上司論目次
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上司論 −1−

 日本人で自分自身の意志だけで全てを決めて生きている人間は、居るのでしょうか。上司が存在していない人間が居るのか、という問い掛けです。例として「お父さん、お母さん、お休みなさい」。この言葉にも上司に対する子供の真摯な心があります。私たちの心の中に、或る人が存在し、敬い(うやまい)、従い、そして自分の気持を決めている人の存在を『上司』とします。基本的には『人』としておきます。しかし『人』以外のものがでてくる場合もあります。従来の、『職場の上司対自分と言う人間関係の上下関係』と言うクサリを此処では解き放ち、ひとりの人間の中で、その本人を律することに影響するもの全てとしていきます。私流でいきます。

 私の子供たちは、親に対してこの気持を持っていると思います。家族間の日常生活を見ていて、そのように確認しています。私たち家族は四人です。最早、子供たちも大人です。だからと言って、お互いが持っているパーソナリティーを認め合っているとか、良く話し合う家族だ、絆が強いと言うつもりではないのです。『上司』の定義から言って、私自身に家族三人が上司です。他の家族にも夫々、三人の上司が居る、と見て良いと思います。

 『人』ではないものを『上司』として、述べたいことがあります。ある事件、醜聞、裁判判決などで、当事者が『上司』をどんな意識で考えているのか、深く考えさせられる事が日頃の社会現象で多くあります。例えば経営TOPや、組織TOPの人の意識の持ち様で、会社ぐるみ業界ぐるみの反社会的な行為が為されることがあります。何かが起きて、被害者が出ても関わった人たちの中で自発的に「悪かった」と言って罪の意識を表明する人が出てこない。今回の耐震強度の偽装事件など多くの関係者が関わった犯罪行為では、未だに強固な正当性の主張を皆が繰り返し、述べています。

 捜査当局の追求或いは被害者の苦痛がいくら強いものであっても、何故か自分達の行為の正当性を強く主張したりする。一体なぜこのような強さが出てくるのか、不思議に思う。何かの論理が働いているのだ。自責・良心・罪悪などの負の状況には絶対心を砕かない。裁判で罪の評価が下された後だって、くじけない。其の心を支配するものが彼らの上司なのだ。ここに人の存在でないものが現われてくる、と考えて好いと思います。


  上司論 −2−

  第一話で、『上司』と言う言葉の定義をぶっ壊して展開しました。そうして行かないと人の様々な行為や、考えている事を説明する上で、窮屈な理論になると直感したからです。従来の考えでは、亜米利加のブッシュ大統領に『上司』の存在を考え難い。一方で我が国の総理の『上司』なら、現実的に様々な人の存在が挙げられそうです。しかし、どちらにも広義に上司の存在があると踏まえて、その言動をみていって「成る程」とか「冗談だろ」とか「腐ってる」「困る」「ザケンナ!」、「それは違う」など等を感じ取っていかなければならない。其処に『上司』をいろいろ提示したい理由があるのです。

 今、一国の総理の言動を目の当たりにして、現実『上司』が国民でもない、世論の中の不支持層でもない、(深読みすると支持層でもないかも)、反対勢力でもない、野党でもないという事だけは言える。反対勢力には、気をつけようと思っているでしょうがネ。かつて、小泉元総理が靖国参拝をしたとき、行きがけに立ち寄っただけみたいで演出気味な『状況だけ踏まえている』姿を見てしまったから、前年のキチンと儀式化した状態との落差からみて彼にとっては靖国神社も『上司』ではないし、その合祀された人たちの御霊でもないだろうと想像します。だから参拝自体、別の論点で見ないといけないかもしれない。まして“パフォーマンス”が『上司』といえる時期では最早無いし、小泉元総理に関して言えば『上司』の存在は、同盟国の大統領を考えたほうが良いのかもしれない。あるいは自分の懐刀であったり、親族を当てはめれば良いのではないかとも思えます。選民が上司として君臨しているという風にはなっていない。

 『上司』とは自分に対して律する立場の人及び、人の内面に有る倫理・論理や精神であるとします。そこを具体的に説明するのを避けてはいけない或るものを思い出しました。“軍隊”です。これまで自分の持っている内容を十段のとび箱で例えると、三段ないし七段くらいの箱をいきなり積み重ねてスタートします。ハードルをいきなり高くしているのです。

 武士の時代の武士は、軍隊組織の戦士です。名実共に戦国時代の武士は、大将、参謀の戦略に参画したり、野や谷のバトルラインで闘いましたが江戸時代約260年の間に、職務の内容や己を規律する『上司』がいくつか置き換えられていったのではないでしょうか。中央では幕府組織、地方では藩組織の行政官という職務に就いていたようです。足軽には足軽の職務があったはずです。食えなくてアルバイトした人も居たかもしれません。半農半士で行かなければやっていけない場合もあります。でも基本の『上司』として「いざ、鎌倉」はインプットされていますから、定期的に武具は手入れしていたでしょう。

 やがて、明治維新で士農工商の身分の中で失職した階級は、武士の階級、つまり行政官です。新政府が発足した際に彼ら旧武士階級のこころにプツンと切れたものが在る。「二君に見(まみ)えず」と言う『上司』感です。白虎隊の少年達ですら、市中の火災を落城と見誤ったにせよ、集団自害をするほどのスザマジイ思想です。この哲学で生きてきた武士階級の中から、他階級に移行した人も居ますが、彼らは本来日本人の中できちんと高等教育を受けてきた人たちですから、新政府下の行政官になって行った人も多くいます。この段階で官僚が誕生したことで良いでしょう。〇〇省・△△省が出来たのですから。彼らは新しい持ち場に違和感を抱かなかったのか。此処までの繋がりは、大概において間違っていないでしょう。さて、地方に生まれた新生の県知事に対し、ここでも各藩武士階級が地方行政官達となって従来の主君と同じように「殿っ!」と見るか見なかったか私には解らない。だからなおさら、明治政府中央に於ける〇〇省・△△省の中央官僚達の心の中の『上司』の椅子に座ったものは何だったのでしょう。中央官僚職職の意識の根源は何なのか。彼らの『上司』捜しは容易ではありません。

 此処でひとつの組織を取り上げたいと思います。富国強兵政策により、明治政府は省庁に位置づけて軍隊組織を設けました。発祥年を含めここから、そのことを調べ、考えてみたい。「軍隊は最強の官僚組織である」と何方(どなた)かの述べた一言があります。“最強”の部分に多少の曖昧と言う弱みがありますが、許してズドン。

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  上司論 −3−

 明治新政府の新しい国家構想は、まず『王政復古』の号令が、暁に啼く鶏声の一声となってスタートします。そして、倒幕にもっとも強く関与した薩摩・長州の軍組織が中心となり、国家の軍隊を構築していったと思います。兎に角、欧米列強の強大な武力の洗礼を受けて、近代兵器、戦略を既に学習していました。それまで日本を支配していた徳川幕府の組織、人材の殆どは壊滅ないし離散して、江戸を離れました。

 歴史年表から拾い、その範囲で、近代日本の軍隊の成り立ちと変革を羅列し、此処から軍隊に於ける『上司』考となって行きたいと思います。年表は事実の記述だけでしたので、私の推理がはいります。軍隊そのものの意味付けとは違っています。


1. 1872年(明治5年)にそれまでの兵部省を廃止し、陸軍省と海軍省が出来ます。(それ以前1869年(2年)に最初の6省が制定される。この中に兵部省があったかどうか不詳。)

