2014年 2月         


2月2日(日ようび)  ペース変更


 この頃の身体のバイオリズムを診てみると、経腸の栄養剤を入れている時間帯は、食欲が無いようだ。小腸に直行しているのだが、逆流して胃にも少し戻っている様子があって、それで多分裏口から入った食べ物に胃が違和感を感じて不快になっているのかもしれない。

 これを時間的に填めてみると、夕餉の経口食事があまり進まないのだ。口からの食事をしたくない時が有ったり、すぐに咽喉につっかえて止めてしまったりする。経腸の栄養剤の名前は、“ラコール”と言うのだが、一袋400cc × 3袋を夕方4時前後から10時(就床時間前後)まで連続して投入していて、その間6時半前後から、夕餉の食事時間に重なっているのだ。

 ラコール一袋で400キロカロリーあるから、一日分の栄養を此れ3袋で1200cc摂り、口から400〜500キロカロリーを合わせて1600キロカロリーくらいで生きている。特に働いたり運動したりしていないのだから、身体が衰弱していくような事にはならないと思っているのだが、経口からのカロリー摂取が増えないとラコール依存度が下がらない。

 従って、何としてでも夕餉の、我が家では一番の料理満載の食事に箸が進まないのでは、現状の改善は出来ない。細君も心配している。

 「ラコール入れる時間を替えたら」

 何だ。この一言に改善の手段が詰まっていたじゃないか。そこで昨日から、朝起きて風呂に入って朝飯食ってからまず一袋入れて、その後、浅草に出て“ちんや”の牛肉と(今回は、ポークソテー用の豚肉も買って)、新仲見世に在る薬研掘りという名のお店で、調合してもらった四味唐辛子と普通の七味唐辛子を、各50グラムずつ買ってきた。

 七味唐辛子には、三種類の辛子(唐辛子二種と山椒)の辛み成分が入っているそうだ。今の私ののどは、辛みは刺激になって受け付けられない、かと言って、そば、うどんを食べる時にあの独特の香りのスパイスが味わえないのが寂しいので、オレ咽喉流を叶えたいと、常々思っていたのだ。

 “ちんや”で買った牛肉は、100グラム600円した。牛肉の等級としては、それ程高い部位に付ける値段ではないと思うのだが、コマ切れ、と謳っていて普通に付ける値段の恐らく半値くらいにして売っていると思う。形も、キチンとやや厚めの整っているものだから、すき焼きにして充分に食せるのだ。

 私は、ほんの二切れか三切れ食べるくらいだから、後の分を細君と息子が山分けして食う、という量がある。さすがに細君は甘い、軟らかい、美味しいを連発しながら食べた。私もペース変更の甲斐あって、普段以上に夕餉を愉しむことが出来た。この買い物のために事前に自分の財布から、肉代として2000円提供してある。

 それはそれは、細君にはご馳走になったと思う。後戻りできないくらい、家族の舌は牛肉にはこだわりが出来てしまったと思う。

 但し、流石の長い時間の旅に成ったみたいに、食事の後にラコール二袋を入れている間は、ぐったりとしていた。でも、今朝も昼も口からの食が進んでいるようだから(但し、普通の成人の半分以下の量)、ペース変更は順調な滑り出しのようだ。

 最後に駄洒落川柳を書いてしまう。

  
ラコールはリコールですと胃が叫ぶ  三 竿


2月4日(火ようび)  試行錯誤


 家にケータイから電話しようとしても最後まで電話番号を打ち込めなくて悪戦苦闘していた。番号が判らなくてつっかえているのではなく、途中で違うキーを押してしまう。そのうちに耳元で、なんだかんだ男の声が邪魔をして入り込んでくる。何を言っているのか判らない。怒っているのか、アジっているのか・・・兎に角うるさい。

 ・・・なんだ。目が醒めた。イヤホンから、誰かが勢いよくテンションを上げて喋っていた。NHKラヂヲの午前4時からの「明日へのことば」でインタビューに答えている人の声だった。ラヂヲをすぐ切ってしまったから、喋っている人が誰だか、どんなテーマだったかは判らず。

