上司論 −エピローグ−

 永く続けてきた上司論の中で『お金』の話がきちんと取り上げられてこなかった事に気付いた。思い着かなかったと言うことです。お金の話をエピローグに展開させること−−エピローグ的内容にまとめるのは、それほどきつい事では無いだろうと思い、少し中に入ってみます。

 『猫に小判』

 猫でなくても全て、人間以外の生き物にお金を見せつける、あるいは与えても、本来的なお金の価値を解る者はいないはずです。「人間がそう思っているだけで、実は〇〇は解っているのだが、わからない振りをしているだけだ」と言ってしまっては、せいぜい頑張ってSF的小説が出来上がるくらいで、真実味のある話では無い。絶対!

 お金が富の概念をを引っさげる前は、お金とは、物の交換の手段のために発明された道具であったと説明する理論があります。物々交換の不便がこの道具に依って解消されたとするものです。ですからほぼ定説と言っていいと思う。『貨幣経済』の成立です。この中に二つの要素があると思います。ひとつは、広い範囲で平和的な社会が出来上がっている事、この場合は人の心に、お互いの言葉や行為が先のことを約束するまで、信頼できるものであったこと。そして二つ目が、お金(貨幣)に対する等価価値基準を定める法規が作られていることだと思います。等価価値基準とは、塩一升が100円である(貨幣価値)とか、一日の労働がいくらになるかという事も対象になっていなければ成らない。物の交換換算を経験してきたから貨幣価値を定める事はそれほど難しくはなかったと思います。

 労働対価についてはここでは省略します(いつか別の機会に述べる事があるかもしれない)。元に戻って、一つ目の信頼関係とは、貨幣を使えば確実に必要なものが自分のものになる−−−物を盗る為に泥棒する事、人をいためて取り上げる事などの行為をしなくとも、安全に欲しいもの、必要なものが自分のものになるという確実性が社会の中にあったと思います。

 お金は、『社会学』のコアに存在すると言っても良いのではないか。

 頭の良いチンパンジーにコインを渡せば、自販機のジュースをゲットする智恵を持つに到りますが、お金の本質的意味は解らないと思います。値段の安い飲料高い飲料を見分ける、あるいは兎に角値段より多く入れたらお釣が出てくること、少ない金額を入れたままでは、いつまでたってもジュースが出てこない事を理解する智恵までは出てこない、野生に置いても人間社会で訓練しても絶対!

 お金が富の概念を持つプロセスは(規模の大小は在るが)富の象徴自体をお金で造り出したり手に入れたりすることになっていく過程で、同時に生まれたと思います。王宮・後宮、奴隷の所有など。勿論カリスマ性などの心理的な付帯も持たせながらであります。それと、適度のお金の分配システムを敷いて富所有割合の安定性を創り上げれば、これが壊れる危険性は極めて少なくなります。あるとすれば国内においては、革命、世界規模であれば侵略、ということになるでしょう。

 何故、富は大切か? は愚問か?

 しかし、富を得んとする人の手段と生き方、あるいは人間性を個人の中に見た時、果たして何か大切なものが欠落している事を感じてしまうことが多々ある。富と権力を同じ範疇に括ってしまっている人の姿ということであって、多くは今日の様々な経済世界や機構・団体の中でボス的存在にいる人たちを、その代表としてみれば良いでしょう。徹底的な卑怯と冷徹が心を満たしている(それだけに、個別の対象者をここに書くことが個人誹謗となるために、それはできない)。不祥事や、不法事が明るみに出たときの組織上層部の自己保身の発言を聞いて常に感じている。

 富を得ることの多くは、守銭奴的な精神の徹底さで成し遂げられるだろう。そして今は、この傾向な社会に成りつつあるのではないか。多くの人間が守銭奴となって生きていくことで、社会の倫理性と安全性がどんどん失われていく事は社会が病癖していくことである。

 『お金』は、汚れてしまった。争奪の中で。

 平和であれと願った社会で生まれた『お金』の成れの果てがこういうことだったのか? 上司論の中で『お金』を強力な上司として押すことは極めて自分は不快な思いであるが(しかし)、ここに記して置かなければならない。勿論自分が守銭奴に成っているとしたら、「不快!」とする論旨は出てこない。 −了−

 守銭奴:金銭の欲の強い人間。金をためるばかりで、使おうとしないケチンボ。
  (広辞苑・第五版)