2. 1878年(11年)参謀本部できる。天皇の軍統帥権独立の端緒となる

3. 1882年(15年)軍人勅諭が下賜される

4. 1889年(22年)大日本帝国憲法 第11条(統帥権)で天皇ハ陸海軍ヲ統帥スとされます。

 つまり、段階を踏んで軍隊の最高指揮者(私が定義した言葉で『上司』)が天皇である事を明解に謳ったわけです。この統帥権は、政府、議会の干渉を受けない権限、つまり独立したものでした。私が書店に行って立ち読みした或る本の中には、1882年(15年)に実質的には発効していたと書いてありました。憲法が追随確定したのかも知れません。又、軍人達にとって明治憲法に先行して1882年に天皇から与えられた『軍人勅諭』は、政府や議会よりも優先される『上司』と考えたと思います。その時点でそれが邪(よこしま)なものか、純粋なものか、想像してみましょう。純粋であるかと思います。兎に角、『上司』から与えられた命令は敵に勝つ為の戦略と戦術、其れを実行していく為の兵器開発、軍事訓練を完成させる事です。他に何がありますか?政治や経済のしがらみから独立していなければ、やっていられません。私は、軍人が教養・精神を高める為に、古典も読んだろうと思います。漢詩、軍記物、儒教から仏教まで、更には西洋の哲学まで及んでいった軍人も居ただろうと思います。それらも『上司』として取り入れられて、矛盾が生じなかったと思います。当時の国民の中で屈指のエリート階層と言う意識があったとも思います。理論とか考証の精度として正確性がかけているかもしれませんが、人の心の在り方として考えを組み立てています。

 この先、“大日本帝国軍盛衰記”に成っていくのは嫌です。期待されるものは書けないし、疲れるし、纏めに入らなければいけないし、それが−4−につながる為の、区切りにしなければならないから。日清日露の戦勝は、軍人と政府にどういう国家運営の変化をもたらして行ったのかが『上司』論の趣旨として大事な次の推理です。特に、外交が入ってくるわけだし、日露戦争だって、本当に軍事的勝利と言い切れない。敵の中将ステッセルが乃木大将と会見した際の写真でも、「敗けたァ、参ったァ」なんて顔をしていません。私の記憶にこんなはやり歌があります。些か、不謹慎な言葉があります。今、作たものであれば問題になるかもしれません。『すずめ→目白→露西亜→野蛮国→クロポトキン→金玉→マラジャッポ→ポンヤリ→陸軍の→乃木さんが→凱旋す』。伝播の途中で変化している事があるかもしれません。

 結果的にその軍隊組織に干渉があり、介入があり、懐柔が入ったりしながら日本の対外的行動は、帝国主義的侵略外交と軍事行動が顕著になっていきました。政商、財閥などが絡んできて登場してくれば、軍人の純粋さは、大きく崩れていかざるを得なかったと思います。『上司』危うし。どうしても人の心の隙を窺っている『阻止できない者』が力を発揮してきます。人の信念を崩す事をまず第一段階で成し遂げて次のステップに進むことをする人間っているんですね。解りやすく言うと、女たらし、男たらしでしょ、爺殺しでしょ、その先に挙げる人に、次回登場してもらいます。果たして来てくれるかな? 新たな『上司』像が浮かび上がってくるかな? 

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  上司論 −4−
 

 前回で軍隊を出したことで、『上司』論の展開は、“組織”を描いていくことは必要だと思います。その為に話が膨らみ加減に成るきらいがあります。それを最初にお断りしておきます。

 渡り鳥が上昇気流を掴まえ、その後偏西風などの自然現象を上手に利用して、長い旅路のすえ日本に飛来して来た時等、地上から仰いで見ると、彼らの行動は組織的な意志が働いているように思える。或いは小魚の大群が大きな塊に擬態させて、捕獲する大型魚から身を守ろうとする姿も何か組織的な行動思考があるように見えます。そしてそれを又、イルカなどにいたっては、戦術的に各人が役割をもって、時間差やゾーンオフェンスを使いながら、海面近く或いは、浅場に追い込んでいくシーンを見ると、組織を作ること、それを機能させて行く事は、生き物の必須の生存手段だったと思います。国定忠治が見たものも、南の空へ向かって雁の隊列が飛んでいく先頭の一羽を、自分になぞらえていたかも知れません。必死に、仲間を肥沃な楽園の地に導こうとしているリーダーの姿として。

 小魚の塊の中心、もっとも安全な場所には、弱いものが守られていたのでしょうか、それとも、権力を持ったTOPが居たのでしょうか。或いは、要領の良い魚が居座っていたのでしょうか。それら人間以外の生物の組織行動の原理を、正確に人間が解り切ることなどできるのでしょうか。蜂の世界は、進化した結果として一匹の女王蜂、幾匹かのオス、そして其の他生殖機能を女王蜂によって弱められたメスの働き蜂で、構成されているそうです。或いは逆に、親子の間柄であっても一定期間を過ぎて成長した子は、母親の或いは両親のテリトリーから追い出されている種があります。その後の彼らの社会性は、縄張りの意識で働く。干渉しない限りは問題ない。此処では、相手への危害、殺害自体が手段でもなく、目的でもないということです。お互いの生存のために発生する浸入対防御だけが社会関係だと思う。

 ライオンにはハーレムが出来上がって、テリトリー内組織構成となるのが何か人間的であって、私の『上司』論の話に、誘導していく材料になりそう。でも、そうは行かんレオ(コホン、失礼)。余談ですが、『野生のエルザ』という映画のシーン。自然に戻した雌ライオンのエルザが、時が流れて仔ライオンを連れて、育ててくれた人間夫妻(?)の所に戻ってくるシーンがあった。暫らくして、亭主が、「おい、戻って来い」みたいに一声を発するような場面になり、エルザは、仔を連れて、夫の元に戻っていく。「嗚呼感動。エルザは憶えていてくれたんだ、有難うエルザ。エルザよ仕合せに生きていくんだよ。サバンナの大地に日は暮れて、人間とライオンの愛情物語、これにて全編の終了」。しかし、オスライオンは勿論別な場所にて撮っています。ライオン社会に、里帰りした妻子を迎えに来る亭主なんて居ません。

 さて、人間社会では時代・社会が人間の考えや行動を変えて行き、それが今度は、時代・社会を変えて行きます。解りやすく言うと、“水と空気はただ”な日本の姿はすっかり変わってしまいました。或いは、日本の国旗というシンボル的なものに対する、社会全体の意識も変わっています。昔は“旗日”と言って、祝日に各家庭では玄関とか門のある家には門柱に、旗ざおにつけて国旗を掲げていました。又、最早最後の牙城みたいな崖っぷちで、国歌「君が代」が一部スポーツ試合の場で斉唱されています。一方で、教育の場など場所によって国旗国歌が罪悪視される事があるようです。私ば、スタジアムでスポーツの試合の毎に人を替えて「君が代」を独唱させるスタイルはやめた方が良いと思いました。それ程昔でない話ですが、うまく唄えない人が出てくる。そうなると、国歌斉唱という“パフォーマンス”が失敗したというややこしい現象が生まれるからです。理由は、只それだけです。全員に起立して頂き、スタンドの観衆の内、唄いたい人だけが歌えばよいと思います。そのスタジアムの総意として日本の国歌の認識である事を、はっきり自覚した方が良いと思うからです。バラバラならバラバラな姿。隠蔽する必要はないと思います。大相撲の千秋楽表彰式の前に行う方法で良いと思います。

 勿論是非論がある。←其処に『上司』の存在があると思っています。動物的組織行動が基本にあった上で長い時間をかけて、色々な人間の中で機能する社会組織が出来上がります。かつ変革していく段階に移り、創りあげる人間や変革させていく人間が常に一定の時間、一定の地位に居る間に意志・意向を現わします。夫々の段階で、それら施政者の意志が反映された社会が展開し、人々がその影響を受けると言う事です。具体的な歴史的事例で言うと、日本の戦国時代は、天皇の号令の掛かっていた地域全体こそ『日本』という大和民族のエリアという意識があったと思いますが、その地域全体の覇者に成ろうとした群雄の覇権争いと言えます。此処で覇権争いを行っていく時にも一応『上司』と言うものが在るとしますが、当てはめる事は今はしない。基本的には、その領域認識は共通していたと思います。其れに比べ、世界で見ていくとこの枠組みが無いと言っても良い。日本にあって、世界に無かったものがこの最大規模という概念です。テリトリーという枠が、覇権の及ぶ範囲として囲われていた。ぶっちゃけて言うとそれと、『島国根性』。一方、世界には覇権を賭けるに日本とは別な原理の存在があった。覇者になった後の立場がどんな姿であるか、或いは支配された後の姿が見えていて、その事が人々、民族、国家の骨の髄まで、存在の危うさで認識が出来ていた。こちら日本では、程度は稀薄、在って一族の滅亡まで。お隣の国、中国の歴代王朝の変遷を二つの要素『領土認識』と『支配』の概念でみると私には判り易い。モット俗っぽく言ってしまうと、「中原の皇帝の生活って良いよなァ、こんなにも違うんだ」と成ります。ある学者さんなどは、この事を王朝盛衰の源点と言っている人も居るようです。覇者と敗者の格差は、とんでもなく大きかったのです。