 そんな朝の始まりで今日が始まった。但し、もう一度朝寝して眠ったが、うつらうつらと、今度は今日の予定について考えてもいた。朝起きて → 風呂に入るか、飯を食うか、それとも経腸栄養剤ラコールを摂ろうか? どれを一番に持ってこよう。

 これまでラコールを腸に流している間は、経口の食事が進まない事があって、順番を経口のち経腸と決めてみようと思って昨日から始め、昨日が最初の一日に為り、やってみたが、どうやら肝心な事で思い違いをしているらしい。つまり、流入速度がこれまで早すぎたので、小腸内にラコールが充満しすぎて、それで、秩序ある摂取に成らず、胃に逆流したりして、不調を起こしていたかもしれない。それではスピードを落とせばどうなるか?

 病院では一袋を約4時間かけてゆっくりと流していたが、退院してからは次第にスピードを上げて今では一袋2時間弱くらいに早めている。これ以上のスピードでは、腹下しを起こす。そのギリギリのところでしばらく過ごしてきたが、午後4時前後から夕餉時を挟んでまとめて一日分の3袋を連続で入れていて、経口の方に不具合が出ていたのではないかと想定した。

 だから、今朝は、少し流入量を少なくして、午前6時から摂りはじめてみた。それで、8時ころ一旦、まだ一袋目が終わっていない処で中断して風呂に入り、その後注入を再開して流しながら朝ご飯を摂った・・・問題なし。

 此処で前半の部を終えてしまえば、今度は夕方の分に2袋残るから、続けて今もう一袋を入れてしまうことにして、それで、11時ころまでゆっくりラコール食を続けて居た。そうすれば、今まで夕餉の支度をする間にラコールも注入中になっていて、作業動線にチューブが邪魔になっていたのを解消して、かつ夕餉時は身体が経口の食事に集中できるし、そして、その日最後の一袋を7時以降にゆっくり入れることが出来る。

 
 こんな自分に身体的なハンデがあるのは仕方がないのであって、これまでそのハンディキャップを、軽くあしらっていた事はもったいなかった。そして、試行錯誤は大いに結構、と捉えなおしてみたのだ。

 何だ、明け方の夢は、試行錯誤喚起への暗示だったのかもしれない。


2月5日(水ようび)  意志力


 意志力と、タイトルに付けたは良いが、どういう意味か?

 意志そのものに、力強さが在るのだから“力”は重複するようにも思うのだが、「意志力」とすると、もう一歩抜きん出た心の強さを表しているように感ずる。そうなんだ。「意志を強く持たねばならない」と、奥歯を噛みしめて、邪推や迷いを取っ払って何かを達成するというか、負けない自分を確立したい願いを、意志に委ねる思いで望んで居るのだ。

 今の自分に何の意志力が居るのか?

 ・寒さに負けて家に引きこもりがちな生活を改めたい
 ・運動不足気味ななまった体を最低限動かしたりして鍛えたい
 ・毎日の生活に、コアとなる行動を据えてその目的を果たし続けたい

 どれも、それ程困難な願望ではないと思う。なのに、これを意志力を持たずに果たせないところが情けない。傍から見れば、それ程打ちのめされているようには見えないと思うのだが、内なる心では、思い付くさまざまな事を遣らず仕舞いで怠惰に過ごしているような生活に為っているから、案外深刻に反省している。

 そこで、以前に体幹トレーニングマニュアル本を買って、身体を動かすことを試みたが4日坊主くらいで中断している。エクササイズが苦しくなった処まで行っていない。気を改めて昨日から、出直しでスタート地点に戻って、始めた。このDiaryを描き終えた頃に、ラコールの本日二袋目の注入が終わるから、まずは続きの第2日目をこなし、夕餉の食材買い出しに出る −−− それだけでもかなり動きが出来ることになる。

