われたって断るくらいの気概で、少なくともかつての日本のメディア(ジャーナリズム)がきちんと姿勢を正していた状況と自身との彼我を意識して貰わなければならないのです −−− しかし、しない。できない。先に挙げたAの、正真正銘な忠告は出てこないのです。

 何故なら、首になってしまうから。

 そして、マスメディアを通して相手に伝えられる忠告としては、@のみで、 −−− それですら、当人の居ないところで第三者(国民)に向けて発言するに留まっているだけで、A(批判)とB(良かれとする忠告)は出来なくなっているのです。

 私の思いつく事は今のところそれしかありません。もはや野党軍団は、テレビで発言している玉石混合の解説者の中から選び抜いた人を取り込んで、政局展開することをしていかなければ、方法がないと思うのです。安倍政権には出来て野党にはできないのは、権力のあるなしではなくて、実力と信頼性がないからです。敢えて試みようとしても、現在の状況のままでは、これまた無理な話であります。直ぐに妨害を受けるかもしれません。

 残念ながら、嗚呼!ですかね。そして、見えて来る景色から私には、こんなことくらいしか書けないのも情けない。

   令和元年12月8日 「ニイタカヤマノボレ」の日に