 この項−4−では女たらし、男たらし、爺殺しの話が出てこなかった。そのうちにきっと出てくるような予感が私自身には有るのですがね。自分では『上司論』を語るときにどうしても大切なものとして考えてますから。それにしても本章では軍隊組織が、チョット休憩しているみたいでした。何してるんでしょう。 

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  上司論 −5−

 私が20代の頃友人とダベッて居た時、こんな話題が出た。男の三大願望は
  @ ヒモ
  A 風呂屋の番台に座って料金番
  B 自衛隊の閲兵隊長

 夫々に解説が付いていた。実際に言っていた言葉と若干異なるが趣意は間違っていないと思います。

 「ヒモってけっこう、これが辛い職業と言わなければならない。最低限女にサービスするノウハウを持っていて、自分が不本意であってもこれを義務として、お務めにしなければ駄目だ。朝のゴミ出しなんかも、パジャマ姿でサンダル履いて、哀愁を人前にチョコッと晒す事なんかもひとつ入れておく事も肝心だ。女に『それくらいのこと、あんたがやって当然でしょ』と思わせるんだネ。『ハイ、分りました』という頭を低くする態度は徹底しておいた方が良い。女が仕事に出る時、日銭でお小遣なんか受け取って『行ってらっしゃい』なんかで見送ってから自分もモソッと外出する」と、段々話は妄想領域に入る。私も次第に其の気になっていく。モソッ、がいいかパリッがいいかは兎も角として、「パチンコ屋なんかに入ると、やっと目が輝いたりして」。昔のパチンコは、玉を手で一個ずつ台に入れては、もう一方の手でレバーをはじいて打っていました。1000円で何時間も時間つぶしができるくらい、のんびりしていました。フィーバーなんて勿論無い。それに立ちんぼで台に向かっていました。ハンドルが出始めた頃、初めて座ることが出来ました。

 彼の説が又入ります。「大当たりとったら景品と取り替るにも、自分の女(スケ)が喜びそうなものと、自分の吸う煙草と、後は、帰りがけに喫茶店に寄ってお店の女の子用にプレゼントするチョコや可愛い系のアクセリーなんかを、玉数の按分計算をきちんとして取り替える。渡された小遣は使い切る」。彼は、『使い切る』ことを強調していた。そうか、女から自立してはいけないんだ。なまじ溜め込んだりしていくと、その額がある程度に膨らんでいけばスケの有難みが気持の中で薄れていくんだ。まして、色々言葉巧みに巻き上げ始めるなんてとんでもない。成る程、今時のゴージャスな生活をしている“ジゴロ”を自称するイケメンなんかに比べて、正調のヒモって倹(つま)しくなければいけないのだ。だから男の願望その@なんだ、成ってみたいなんていうのも分かるような気がしてきた。そして、こんな『ワラの男』みたいなのに惚れる女を、私達は粗末にしてはいけないでしょうね。バーンと一晩を100万単位で散在する女性よりも私は愛せる。

 私たちの話はこの辺までをもって、一応のヒモ・スタイルの考証が終ったように記憶しています。確かに足りない部分、欠けている要素が多分あるでしょう。頼りなさは確かに出ていますが、残りのものは何でしょうか。女を食い物にする輩などに聞けばいいのでしょうか?聞かないままで居たいです。でも、喫茶店なんかでヒマを潰している時など、お店の女の子(ウェイトレスさん)に自分の事をどんな風に明かしていくが正しいヒモの語り方なんだろう。此処だね、ポイントは。

 さて、このあと男の三大願望を続けます。内容を遊覧飛行で案内し、色々な景色見学になって行く方が描いていて楽しい。操縦士にどうぞ任せてお乗りになっていて下さい。三大願望連山のまずは第一の“ヒモ山”の見学が終りました。次回は『風呂屋の番台に座る男』です 

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  上司論 −6−

 さて第二峰へ話は向かいます。本日のコースは、風呂屋の番台に座るお話です。男の立場で述べるとして一度は座りたい風呂屋の番台。これも当時の街中の銭湯の構造を説明しないと、訳がチンチン・プラプラしてしまいます。まず、番台に座った人は銭湯の入口を背に、男湯・女湯全体の脱衣場及びその先の浴場を正面に見ています。客は男も女も銭湯の同じ玄関からはいる。その時、右手、左手に別々に『男湯』『女湯』などの暖簾があって下駄箱がそこで奥に控えているから、その段階で「じゃ、1時間後!」とか言ってそれぞれ履物を下駄箱に入れて、別々の引き戸を開けて中に入っていくのです。入ったお客の見る景色は番台の人とはチョット視界は低いが同じ景色です。といっても右から入った人には右側だけ、左から入った人には、左側だけの世界しか見えません。番台のサイドカウンターに料金を置きます。このときですね、背の低い男の人は、ビョンと跳ねれば、女湯の脱衣場の視界がいくらか眺望できるのです。私170センチ弱では、やはり跳ねないとだめでした。番台に座っている人は左右に客を迎えることに成ります。彼の目は魚眼レンズですから、しっかりそういう客の仕草は目に入ります、向こうに首を伸ばしたり、跳ねたりする行為はやめましょう。

 兎に角この間取りがトラッドスタイルです。歳月が移り、南こうせつさんが歌の中で女性に辛い思いをさせたのが世論になった知りませんが、カップルの湯上り後の待ち合わせは、ロビーを設け此処で出来るようになっていきます。そして番台自体が後退して、そのロビーの中に置かれるようになってからは、番台に座る『願望』は殆ど失せる事になりました。さていきなりですが、この番台に座る資格と言うか、資質と言うものはどんなものか?勿論男の三大願望の話で言っていますから男に求めています。何せ女湯もしっかり見渡せる所に座っているのです。座っている人を嫌って、女湯がカラになるようであってはいけないのです。

 『願望』と言う意味が少しお分かりいただけますか?風貌が大事です。結論的に私が今、サッと浮かんだ顔が、落語家の故・三遊亭円楽師匠の顔です。あの“起きているやら、寝てるやら”の目でないといけない、というのが最も大切な要素です。“抱かれたい男ランキング”にも“抱かれたくない男”とも無縁のところに居なければ成らない。かといって好々爺とも違う。師匠の名誉のためにひと言付け加えるならば、人を叱って説得し、厳しさもあり、ユーモアもある、世の中の酸いも甘いも噛み分けて来た。して無臭無色。其の先にある達観の域に到達したもののみが座る事を許された孤高の位置です。最早、“無門関”の境地。その境地にある心眼から見た女の裸体或いは、衣類着脱の仕草はどのように見えるのか。はっきり『願望』の意味を皆様、お解かり頂けましたでしょうか?