 本日の夕餉はスパゲティー・ミートソースとトマトピューレで溶いた海鮮スープを作る。

 もう一つ。この頃、身の内を内容としたDiaryが続いていて社会性の評論が鳴りを潜めている。それと言うのも、一通り、リベラルなサイトを読んでいても、夫々がリキばかり入っていて論評と言うより、内容が批判的なものが多くなっているので、読む意志が萎えているからだ。言い換えれば、それ程今の日本の権力構造や政権運営が正しく機動していない事の現れなのだから、言論だけの行使では限界みたいなものを感じるのだ。それで、自分が何か発信するには素となるべき思想が脆弱過ぎて、書く気が今のところ湧いてこないのだ。

 自身の体験、過去の出来事などを出来るだけ拠り所にして書いて行こうと思っても、もはや事に対峙する事すらできないほど状況は不利になっている。この先、年金が減らされたり、消費税が上がって、先細りの生活に追い込まれる。この事が多分これからジワリジワリ、心を痛めていくような気がする。日本社会全体のアン・ユートピア化が心に描かれていくのも辛い。

 「何とかならんかね」 ・・・こんな言葉が今年の流行語になるくらいな国民の大合唱は湧かんのかね。


2月6日(木ようび)  STAP細胞


 京都大学・山中教授のiPS細胞発明は何だったのか?ノーベル賞まで頂いた世紀の発明も、この度のSTAP細胞の新発見を機にあっという間に色あせてしまうかのようだ。その間、どこまで医学的応用技術が進んでいたかは知らないが、臓器等の再生医療の手段が一気にSTAP細胞へと移行するかのような大騒ぎてある。

 山中教授の方はイケメンでその存在が記憶に残ってきたが、STAP細胞発明者は麗しき女性である。我々男性は、瞼をハート型にして崇め、女性は同姓の快挙にもろ手を挙げて我が陣営の勝利とばかりに喜んだものと思う。

 ここまではマスコミのいつものような持ち上げで、STAP細胞発明者の小保方女子に脚光を浴びせているが、問題はこれからどれだけの期間で人間への医療に実現化が適うかである。人の細胞とマウスの細胞にどのような相違点・共通点の関わりがあるかは、開発医療の分野では良く理解されていると思うが、我々には気を揉んでいるうちに日が経ってしまえば、忘れ去られてしまうかもしれない。そしてiPS細胞は、ヂ・エンドで消え去るのかも判らないままで推移するのか?

 こういう専門分野の情報は、汎用的な話題としてこの後も継続的に話題に上ることが少なかったのだから、まずは「人の噂も75日」のようになってしまうだろう。

 こんなことは過去に、癌治療の世界でもあるのであって、かつて、「丸山ワクチン」が、脚光を浴びたが、厚生省と、製薬会社の結託で一線の治療技術の座を失って、一般的な知識としては無きに等しいものに成ってしまって居る。実際に癌治療に著しい効果があり、かつ副作用の少ない安全医療の鏡みたいな存在でいたのにである。

 丸山ワクチンは金にならない、利権のうま味が無い・・・つまり、シンプルな医学だったのである。

 自然界はシンプルであり、そこから最良の効率が生まれ、最大の効果が在るのだ。一たび人間がこれを手に取ると、余計なものばかりをくっ付ける。その結果、マイナス要素が必ず副作用的に入ってしまう。

 エネルギー政策に原子力発電を摂りいれた構造がこれである。当初夢のような発明だった、核の平和利用と謳われ、この国は原発一辺倒に近い志向で邁進して来て、3.11震災の際大きく揺らいでしまった。

 もうじき3年目を迎えても反省の謙虚さが行政では稀薄である。自然界からの再生エネルギーを利用することの方がシンプルなのだが、この筋道に対して、原発再稼働派は再生エネルギーに根本的批判もしないまま、ひたすら原発の道をすすんでいる。

 癌治療で私は、手術によって嚥下障害を起こしたまま、充分に回復できないでいる。放射線治療や抗がん剤治療の結果でその副作用に苦しんだまま、治療から放り出されたがん患者はとても多いと聞いている。何となく構図が似ているようだ。

