Room1   2016年12月31日  除夜の鐘

 いよいよ平成28年も暮れなんとする12月31日である。私のこの一年を振り返ってみると ・・・

 そうだった。元旦は東大病院の入院棟で明けたのであります。前年の暮れも押し迫った頃、部屋に居てただ座っているだけでも身体が辛い。立ち上がって動けばなお苦しい。何だこのだるさは。息苦しさが伴っている。自分でも何の症状か想像がついた。すぐに入院した方がいいだろうと、自宅からTAXYで一目散に病院に駆けつけた。もちろん電話をかけて主治医に承諾してもらってであります。

 やはり肺炎でした。少しづつ食べたものや唾液が気管支に入り、肺を浸潤させていったようです。そういうわけでその後1月いっぱいベッドで過ごす沙汰となってしまいました。そして、退院した時には、暫くは、誤飲回避のために食事はとれず腸瘻からの栄養剤で生活する事になってしまいました。今年一年この食生活は続いています。

 嗚呼、厄払いでもしなければ気が治まらない、という程辛い事も無かった。でも世の中には、生活リズムをその折々の行事に乗って過ごしてきている人にとっては、私の様な不条理な体験を余儀なくされてきた人なら、今宵はやはりあれをしてこない事には締めくくりが出来ないのではないでしょうか。

 暦の行事を大切にする人の一年の始まりは、先ず元日の朝、屠蘇を頂き雑煮を食べ、お節料理に箸を運び、2月の節分3月の雛祭り、4月5月は花見、しょうぶ湯 ・・・と暦を見て予めの準備をして最後の大晦日は年越しそばを食べてから近くの寺社で除夜の鐘を撞く。殊更、締めくくりの大晦日には少々の風邪くらいの症状も押して実行するでしょう。これで今年の煩悩は払拭された。となって身も心も清められるのです。

 信心深いのでしょうか。それとも子供の頃、親に教えられたものを続けていくうちに自分の身に着いて行った当たり前の、三度のご飯を食べたり、夜は日の変わらないうちに規則正しく床に就く事と並べられる生活リズムになって来たからでしょうか。「今日は昼飯を食べる時間が取れなかったから何んか調子が狂っちゃう」という感覚と同じように欠かす事の出来ないものに成っているのです。こういう意識が大なり小なり持ち合わせている人がきっと居るでしょう。

 世の中、昔と比べて庶民は夜更かしをするようになりました。一番の理由は、栄養状態が良くなって、昔ほど永く睡眠をとって休養を取らなくても身体が持ち堪えるようになったからでしょう。この事は、原因であるのかそれとも何かの結果としてそうなったのか、決めつけるのに悩むところがあります。つまり、社会全体で文化活動や経済活動の規模が膨らんできて、それが夜の時間帯に押し寄せてきた。例えば会社に勤める人はいつしか夕刻の退社時間以降も仕事を続けていき、商店や外食店或いはサービス会社も需要のニーズに併せて営業時間を延ばしていく。テレビも遅い時間帯に内容の良い番組が放映されてきた。

 その傾向が特に高度成長期を通して、すっかり当たり前の日本社会の姿になりました。その間に生活は豊かな消費生活を中心とした活況と幸福志向が強く現われて行きました。既に欲しいものを求めるばかりでなく、次から次へ出てくるものが欲しい物に為って行く意識の逆転が日本人全体現われました。例えばテレホンカードが有りました。どんどん売れました。心を刺激する色々なデザインや意匠の付加価値が着いたことで、本来の目的から離れて利用されていきました。転売する事で、何倍もの値段まで付いたものも有りました。

 こういう消費生活に移って行くうちに、物事の価値意識が大きく変わりましたが、この変化は、他にも色々な要素が働いたこともあるでしょう。考えられるこのをひとつ例にとりますと、家族の規模が核家族化されていきました。その結果、家庭内の子供の躾や習慣の継承が途切れてしまった事があるでしょう。特に都会でその傾向が顕著になったのではないでしょうか。ひな祭りの雛壇は昔の様な7段飾りはもう置けません。お雛様に備える物も何であったか昔から続いてきた事が判らなくなって仕舞いました。

 こういう事が私たちの生活習慣から次々と失われていきました。それらの行事が存在感の重さを失っていきました。

 もう一つ私が強く感じている変化が有ります。年間を通して、子供たちが外で遊んでいる姿がめっきり減りました。子供たちが犯罪被害に成ってしまう危惧が大きな要素ですが、少子化社会になってしまった事も大きな理由になるでしょう。その結果、住宅街はいつも深と静まり返って仕舞いました。これが今では当たり前の街の環境です。こうなったところに、或る時保育園・幼稚園施設が出来る事が判って、周辺の住民から建設反対の活動が湧いてくるケースが多くなりました。理由はうるさいから。

 確かに、子供の騒ぐ声は大きいかもしれませんが、年配の人の中では、耐えがたいものとは思わない人が多く居ると思います。例えうるさく感じても人間社会の中で必然的に発生する環境音であると言う理解で受け止められる人も居ます。しかし最早自分の幸福で居たい意識に不要なものは要らぬもの、と判断する人にとっては許し難い不快音に成るのです。これはもうお互いの話し合いで妥協し合う状況に成らないほど頑な(かたくな)な価値観に固まっています。

 世の中がギクシャクしてくるとはこういう状態の事を言うのでしょう。

 除夜の鐘の話に突然戻しますが、幾箇所かの寺院で除夜の鐘を参拝者が撞く事が出来なくなってきました。理由は同じです。至近で鳴らされてガマンの限界を越えていると言うようです。都会の密集地域に囲まれてしまった寺社が難しい問題を抱えてしまったのに私はつらい思いに成りました。果たして、話し合って帳合いを採ることは事は出来ないのでしょうか。撞き棒に音量を落す工夫を施すとか、回数を制限するとか −−−一般の人が撞く除夜の鐘では、必ずしも108回と定めているわけではないでしょうから。

 まさか、資格テストなんて遣る訳にはいかないでしょうね。「親の遺言があって鐘を撞かない訳にはいかないのよ」

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