 街の銭湯の衰退、特に番台の地位の没落は、男の或るひとつの境地が風前の灯と成っている現象であると言えます。 

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  上司論 −7−

 『軍隊ごっこ』、『軍隊オタク』、『軍事マニア』、『軍事通』とどんな言い方しても、基本的には戦地で実際に敵と戦ったてことは無いと思いますが、この人たちの精神も一応、ある種の軍人志向と見たい。でもかのイギリス皇室のヤンチャ息子が“Hakenkreuz”(鉤十字)記章の軍服を纏って仮装パーティーに出席したのは何故か、この軍団は戦争や戦闘の実際の歴史的意味よりも、軍服や武器を美しいものとして見ているのかもしれない。この人たちの思い入れと言うのは強く大きい。わたしが本日、男の『三大願望』連山の最後にお連れしたい場所は、なだらかな高原状の広い景色のもとにあります。

 おや、早速。下界でなにやら迷彩色衣装やら軍服やら鉄兜かぶったり、思い思いの戦闘武器を手に持っている人の群れが見えてきます。「トッテ・チッテ・ター」、やがて彼らが揃い、一列横隊に成ると約一名が指揮官然として、前に出て隊員の点呼を取ります。「ハッ、beramder二等兵は本日、腹下し気味で、不参加であります」「 そろそろ除隊勧告だな」。そして野戦地の地図を見ながら本日の戦闘作戦を説明します。町のコンビニでコピーされた枚数分が各隊員にも手渡されています。前方の林の中にある敵のトーチカ攻撃です。既に何名かは、Defense側として、トーチカのあたりでやはり作戦会議を開いています。隊長から手榴弾が隊員に支給されています。所有が誰のものか判るように、多分名前が入っていると思われます。最後に又回収して次回攻撃に使われるはずです。

 私はこの一団を、失礼ながら外から見ているだけの理由で“マニア”と呼びます。実際の自衛隊員の動機、意識とにどんな相違点がある考えなければなりません。行動には確かに類似したものが多いし、隊長も居て、兵役の階級も在ると思う。しかしマニアの人たちには、統率の基本のところで、本職(自衛隊)と違ったものがあると思います。マニアの人たちにあるものは、軍服、勲章などの軍装品への思い入れ、銃器などの機能美、性能性への信奉が強いと私は思います。持ち主はこんな吹聴をしているかも知れない。「“KalashnikovGun”は考案した人の望まない所にどんどん行ってしまったんだ、・・・マシンガン[K57]はね、・・・このヘルメット(兜)はノルマンディ上陸の時の連合軍が持ち帰ったナチスのものでさ、」。それらの美しさ強さ、歴史のポイントに惹かれます。そのいでたちで活躍する自分が限りなく強い、美しい、ヒーローである。→ 勿論独断です。でも男の三大願望の最後に上げている手前、美学が最優先で話を持っていって多少なりとも論理にしなければいけないのです、マニアの方、私にもう少し言わせといてください。

 彼らには好み方と言うものがあると思います。英雄志向が強い者、狙撃兵的一匹狼に憧れるタイプ、更に匍匐(ほふく)前進、泥地行軍などを好む自虐系などパーソナリティーを発揮して展開されることも許される、こんな軍隊の方が結局結束が強くなっていくと思います。やがて何が痛快と言っても、「気をつけ、隊列ゥ〜行進。始めッ」の号令が似合う者が出てきたりして、規律在る軍隊に近づいていくことではないでしょうか。そうなると実際に自己投資して、高い軍服・階級章・軍靴などを揃えて、偉くなっていけます。此処が本職の駆け上がり方と違います。と言っても其処はマニアといえど組織です。かつて一時たりとも本職(自衛隊員)経験でもしていれば、経験を元にメンバーに本当はこうヤル、とか指導もして一目置かれるかもしれません。そして「隊長殿に向かって、敬礼!」っていわれる快感を体験していくかも知れません。映画「八甲田山」でも、秋吉久美子さんが、弘前第三十一連隊27名を自分が先頭に立って従え、道先案内を立派に果たします。雪中に軍隊を率いることはどういうことかが判ると、本当に大変な任務であることを私も悟ります。任務終了後に徳島大尉(高倉健さん)と部下一同に最敬礼を受けるシーンがありました。あの時、彼女は乳飲み子を舅に預けたまま、軍人さんをご案内したのです。日本において、数少ない体験をした女性、貴重なものを見た思いを強くします。もっとも、彼女は目をパチクリしていました。可愛かった。

 さて女性が登場したところで、マニアの野戦にはナイチンゲールは必要ないと思います。部活でいえば、女子マネージャーみたいのが時に途中まで随行しても、終るまで車で待たされていたりはありそう。戦場に、或いは後方傷痍病院で咲く恋のロマンスなんてとんでもない。『武器よさらば』とは違う世界で展開するのです。「アマゾネスで参加させて、お・ね・が・い・」なんて迫られたらどうする?(差別言葉言わせて頂きますが)「飯炊き女で採用」位にして、あくまで男の美学を貫いて欲しい。

 でも、かつて国会の答弁に「うふっ」って、つい含み笑いをした一国の総理が自衛隊の全軍の最敬礼を受ける最高位の人でしたね。『自衛隊最高指揮官』ですよ、内閣総理大臣閣下は。そうだった。男の三大願望の最後の願望、私は下げたくなっています。1970年頃に交わした友との会話も今は昔。“神聖”、“高潔”を粗末にしている様にしか見えない人には靖国神社に眠る英霊に逢いに行くことも止めていただきたいと思っています。その彼がマニアの野戦に飛び入り参加したら、どんな役どころが回してもらえるでしょうか。  

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  上司論 −8−

 日本が第二次大戦で、コテンパンにやられて負け、多くのものが失われた、或いは壊れた。それは、“神国日本”であり、明治の途中から築いてきた、世界の中の“強国意識”であり、戦災によって永劫に失った“芸術的財産”などが在ると思います。“神国日本”と“強国”の思想−『上司』−はアメリカの占領と同時に、多くの日本人がケロッと忘れて、烏合の衆的な秩序で生きて行ったと思います。その時点で『上司』の不存在状態。

 一方で、敗戦後の世相を眺めて、リベラルに行動力をつけて行った人たちも居ます。目の前に広がるものが荒涼とした焼け跡であっても、描くものは作物を生み収穫を得る肥沃な大地だと見ています。その人たちは、更に新生日本の旗手であり、一番手を目指すランナーであろうと希望を抱きました。戦前からも経済活動を展開していた人を含め、新生日本の構想をいち早く打ち立てて実行して行きます。物理的に、製造施設、或いは政治制度的なものに壊滅的な打撃があっても、人脈、根性、事業欲、権勢欲などの志向で、新生再構築していこうと思いました。強烈な『上司』像を持っています。戦後のドサクサに乗じて、と言う現象がありますがそのような幾人かも頭数に入れるとして、その時点で大多数の日本人から、一歩も二歩も先に進んでいます。

 それと、日本の産業、国力、インフラ全般の建て直しを進めて行く行政官僚の存在があります。何から手をつけていったらいいのか。重工業、交通、住宅、電力、食料などの生活インフラから始まって行きます。例えば、私の小さい頃の電力会社の名前は、“〇〇配電”と言っています。中国配電、中部配電、四国配電とか言って電力供給に必死、みたいな名前で殆ど国策的に会社が立ち上がっています。規模の大きな生産を行う為に、兎に角組織を構築してその組織が機能していくことで再び生産が上がり、人も組織も地力をつけ自信をつけ、突き進んでいきます。この時の『上司』とは、戦後日本の“復興号令”です。そのために必要な政府機構、行政機構が敷かれて充分な機能を果したと行ったと思います。政府機構とは、選挙制度とか、政党結社の民主性などを指します。行政機構とは省庁の内部から庇(ひさし)を分けて作った公団などを含めた行政機能の強化です。

 ・・・しかし其処にどろっ、とした部分は無かったか? 何がどろっ、としたことなのか、癒着? 結論を急がずに段階を踏んで見て行きましょう。行政の大きな流れに、民間が関わって出来る或る混合形態の中に不純な姿で生じるものを「どろっ」としたものとします。復興期時点の混合物と現代の混合物は違っているとしましょう。目指すものの方向が同じであれば、協調の関係でやっていくほうが良いことに成ります。H2とOが化合して水、NaとClで塩。(やがて、高分子化合へ)みたいな人社会の繋がりにある化合や合成が進みます。兎に角、有機的にダイナミックな構想と実現が見られて行ったと思います。更にそのすぐ周辺で徒手空拳的に伸(の)して来ていた人間も次第にセンターポジションに接近して、食い込んでいきます。この浸透圧−食い込み−は様々なノウハウ、手練手管を使って居ます。この辺が『上司』の多様化へと推移して行ったと思うのです。其れについて、映画『白昼の死角』の中に出てくる話ですが、戦後の混乱期に企業買収、株売買を通して経済力をつけ、勢力を伸し始めて来た男、金森が物語の最後には、刑事告訴される直前の主人公を政治力で法務大臣を動かして放免させる人物となって再登場します。そして自分の金融事業に協力させようと下命する時こう言う。「もう、戦後は終ったんだよ。一匹狼の時代はもう、とっくに過ぎたんだよ」。