 公的には、丸山ワクチン(オフィシャル・サイト)は未承認治療法である。しかし、今でも恐らく世界から日本に最後の救いを求めて治療に訪れるがん患者が多くいると思う。副作用もなく快癒率も高いというデーターがチャンと在る様だ。

 iPS細胞かSTAP細胞かの勝負はまだ決着したわけではないと思うが、此処に前轍を踏んで邪(よこしま)な判定が入らないように願いたい。


2月7日(金ようび)  真の作者


 大阪城を造ったのは誰か? 京都金閣寺を建てたのは誰か? などと、歴史上の建造物の製作者を問う場合、豊臣秀吉だ、足利義満だと答えても違和感なく通る。これが通俗的認識である。しかし、構想を立てたとか、元の骨格を築いたとかなどまで調べると、もっと別な起創者が出てくることが有ってややこしくなる。だから、通俗としての人物で理解して誤解とまでは言えないと思う。

 東北出身の某演歌歌手が、自身で作曲したとされる(作詞ではなかったと思う)曲に、実際には自分がこの曲を創ったと名乗り出た人が居た。その後の沙汰は知らない。

 松本伊代チャンがいわゆるタレント本を出版して、その記念インタビューで「出来はどうですか?」と質問された時、「まだ読んでいないので判りませ〜ン」と答えた。

 戦国築城物語では、まさか、豊臣秀吉が尻っ端折りしてもっこを担いで汗をかいたわけではないのであり、音楽界では、シンガー・ソング・ライターの歌い手は既にある程度名の売れた歌手になっているから、ひとつ自作曲も手掛けようとした時に、メロディーだけは出来たが一通りの演奏譜面までは創れないから、編曲とか、肉付けは、別にそれ専門の作者が請け負うことがあっても多分当たり前の業界常識になっていると思う。

 世に文学賞は山ほどあって、毎年かなりの数の受賞者が排出される。しかし、二作目三作目あたりまでは余勢で作品を書いても、やがて出版した本は返品多数の憂き目となり、出版社から見放される。そうなると、地域紙・誌などへの寄稿や、雑誌のドキュメンタリーや観光PRに所定の企画を与えられて執筆する名もなき裏方作家に成ったりして生業を続ける人も居るらしい。

 音楽プロダクションなどの一員に潜りこめば、それなりの曲作り(他の関連も含めて)の仕事は与えられるから、音楽秀才程度の人はこういう組織の歯車に成る事も承知で、その曲が誰の名で世に出て行こうとも納得しているだろう。

 従ってこの度、現代のベートーベンと讃えられていた作曲家のゴースト・ライターが名乗り出た出来事は、如何なる動機があったのかを評論してみたい。 ・・・ ほとんどの仕事は自分がやっているのに何で彼だけが栄光を浴びているのか、次第に焦慮感が心に充ちて耐えられなくて告発となったのか。それとも、矢張り彼の言葉の通り、相手の虚偽に加担する事への良心の呵責に耐えられなくなったからなのか? 或いは、相手の要求が重圧になってきた?

 外に何か理由があったのか? 報酬の多寡が直接間接に火をつけたのか?

 これらをメディアを含め聞かされた我々は、同情できるか、或いは非難せざるを得ない、という択一のスタンスを取って良いかどうか、私には判らない。つまり、ゴースト・ライター氏個人の問題なのだから。そしてソチで高橋選手は、話題の一つに挙げられた曲で氷上を滑ることは確かにし難くなったと思うが、その責任はゴースト・ライター氏に被せることは出来ないと思う。名乗り出るまでの彼の心に去来した心情には、少なくとも自分はいま重き十字架を背負ってゴルコタの丘を登っているという −−− このイエス・キリストの処刑の故事を知らなくとも −−− 信念と決意のみが心の支えになっていると思うからだ。真の動機が何であれ・・・

 そして、彼に対して、キリスト自身が述べた「汝らのうち罪なき者、石もて打て」と民衆を諌めた言葉を謙虚に受け止めて私は自制したい。


2月8日(土ようび)  英語考


 大雪警報が出て、外は朝から細かい雪が降り続き、白銀の世界ができている。今頃の季節に、南西諸島の南辺りで出来た低気圧が発達しながら、本州南岸を進んで行く際の気象現象である。かつてこれを『台湾坊主』と称した。

