EXIT
松橋 帆波様  お酒のたわごと   
   第19話     8月29日

 文京区関口で同期のSと会った。かれこれ15年振りぐらいになる。この街を歩くと、いつもSに会えるような気がしていたが,実際に会えたのは今回が初めてだ。何もSを探して歩いているのではない。不定期だが,音羽に所用があるので,そのついでに街をぶらついてるだけの事だ。なのに僕はいつも彼女のことを思い出さずにはいられない。Sとは学部もゼミも違うし,コンパの経験もない。それなのに論を交わし、グラスを重ねた時期があった。

 最初のきっかけは,下落合か西早稲田の居酒屋だったと思う。僕が先か、彼女が先か忘れたが,とにかくどちらも独りで飲みに来ていて、相席になった。話しているうちに、大学生という枠の中で「今」というキーワードに遅れまいと組上げた薄っぺらな話に、お互いが辟易していることを認識し合えた。

 彼女の論はぶれないし、かといって譲らないわけでもない。異論を土台にしての彼女のインスパイアに、どれだけ僕は憬れリスペクトしたことだろう。Sは僕にとって、セックスという感情を超えたところに存在した、初めての女性だった。勿論、二十歳そこそこの僕が彼女とのそういった妄想を抱かなかったかというと嘘になる。それでも彼女との時間は、そういった妄想が入り込む隙がないほど、僕にとって濃密な空間だった。

「セックスが文化だっていうのなら男が基準になっている筋書きをまず捨て去るべきよ」 
「男女が平等という理屈はおかしいわ。人間が平等というのならまだ解かるけど」
「あなただって二十何年しか生きてなくって人生なんて決められるの?そもそも決めなきゃいけないものなのかしら」
「瞬間って言うか対面したことに対しての判断でしょう?そこからのスパンは個人差があるでしょうけれど」

 僕の海馬は、今でも彼女のセンテンスを正確に再生することが出来る。そんな彼女と15年ぶりに出会った。なのに………

  正直に言おう、僕は彼女に気が付かなかった。
  そして彼女は逞しい主婦になっていた。

 ママチャリの後ろとハンドルのところに子供を二人乗せて、赤白の縞のTシャツとジーンズで僕に声をかけてきた茶髪のオバサンが彼女だった。「マツハシくんじゃない?」
その声の主がSだと気付くのに、僕は不覚にも3秒を費やしてしまった。それくらい僕の妄想の中での彼女と、母親になった彼女は違っていた。

 理屈では人生の勝者にはなれない。(尤も僕の言う勝者とは、自分の胸に問うて正直でいられる度合いのことであるが) 「対面したことに対しての判断からのスパン」彼女はそれを実践して来たのだろう。満面の笑みと、母親に対する揺るぎない信頼の瞳を持った二人の子供がそれを物語っていた。僕はこれ以上ない卑屈さで愛想を振り撒き、何ら具体性を伴わない「なつかしいねぇ」を連発し「それじゃあまた」と、背を丸め、愚かにも、まったく関係のない地下鉄の入り口へ、体を沈めていった。

 過去はもう青春ではない。瞬間瞬間が青春であるべきなのだろう。僕は、ときめきと酒が一体になれる店を求めて、敗者のように夜の東京をさまよい歩く。「Kに電話して、ツインターボで迎えに来てもらおうか」

 
8月某日 テキーラをもって消去する前の記憶。

   おかわり