 主人公はそれを断って席を立ち、その場から去ります。「青臭いままの小僧か、惜しいな」と金森は言葉を落とします。絶滅品種として何かが日本から無くなって行ったことを感じました。組織を当てにせず自分の頭脳と度胸だけで動く経済人がです。映画の中の時代は高度成長期に入った頃です。さて、次回は世相・巷の中に出てくる『上司』から始めるつもり。

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  上司論 −9−

 或る容疑者が逮捕される前段階から、マスコミを通して遠巻きに疑惑報道され、世間が色々な評論を加え、やがて警察が逮捕に至る事件があります。勿論、思いつく話題はいくつかあるので具体的に対象の事件を挙げたいのですが敢えてそのことはしません。ある事件が起きて巷にその話題が沸騰していた頃、職場で私の(組織の)上司の言った言葉が、衝撃的でした。昼食時、会社の食堂で視聴したTVの報道が、既に逮捕の後だったか疑惑の段階かは忘れました。そのTV報道を見ながら、容疑を受けている人物に対し上司はこう言いました。「こういう人間は、戦前にはいなかった」。もう20年くらいは昔になるかと思います。

 これまで人間として考え得なかった、或いは行動し得なかった内容の犯罪だという意味と思いました。人の心と心の信頼を、いとも簡単に欺き、その上に事件(犯罪が成立したとして)を犯して平然と市井の人としていられる人間は、戦前の日本人には居なかった、と言うのです。犯罪に限らずその時々、様々なゴシップ・腐敗などのマスコミ報道にワッと日本中が議論の坩堝(るつぼ)と成るのは昔からありましたが、未だに彼・上司のこの感想は私にはピカイチの強烈な印象で残っています。何なんだ、この悪は。

 三鬼陽之助さんの財界人物列伝的な本がありました。この中で誰の事であったか、既にその本が私の手元にないので内容だけを現すと、こんな人物のエピソードがありました。一応朧な記憶でこれとであろうという本は、新書版『政治力』です。ある社長が、事業がうまくいかなくなって、借金をかなりの額で抱えてしまいました。債権者に追いまくられ、万策尽きて窮地に立たされてしまいます。とうとう最後に気がふれて、服を着たまま風呂に入ってしまったり反対に裸(褌くらいは締めていたか)のまま、大通りを歩き出してしまいます。それを見て、債権者は、彼から金を取り立てることを諦めます。「キチガイになってしまったのではしょうがない」。この、“見た目”の姿が、人の信頼の中で生きていた時代だったのです。戦後のある時期まで、日本人はそれがあって暗黙の絆と信用を確信していたはずです。

 社長の行動は、恐らく本人にとっては最後の砦を越えてまで一世一代、伸るか反るか位の意気込みで演じた、自分を偽る演技であり、見る側にとっては演技では起こりえない事で通ったのです。その社長は演技がバレなかった事でケロッとして涼しい顔でその後を生きたかどうか分かりません。重い十字架を背負って生きたかもしれません。

 客観的に同情の余地の或る犯罪はあります(思いつく最大のものは“仇討ち”です)。それを除いて一般的な悪い犯罪について言えば、組み立てられた犯罪があります。強盗に押し入て「お前は親父を縛れ、オレはカカアを脅して締め上げる」なんていう役割分担のことではありません。犯罪を組み立ると言うことは犯罪の発明・発見という事です。今は日常茶飯に現われています。考えて見ましょう、詐欺がそうです。進化します。人の裏をつき、油断させ、自分に対する相手(被害者)の信頼をも利用してしまいます。犯罪が新たな次元に入ったということです。戦前にはいなくて、戦後になって新しい犯罪資質を持った人種が生まれたという事です。戦前には居なかったと言うことは、これまでの日本人には居なかったと言う、歴史的な変化になります。

 そこで又、故事にまつわるエピソードが思いだされます。意味を伝える為にストーリーがいくらか入ります。昔の中国で、隣国同士の王がどちらかの国に招かれて、酒宴が開かれます。宴たけなわで、主催した国王(K1)が招いた国王(K2)にプレッシャーをかけてきます。予め仕組んだ一芝居のようです。


* 部下 犯罪者を連れてまいりました。

* K1 お前は、どこの者で、何をしたのだ

* 犯人 私はK2の国の者です。この国で泥棒を働きました。

* K1 K2王よ、あなたの国には、泥棒を働く民が居られるようですな。

* K2 いや、私の国は豊かな国であります。だから、わが国に於いては泥棒を働く者など現われないのです。

* K1 では、あなたの国の者が私の国に来て、何故泥棒を働いたのでしょう。

* K2 蜜柑が、“からたち”に成ってしまったのでしょう。蜜柑は、気候の温暖で住みやすい土地に実ると言います。その同じ蜜柑を、寒冷で土地も枯れた荒地に移して育てると、絶えられない不味い貧相な“からたち”の果実をつけることしか出来なくなると言います。あの者は私の国では蜜柑だったのです。あなたの国に来てから、環境の厳しさに耐えられなくなって“からたち”に変わってしまったのです。


 日本人は戦前の生活水準を越えて、未曾有の豊かさを享受し始めた頃から、反比例して心の荒野に住まされるようになったと思います。心の寒くなる犯罪が生まれ、犯す人間が増えたと言う前に、犯罪を生む土壌が広がって行ったと言うことです。犯罪までいかなくとも、倫理・道徳的にも人に不快感、不誠実を与える人、人間関係の冷却などが顕著になってきました。其処に在る『上司』は何か、それを考える事、答えを出すことを私は徒労覚悟でやって見たい。と言っても私流ですよ。続きは次回。 

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  上司論 −10−

  どういう理由で人はあんな振る舞いをすることができるか?これを読んだ人に、「どうってことないじゃん」と言われても私は間違っていると思うから書きます。書きながら、彼らに共通する『上司』の存在を考えたいのです。

1. 行列のできるラーメン屋で、客の一人が携帯で何処かに連絡を取ると間もなく、仲間が現われてその人に合流してしまう。始発電車で後から来て列に加わって座席の確保する行為とおなじです。私の遭遇ケースでは家族構成だった。その中に小学生二人の子供も入っていた。

2. スポーツヂムのパウダールーム(洗面台のある場所)から施設備え付けの備品を持ち去る。ドライヤー、トニック、リキッドなど。そのヂムの名前のシールが付いたものを自室で使うのだろうか、剥がすだろうか、ズボラな奴ならそんな事は気に留めないだろう。

3. 私はかつて、チャリンコを盗まれたことがある。忘れたころ、少し離れた所に在る交番から連絡が入り、取りに行った。パンクしていたので修理して置いていた。数日したらまた盗まれた。自転車に鍵を掛けておいても盗難は良く在ることだが、ここまでヤルのか。自分が間抜けに見えて落ち込んだ。

4. 旨いチューハイと煮込みや焼きトンがウリの店で飲んで食べて大体1500円前後で切り上げる。私のサラリーマン現役時代の話ですから。幾度か行くうちに、或る日店の人と冗談とかニュースの話題とか、うちとけた後、おあいそしてお釣りを貰ったら、100円足りない。普段お釣りをもらった時はあまり、目を皿のようにして数えません、瞬間チェック−映画“レインマン”のダスティン・ホフマン程ではございませんが、分かるんだよそれくらいのセコイ誤魔化しゃあ。余計な事いう必要もないし、きちんと100円出させて、以降その店には行っていません。

5. スーパーマーケットにて。何じゃーァ、チョコレートの棚に、エビの冷凍パックが置いてある。商品がどちらも駄目になってしまうじゃないか。悪意があるんか、置いた客は。

6. 上に続いて。店員が商品の肉のパックに、賞味期限が迫ってきたもののパックに貼った割引のシールを勝手にはがして、別なものに貼り替えてカゴに入れようとする所を店員に見つかり、注意された。「じゃ、あんたこっちにも、シール貼ってよ」。俺は見ていた。グラム単価の高い肉じゃないかい、詐欺じゃないかい。←窃盗未遂かな