 文科省が、学童に英語を教える年齢を下げようとしている。早くから英語教育を施し、国際人を増やしたいという。それは悪い事だとは言えないのだが、政府が何かやろうとした時にいつもの事で、その事だけに釈迦力になっていて、周辺整備や周到な段取りまで気を回す事がおろそかに成っているようで、この、英語教育は果たしてどれだけ効果をもたらすか判らないと思う。

 註:おろそかの最たるものは、ゆとり教育なる試みが、実施してみて結局、学力、知識、問題解決能力が落ちてしまっただけの敗残結果である。

 この度の英語力アップの手段が、単に学校授業に英語の教科を早めかつ増やすところを主体にしていくことであるならば、効果はおぼつかない。いま、日本社会にはびこったインチキ英語が如何に多いか、そしてそれはどうして成り立っているのかが検証され、一掃することを併わせて進めなければ多分目的を達することは出来ないと思う。

 公共の場で使われて来たインチキ英語の例を遡って拾ってみる。

 ☆ ビジネス・ガール(BG) は事務系の女性社員に使われた。英語圏の人に、売春婦の意味に受け取られてしまった。

 ☆ シルバーシート は、電車内でお年寄りに用意された座席の事で名前を付けられた。老人の特徴である白髪から連想して出来てしまった和製英語ではなかろうか。ビジネス・ホテルも、喫茶店のモーニングサービスも和製英語である。

 ☆ ファックス(Fax) はファクシミリの胆略表現であり、この手の手法で、正式な英語単語などを縮めて言う慣習が多い。

 昨日のTV番組で知ったのだが、ホテルに泊まった時、翌朝の希望する時刻に電話のコール音で起こしてもらう時に“モーニング・コール”という言葉を使ってホテルマンに依頼して置けば、日本ではその通りに成るが、英語圏或いは、英語を公用語として使う場でこれを所望すると、翌朝、ホテルの客室係が部屋を開けて、枕元まで訪問して起こしてくれる。

 こういう、日本人が勝手に日本人的発想で創った英語言葉があまりにも深く社会に浸透しているのだから、それに慣らされた(毒された)人をまず、何らかの手段で再教育しなければならない。それにはまず、テレビジョン・ラジオ・紙誌等で広く使っている表現を、真の英語表現で表わし、時間を掛けて浸透させる必要があると思う。

 更に公共の場に表示する案内板などの表現も正す、アナウンスも正しく発音するなど、耳眼に浴びせて徹底することが必要だ。こういうところまでやる、と褌(ふんどし)を〆て掛からなければ、日本人が真の英語を習得し、海外でも外人と互角に会話することは出来ない。今の状態は、知らぬうちに無理を押し通し、相手に解釈の苦労をさせ、或いは笑われて罷り通っているのだ。

 註: 外人と言う日本語は、我々はあくまで日本人の中で使っている日本語だから、これはもう、正すところまでは持って行けないだろう。あくまで英語単語は、正しく使う事が必要だと言う事。

 昔独身時代、赤坂山王神社に近いビルの中のオフィスに通っていた時、或る日昼休みに神社をブラついていたら、初老の外人夫婦に「これは何ですか?」と英語で質問されたのが、並べられているコモ被りの酒樽である。私はこれを中身の問題と捉えずに、こういうものが神社に在ることが不思議なのだろうと思って、「奉納されたものです」と答えたかった。さあ何と応えたか・・・“ It is gifts from Peaple”

 少し怪訝な顔をして返してきた。応答はそれきりだった。

 余話:

 大平洋戦争敗戦後、巷に娼婦が多く出現した。田村泰次郎が書いた『肉体の門』の映画に当時の娼婦の生態がよく描かれている。1964年製作では主人公ボルネオ・マヤ を野川由美子が演じ、1988年製作では、かたせ梨乃が演じてこの二本はどちらもTV放映されて観ている(外にもある)。

 この映画の中で現わされているわけでは無いが、夜の女たちの事は、実際に日本ではパンパンと呼ばれていて、これを自分も良く憶えている。まだガキの頃の周りの大人が使っていたと思うが、大人の噺に飛びつくませガキだったのだから、私は色々な言葉を吸収している。