7. 最後に、同じくスーパーマーケット。私が取った行動、と言うかむしろ目撃していながら何も出来なかったことに対する一種の心の痛みについて。ホームレス集団でその日の担当になったか、常にパシリをさせられている人かは分かりません。私の直感としては、その男性はローン・ウルフには見えなかった。酒売り場で既に挙動がおかしかった。ヤルなと思っていたら、遂に、2.7リットル入りの甲種25度ウイスキーのボトル、1本お取り上げ。彼にはそれとなく観察している私の存在を見る余裕がない。その姿を見ていて私は、彼をとがめようという気が湧いて来なかった。敢えて正当化すれば“武士の情け”に近かったかもしれません。勿論、私の心の中は回転して居ます。広いスーパーです。レジから遠い場所を通って売り場のスペースを離れる事が出来ます。彼は、ジャンパーのような上着に隠して、無理に片手を遊ばせる様な姿勢で立ち去っていきました。彼の今回の成功は次のどのようなステップになっていくか、それだけが気に掛かり、私の中にしこりも残りました。

8. 首都通勤圏のJR線で、夕方ラッシュピークの過ぎた時間だった。15年くらいは昔になったかな、あの事は。車輌の前後部に在る3人掛けの私の隣、真ん中が空いていた。中年のだらしない格好のオヤジが座って、すぐに私に酒臭い息を意識的に吹きかけるようにして、話をしてきた。「今本を読んでいる」と言って、取り合わないで居たら暫らく様子を見ていたらしかったが、今度は向こう側の30代位のサラリーマンにやりだした。つまみ出したい奴なんだけど、こういうのが意外と手ごわいのだ。向こう側の彼は、ウザツタイっという態度を出すこともせず、すっと席を立ってしまった。酔っ払いは、近くに立っていた仲間に「おい、(席が)空いたぞ」と声を掛けて座らせていた。

 この話、私の体験談であることは分かって頂けると思いますが、こんなこと「ささやかじゃん」と言う人も多いと思う。「これって、だから何なんだ」って。こうしましょう。彼らを叱る、怒る。日本で、大声で吼えて最も様になるアニマル浜口のオヤジ様なら殆ど勝負が着きますが、その場に居た或いは、頭にきたこの私如きが怒ったら、どういう反応でくるか。まず、ホームレスは逃げまくる。ひょっとして、謝るかどうかという予想です。後のケースで挙げた人は絶対謝らない。@無視・A反撃・ B無視後、後刻反撃(逆恨みになってくる)C形式的謝罪のパターンのどれかの択一問題みたいです。多分どれかが正解です。

 戸塚ヨットスクールと言う、一種の精神矯正治療を行う民間組織があります。かつてその矯正教育の過程で発生した事故を事件として、裁判の結論だけから言うと、スクールの責任者と、職員に傷害致死罪などが確定しました。この問題が世の中で騒がれた当時、私が受けた印象は、国家が国民に対して、「余計な人間教育はするな」と言っているように見えました。ヨットスクールの基本は、訓練を受ける子供へのスパルタ教育です。海の上で、生徒はおのれの生死の分かれ目に立たされ、自分の力だけで生還しなければ成らない場に追い込まれます。このスクールに辿り着くまで、子の親は万策尽きています。その、親の全権を任せられてやったことに裁判によって“暴力”という評価を下したのなら、すぐにも子供の教育は親も、教育現場も、国もどう執って行くかの正しいあり方を考えなければいけなかった。しかし誰がそれを司(つかさど)るのか? それを担うべき仕組みや実現の可能性が今日本にありますか?よりよき物の選択・採用の道は無くて、悪いと言われる事だけ−−この場合、“スパルタ”教育が消去されたのです。そこでおしまいになってしまいます。こうして、これまで『上司』としてあったものがどんどん消えています。その結果、(誤解の無い様、これは衰退傾向と言うレベルで)人間は『上司』の導入が出来ないままに子供から大人に成人し、或いは、既に成人した人も、『上司』を失い、或いは『上司』に足るを得ないものが一人一人に勝手に入り込んで行き、今の社会になっている。そういう側面から見ても今の世相の荒廃が在ると思います。先ほどのケース9件にはすべて、罪の意識が欠如していると思うのです。罪の意識とは、自分のしようとすること、或いは為した事が叱られるのではないか、という怖がりを持つ意識、と言うことです。

 これを、『上司』の存在が無いということで捉えたい。この部分をもう少し掘り下げて調べてみなければいけないと、私は思っています。

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  上司論 −11−

 犯罪が年毎に増えていますが、これは現象です。火山で言うと“爆発”、地震で言うと“揺れ”が現象です。火山の爆発は、マグマ等の原因要素がモロに表面に出ますが、地震は伝播です。そこで、人間界の犯罪も両方の型で分けられると思います。ライオンの草食動物を襲うのは、犯罪とは言えませんが形態として火山の爆発。地震型は追々に検証します。こんな例えで通じるのでしょうか。

 犯罪者の中に爆発型として、性倒錯者(広義)の犯罪や、コンプレックス、引きこもりなどなどから突発的に起こす動機なき殺人傷害事件、放火などを考えますが、この場合の『上司』像は因果関係からみて一応捉えやすい。ひとつに、病理的なものが『上司』です。これが犯罪行為にまでストレートに近い形で爆発して行きます。繰り返しもします。警察や相談所などの行政、施設、医師・カウンセラーetc・・・いっぱいあっても何故か防げない。追いつかない、間に合わない、或いは手を付け切れないのかもしれないけれど、どう見たって怠慢や責任逃れをしたために犯罪者の『上司』の暴走が防げなかった事が在ります。“保護観察期限”の終了で執られる放免など、単なる順法行為でしか仕事をこなしていなかったのも、結果として責任があります。周りが彼の『上司』=病理とどう折り合いをつけるか、本気でやってくれないと駄目です。このような危険因子の『上司』を抱えている同類が、世間にいっぱい居るのですから。対策する側が一本化した組織で動かないのが、最大の原因だと思います。責任は、対応すべき人たちの中に在ります。人権派だって当事者だから責任があります。施政、いわゆる法整備といわれる国の仕事も含めてきちんとやっていない。この部分は、先進国の取り組みで成功した例があってこれが教科書となる『上司』としてありますから、ちゃんと倣って研究してほしい。基本的には、既犯罪者情報の公示や、野放しにさせないきちんとしたケアなどです。

 次も火山型。喧嘩、集団暴行、強盗などの粗暴犯、凶悪犯などは情操教育など家庭環境や学校教育の投影で、『上司』が出来上がってくるものがある。勿論括り方に不適切な部分が在るかもしれませんが、『上司』論で組み立てていきます。まず、人の痛みや善悪への判断力が歪んでいる。悪事を働いたのち、逃げる、隠す・偽装する、シラをきる、人に濡れ衣を着せるなどをするから判断欠如では無いと思う。こういう人の『上司』とは、ひとつに幼児期に受けた虐待などの“トラウマ”があります。それと大多数の傾向として、親から受け継いだ“利己的な価値観”、“周囲に対する不協調”をそのまま『上司』として持っていると思います。「親の顔が見たい」とはこのことです。反面教師的な親の姿も含んでしまいます。親が駄目な人間だった事を連鎖して受け継いでいます。人間として生きるのに必要な、正しき生き方の良識や戒めが『上司』なのに、これらのものがないのです。

 余談ですが良くTVを見ていて、例えば動物の能力や行動の驚異を紹介する時「これは、彼らの愛情行為であると考えられています。」などの言いまわし方がとても気になっています。最近の番組では最早、ナレーションの中だけではなく、現地の研究者や案内の人の語り言葉として、日本語吹き替えで使われています。古代遺跡に現地のナビゲーターなどが、「此処はトイレの跡と考えられています」と言う言い方などが、これにあたります。主語不在で完結していく日本語として、伸してきています。“不確定性”が私たちの心を次第に占領していくと私は考えています。私達は今後、色々な事で何となく、こんな表現を聞かされて、「へえ」とか思うことで納得させられていく状況が増えていくかも知れません。(こんなのが『上司』として私たちをコントロールしていったら怖いですね)

 次に。地震型の例として、会社をリストラされる。この事を震源とします。会社との折り合いが一応ついて、上乗せ退職金などが貰えたりして、例え先の不安はあっても最終的な納得にいたるものであれば、マグニチュードは小さく従って地表が揺れても左程の被害はない。しかし、納得できるものでない時などでは、マグニチュードが大きくなって、リストラ対象者の行動に酷い揺れを起こしてしまうことが在る。対象者は、なるべき人が成った、あるいは当然の能力しかなかった、で片付かない状態も多いはずです。お気の毒な例で心が痛みますが、リストラを受けた本人の自殺、家庭崩壊にも現われます。これは地震波の縦波がモロに本人を襲った災害に近い状況です。

 一方で、ひとたび起きた地震の横波と縦波をとんでもない場所にとんでもない揺れ(犯罪)で発生させる人が出てきます。この震源は、リストラとは限りません。不況全体であったり、世情の悪化−−−世の中最早相互扶助は無い、まして国の国民に対する扱いを見せつけられたり、所詮は強者の為の世の中でしかないと悟ったりしていく内に、地震エネルギーが溜まり、ある時これがはじける。清く正しく美しく生きる価値などないと考えていく人が増えて行っても今の世の中、不思議ではありません。この際に“犯罪の発明・発見”が為されて犯罪者が誕生していくのです。私自身も、今の生活状態もっと何とか成らんか、と突き詰めて行っちゃえば、「イッチョ大きく揺すってみよう」と行動してしまうかもしれません。これまで清く正しく生きてきたことをひっくり返す気力も多分湧かないから、それも出来ないでしょう。

 地震型で起きてくる様々な行動を普遍的に言い表す『上司』を述べてこの章を締めたいと思います。『勝手気ままな価値観』です。抽象的だったかな、正直チョット苦しい。次章で、もしかしたら復旧作業で何か救援物資を持ってくるかもしれません。許してグラッ!


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  上司論 −12−

 まずは拙句

  政治家の 喧嘩の前の 笑う会   三竿

 政治家の『上司』は選挙民、つまり票である。このように言い切って何か足りない思いがします。票を得る事は目的じゃないかなあ。選ばれた人になりたい。人が「選ばれたい」、と願望する端緒とも言える思い出の話があります。私の小学生の頃“学芸会”なるものがありました。劇があって、『安寿と厨子王』で、浜の老人役に選ばれた事がありました。白髭に寝巻きを着て、頭にもボール紙かなんかのカツラ作って被りました。物語のクライマックスに近づいた頃、都人(みやこびと)の高貴なお方−−出世した厨子王丸を、母親に引き合わせる役です。母親は、めくらの乞食になって寂しく茣蓙の上で笹で雀を払いながら歌を唄っています。

 安寿 恋しや ほ〜やれほう、 厨子王 恋しや ほ〜やれほう、
 「母上ぇ〜」 ・・・こうして親子は再会します。

 「母上ぇ〜」の絶唱が会場に響いて観客の全視線、全聴覚が注がれてクライマックスになります。厨子王丸は高貴な都人ですから貴族の服装をしています。「これ、三太夫」とか一声で周りを平伏させたりもします。背景の松の役なんかは無かったと思いますが、この、出演者選びは担任教諭が行ったかと記憶しています。先生の発表を聞いて、女子がギャーギャー騒いでいました。劇の配役のほかにも合唱組、独唱、遊戯などなど、恐らく生徒の個性に合わせ、性格に合わせ、少し諦めてもらったりしながら割り振って行ったと想像します。美術の腕を見込まれ、背景を描いて満足度100パーセントの思いをした人は、その後自信をつけて身を立てて行った人が居るかもしれません。一方主役を頂いた子で後に高名な役者、俳優になって行った人は、全国に幾人居るでしょうか。

 良い役を頂く為に黙っちゃいられない父兄も居たでしょう、父兄といいながら出てくるのは母親とはこれ如何に。そうか婦警か←違います、ご婦人からの警告です(コワイ)。或いはご婦人からの敬意かも。何を持って行ったのかな。ステージママはいまでも居ます。熾烈な活動になることも聞きます。アメリカではアメリカン・フットボールの華、チアガールの世界も選抜の段階で、特にハイスクール或いはその前から、凄まじいバトルが在ると聞きます。

 選ばれる事によって得られるものって何でしょう。スポーツの世界では、本人の実力で選ばれます。最近ややこしいものが入って実力伯仲の競技では、やはり篩(フルイ)にかける際に情実がらみの選考も在ることは在る。しかし選ばれた後の勝負で、天国も地獄も起こりえます。再起不能の負傷も在る、ドタ負けの屈辱も在る。しかし彼らの求めるものは一点に“Winnerの栄光”です。マリア・シャラポア選手や宮里藍さん、或いは浅田真央ちゃんのあの笑顔、見ました?あんな美しい人間の顔を次々と見せて頂くだけで私も本当にしあわせです。競技に勝つ、更に万人に喜びを与える、この精神的快感は最上級のものだと思います。水泳平泳ぎの北島康介選手は、世界新記録を更新した時、「ちょー気持いい」と拳をふって自分に感動しています。“勝つ快感”はスポーツ選手の『上司』です。這い上がるのも、リベンジも練習もこの『上司』の在るところから湧き起こると思います。今、“勝ち負け”を幼児教育から排斥していく風潮が在るとの事、間違っていると思います。競争原理を歪めています。誰が、どこが声出してしているんだろう。大人になって『上司』不在の根性なしで挫折する人間がきっと増えます。

 この章を政治家を揶揄った川柳から始まって、話が別な方向に飛んで行ったので一旦終了します。次章で続きを展開させます。


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  上司論 −13−

  この章では、各種団体や組織から入って利益団体代表者などの『上司』について、話を持ち出してみたいと思います。相変わらず古いエピソードから。先にお断りしておきますが、今前今後とも内容はコアの部分のみ記憶にあって、何時々々の事か、出典は何かが曖昧の時があります。その辺をご承知の程宜しく。

 出典は週刊新潮、頃は昭和元禄。関西地方の何処かに広大な構想の−−−関東で言うと『筑波学園都市』みたいなエリアの構築話が持ち上がった時の事です。その敷かれるエリアの人達が名前について、ブーイングを起こしています。何かといいますと、名前の頭に“近畿”とつけようとしている動きに反対して、“関西”とするべきだというのです。ネーミング議論です。“近畿”という本質的意味を嫌ったらしい。そのエリアは日本の歴史認識で行けば間違いなく“近畿”なのだからどういうことか?関西地方では、あるエリア(いにしえの都のあたり)を“畿内”といって、今時で言う『都心』みたいなブランド性を持っているのです。ですから、近畿はその周辺一体と言う事になってくるわけです。これが面白くない。其処までは感情としてもわかります。解らないのが反対理由につけた屁理屈です。「ヨーロッパの(北欧か?何処かの)国の言葉で発音として、“キンキ”は宜しくない。性的な卑猥な言葉と同じだ」との声が挙がったそうです。

 私の思うには、自分達が“近畿”と言う言葉を嫌っている、とストレートに言わない。何故かこういう本音を絶対出さない公的な物の言い方って、日本には本当に多い。(屁)理屈は着くと思います。インターナショナルなエリアなんだから万国に受け入れられなければいけない、その国の人たちの立場に立ってみなさい、と言う事か。『理屈と膏薬はどこにでも着く』、成る程。諺を地で言っているとはこのことです。

 やはりどこかの国の言葉で、「スケベーニンゲン」と発音する地名があります。日本人観光客がその地で観光バスに乗ったとき、澄んだ瞳、見事なプラチナブロンド、ロングヘアーのガイド譲がきっとこんな言葉を挟むでしょうね。「日本ノ皆様、ヨウコソ スケベーニンゲン 二来テ下サイマシタ。私ハ 真面目ナ スケベーニンゲン ノ 市民デス。ドーゾ 宜シク」と、にこっと微笑んでヤンヤの喝采。旅行客が本当に助平連中(通称スケベ−連)の団体ご一行だったら、国際的一大ジョークに成るかも。兎に角、お静かにご旅行くださいませ。

 真面目人間に戻ります。さて、“近畿”論争の顛末は、判りません。声の大きな方の論理が最終的に通ってしまう事って良くありますが、このような屁理屈が意外と大きな声になってしまう。夏の積乱雲が発達して雷雨に発展するかのようです。周りは、濡れないようにと内の中に引っ込んでしまいます。ま、今回のケースは“関西ナントカ”の名称に納まったとしたら、どうという事無く収まったケースで良いでしょうネ。彼(か)の国の人たちの笑い声が聞けないのは、残念と言うことで。