 更に、オンリーという言葉。「あの女はオンリーだよ」とか、「あたいはネ、オンリーなんだから、近ずくんじゃないよ」などと男どもに啖呵を切る。進駐軍兵士や将校の日本人妻的存在になって、当時の餓えた同胞からは抜き出て、セレヴな生活をしていた女に着いた呼び名だった。多分、亜米利加さんのみ、オンリーで相手をしていた、と言う形態から出来た戦後の初頭に創られた和製英語だろうか。その彼女たちは、相手とは丁々発止と耳学問で覚えた英語で渡り合っていたと思う。どんな英語を使っていたのだろう。

 彼女たちの遣った英語も、可成特殊なものだっただろうか、バングリッシュと言われていた。

 これに倣って、その後の日本的英単語・用法が巷に雨後の竹の子みたいに繁って行ったのではないだろうか。アベノミクスもいいが、或いは従軍慰安婦の必要悪論も好いが、日本のグローバル化に英語教育重視を薦めたいのなら、此れ(和製英語の一掃)こそ、戦後レジームからの脱却の一翼としなければならない・・・なんちゃって。


2月9日(日ようび)  大雪


 深雪と言う名の女の子が小学5年生のころ居た。可愛くて、頭が良くて男子のあこがれの的だった。学芸会で若殿の役になった。ある日、本番前の練習で自分も何かの役で傍に居たが、「これ、三太夫」と言うセリフがあって、その声の美しさにビビッと来た。

 深雪と書いてみゆき。名前まで美しかった。

 以来自分は、昨日のように降り積もる雪の情景が好きになっていた。あの女の子の面影を残しているのだろうか?浪漫チックじゃあ〜りませんか。それにしてもよくも降ったり、脆弱な都市交通インフラは大きなダメージを受けた。息子はとうとう帰宅難民者となり、その路線の始発駅の動かない電車の中で一夜を過ごした。

 息子からの連絡によると、夕方仕事を終えて駅に行ったら「いつ電車が動くか判らない」と言う言い方でアナウンスしていたらしい。この言い方に因って駅の中や近場のファーストフード店は開通待ちの人で溢れたと言う。動かす気が無いのなら、何故はっきりと「動きません」と言わないのか。

 「運転見合わせ」と言う言い方は、先送りにする際の常套句になっているが、TVのテロップで多くの交通機関がその状態にさせられていた。運転規程があって、それに則った対応なのだろうが、利用者に配慮したものでなく運行側の都合が勝っている。

 首都直下型地震対策の一つに、交通インフラのダメージから如何に帰宅難民者を救えるかを、青写真で検討しているらしいが、この言葉自体が単なるスローガンに成っているだけで、具体的に何かが考案されるとはとても思えない。どれだけ民間商業施設を含めた即対応マニュアルができているか、出来ているとしたら周知されているかを考えて来たなら、昨日のようなトラブルで、駅員などが綺麗に誘導指示が出来るはずである。

 膨大な無駄という負のエネルギーの消失である。企業や組織の中には、いち早く自社社員職員の宿泊確保に先手を打って、我勝ちな対応を執らざるを得ない。息子は、近場のビジネス・ホテル、カプセル・ホテルにいろいろ問い合わせたらしいが全て満員で利用できなかった。

 彷徨っている間にも同輩が大勢いたと言う。政治家が綺麗ごとばかり言う事にいつも私は批判的であるのには一理あるんだ、と思っている。現場を知らずにものを言っているのだから。


2月10(月ようび)  建国の志


 結局都政は中央政権与党側と組みすることに為った。

 現状、国と東京都の間には波乱が生じない事になったのであって、同時に国政の進む道に大きな障害が取り払われたのだから、安倍狼の思惑がズンズンと、良い事も悪い事も日の目を得て実現されていくと思う。

 しかし、各候補が掲げたマニフェストが有って、舛添えさんの言ったことで、「待機児童ゼロを実現する」という約束一つをとってもスローガンであって、具体策が出来上がっているわけではないのだから、実現は海の物とも山の物とも判らない。