 TVのCFで桃井かおりさんが「世の中、バカが多くて詰まりません?」と訴える物がありました。ホントに瞬間的でした。本当の馬鹿がクレームつけたと思います。想像着きますね。「バカの人に失礼ではないか」という発言のはずです。CF制作サイドはこういうバカもとい、輩(やから)の出現は事前に解っていたフシがあって、サッと切り替えました、流石。CF制作サイドの勝利です、読みが的確です。(自作自演みたいな流れでも良いけど)

 こういう屁理屈的な論法を上手に考案し、通していける人は基本的には、組織・団体の上に立つ要素が在ると言えます。その代弁者を担ぎ上げている裾野の人が喜ぶのは、例えば地域の土木事業計画を実現する手段として、『皆は金がほしいんだよ』なんて言ってくれる事ではありません。『国家100年の計で考えたら、あそこに道路造らないと子々孫々に申し訳が立たんだろう』とか言わなければならない。兎に角、「流石、センセイ良い事言ってくれるわ」となります。

 意外とすんなり、出てきました。前章でセンセイたちの『上司』は票でもない、選挙民でも無いと言いました。(でも密着はしている)。『大義名分』が上司です。大義名分に従い巧く取り仕切れる人が、優良な政治家です。今の総理が如何に此処を否定しよう、ぶっ壊そうとしても無理。自身が一等の巧者なんですから。繋がり上、説明に足りないものが在るかこの後考えて、もし思いついたらそれは又次章と言う事で、許して票ゥ

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  上司論 −14−

 前章で、センセイ達の『上司』が出たので今日はもう一方の、難攻不落の霞ヶ関官僚についてどうしても述べなければいけなくなりました。どのようにマスコミが取り上げようが、様々なメディアで実体を暴こうが、徭として動かない。・・・ここでテクニカル・タイム採ります。「ようとして動かない」のようの字が難しい。“容”がもっとも近そうですが此処で言いたい“官僚は変わらない”の意味を言いたいので、『広辞苑』より、−−徭(よう):公役につとめること−−の文字を充てました。話しは戻って、私はこの文を書く前に、官僚の『上司』を思いつきました。“徭として動かない”のは彼らの『上司』の命によるものであって、基本的には、彼らの人間性では無いのです。そうでなければ『上司』じゃありません、教師の言う事を聞かない暴力教室じゃないんだから。

 このところを焦らずじっくりと書いて行きたいのです。さて、O157による食中毒」がありました。1996年頃から事件性に近い報道の形で世間を騒がせていました。その頃私は、夜の巷の赤提灯にやすらぎのひと時を求めて、しばしば居酒屋の暖簾をくぐっていました。日ごとに成長していく成人病の背後霊を負んぶしていたことも知らなかった。初め、感染に疑いのある具体的な食品は、特に上がっていなかったのですが、居酒屋のメニューから、レバ刺しがさっと消えました。いくつかの店の中に、当局の通達があったようなニュアンスのお断りがありました。『保健所』ということか。ここは厚生省の管轄域なの?ややこしくなるといけないので確認しません。

 一応、手を打ったのが店であろうと保健所であろうと構わない。結構ではないでしょうか。でもその後の厚生省はいけなかった。犯人は、“かいわれ大根”で落ち着かせようとした。国民の生活上影響が小さくて、市場規模に見合う食品を捜して持ってきたのではないかと思いました。K組(厚生省)のクラスの人はN組(農林省)と特に親交が無かったので、自分達のクラスで決めた事をN組に伝えないで多分そのまま発表したのでしょう。無論、国民と、業者或いは識者から猛反発がありました。経緯の詳しい事は分かりませんがN組と話し合いが行われたのは、その後の事でしょうね。そして話し合いの結論と思われるものがN組(農林水産省)の一部所から発表されています。

 『かいわれ大根種子に関する厚生省の調査結果とかいわれ大根生産衛生管理マニュアルの改訂について』というプレスリリースを引用して、此処では趣旨だけ書いていくことに留めます。かいわれ大根を作るに当って、厚生省の協力も得てこの注意書を作り上げたと言っています。かいわれ大根を作る際は、衛生面の注意を徹底させましょうという事が主体となって居ます。原因究明をした厚生省に対するN組の意見は、次の表現から判断する事になります。つまり不満だ、ということを一応は謳っている。

 『(厚生省の発表にある)O157そのものが検出されていないにもかかわらず、かいわれ大根の生産の過程で種子が原因となってO157が増殖し食中毒をもたらしたものと断定することには疑念がある』。

 一方、K組のクラスの人達が出した最終的なものは何か或いは、訂正があったかどうかは追求しません。また、N組がかいわれ生産業者をどの段階から、どんな形で救出しに行ったか、どうしたかも此処では『上司』について言いたいので、調べないでおきます。どうやらK組とN組は喧嘩しないで握手したようです。握手は大げさか、「やあ」、「おう」の呼応のどちらだったでしょうか。そこで一旦次章に譲ることにしてこの章を終ります。


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  上司論 −15−

 上司論−2−の末尾で、「軍隊は最強の官僚組織である」と私は言っています。日本の軍隊は、1882年(明治15年)“軍人勅諭”が下賜された時点でこれが『上司』と成りました。これが私の思う官僚全体の『上司』に展開することになるとはどういう事か? 彼ら軍人は、自分達の『上司』の命の許で、最後まで日本のあらゆる機構・権力・制度から独立した立場で行動して行き、やがて日本全体への浸透まではかって行ったのではないか、と思います。泣く子も黙る軍人さんになって行ったと思います。警官との交番での些細な喧嘩、政治家への問答無用の暗殺ないし政治介入、その前の植民地政策としての海外侵略は一連の行動の流れです。これら軍隊の勢力が日本を支配した真の理由は、次のように考えなければ納得できません。

 “金科玉条”を『上司』に進化させていった。

 “軍人勅諭”から“神国”、“天皇陛下”へと、更に“八紘一宇”などスローガンを次々と生んで行って、どんどんこれらの言葉に従って行動を強めていく。正に“金科玉条”を強い『上司』信念において行ったと言うことです。これが官僚の真髄であろうと私は思います。今の、特に中央官僚は、国家運営のための行政を担っています。大きな『上司』信念が無ければやっていくわけには行かないのは確か。“金科玉条”がなければいけません。何を持って“金科玉条”とするかが具体的内容ということに成ります。財務省は主に国家予算の作成。厚生省は国民の健康と薬事・医療行政、文部科学省は?、国土交通省は? 更に国税庁に至っては、如何に、何処から税金を徴収すべきであるか、と個々に持つ命題があって、これを“金科玉条”として持って驀進していくのです。官僚の『上司』とは“金科玉条”です。この『金科玉条』の成立の仕方や運用にまつわる種々の矛盾とか、内容の是非は別と捉え、このことだけの提示とします。

 私は気分の趣くままに、ここまで様々な立場の人間の『上司』について書いてきましたが、充分に網羅してきたとはとても言えません。括り方だってテキトーだった。冒険者達の上司は?→何となく置きやすい。任侠道は?・・・これは難しいしコワイ。色々な類語−−ヤクザ、暴力団など−−があって、外側に居る立場からはどう違うのか分からない。従って認識不足、とても取り上げて論ずることは出来ません。おかま世界は?同様に複雑。マスメディアは?医療従事者は?既に『医は仁術』と言うよりも現実的には、算術だとも一方に在りますが、やはり医の現場では看護婦さんの戴帽式の厳正な誓いに在ると思います。「ナイチンゲール誓詞」があるそうですが、そこに『上司』はあると私は考えます。介護、福祉は?これは既に『Normalization』で私の体験、一宿一飯の客人として見た世界を述べています。

 上司論は本章が最終回です。人間に留まらず、地球の生き物は進化し変貌し、どこに行くのでしょう。神のみぞ知るとは言いたくありません。全ての地球に居る或いは在るものに君臨する『上司』は“時間”です。これが全宇宙を支配する最大の『上司』であると結論付けたいと思います。アッ、この広い宇宙の何処かに“時間”に支配されない世界が在るかもしれない!        −完−

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