 矢張り、原発再稼働に拍車がかかり、2020年東京オリンピックに向けての大掛りなインフラ整備が進んで行き、利権享受陣営に明るい未来が開けていく事だろう。国民・都民が真に恩恵を受けるなんて如何ほどの物に成るかは、経済全体の浮揚が覚束ない今の状況から見れば、期待薄になると思う。



 年の初めから読み始めてまだ読み終わっていない『幕末史』(新潮文庫・半藤一利著)の、これまで読んできた内容の中に、ご一新後の中央政権のドタバタぶりがいろいろあった。しかし、紆余曲折を経て次第に中央集権の体裁が整っていく過程で、最も効力のあった施政は何かというと、幕藩時代の各藩の殿様を領主から平民に身分を格下げする事だったことが判る。この大意識改革を実現するにあたって玉座(天皇)のもと、三条実美が、「廃藩置県」の勅語を読み、その時列席していた旧藩の一部数十人のお殿様が「はあ〜」と平伏して従っている。

 註:領主から平民への格下げの際、一応華族制度を設け、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位を与えて、不満を緩衝化させている。

 この顛末を当時のイギリス公使顧問官のアーネスト サトウが日記に感想を述べている。

 【
  欧州でこんな大変革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つの勅論を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」
 】

 明治政府は、それまで政治に関わってこなかった封建士族が中心になって組織されたから、最初の5・6年は、混迷の最たるてんやわんやの状態であったようで、それでも目指すところだけは判っていた。欧米列強に干渉されない事と、維新の揺り戻し(内戦)を避ける事。国家を近代化する事。

 議論は百出しただろうが、信念一途で政府要職者は突き進んで行っただろう。その信念には高貴なもの、下衆なもの様々な意識があったと思うが、私欲が強く出ているものは少なかっただろうと想定する。出世欲や功名心はあっても、何か、人が剥き出しの野心で生きる事の圧倒感があって、当時の国家の舵取りをして行った人たちの息吹を強く感じて、私の心は昂ったのである。


2月11(火ようび)  依存症


 依存症と中毒症状は一緒の事だろうか? 人間関係での依存症では、中毒症状とは言い難いが、アルコール依存症とかゲーム依存症となると、中毒症状と置き換えてもいいと思う。

 もう少し突っ込んでみると・・・依存は心の傾き状態であって、中毒とはもう倒れている状態と言えるのではないかと思う。そして、依存と中毒とのつながりで観ると、中毒から依存への移行はチョッと言えなくて、その逆は起こると思う。中毒の方が程度は深刻な状態だと思う。

 PCの麻雀ゲームにいま、私は少し依存症の傾向にある。必ず日に数ゲームはこなしている。時間的には、これが不思議な事に、何もやることが思い浮かばない日は1時間を超えて続けて居ることがある。此の間、Diaryのテーマを捜していたり、夕餉のおかずを考えながら遣っている事もある。時には一心不乱に遣っている事もあるかもしれない。

 昔、パチンコ中毒になっていたことがある。自分が結核になる以前の噺で、21歳ころのほんの半年か1年弱の期間毎月、月半ばで貰った給料が無くなるほど酷い使い込みで狂っていた。当時の銀座には、並木通りにも、銀座の本通りにもパチンコ店があって、仕事が外回りの営業だったので、オフィスを出てから店に飛び込んで仕事を忘れるほど嵌っていた。よくクビに成らなかったと思う。

 アルコール依存症はどうだろうか。永い間毎日飲んでいたが、量はどうだっただろうか? しかし、下咽頭癌を患ったのだから、矢張り肉体的にダメージを与えた量だったのだ。そして、次の食道癌になるまでの1年半は、飲むには飲んだが、量は少なかった。

 やっぱ馬鹿な認識をしていた事がいけなかったんだろう。今は、週に2度ほどアコールを呑む状態に為りつつあるが、性根を据えるような心がけで控えておいた方が善いと思う。ワインも、ウィスキーの水割りも咽喉に刺激を与えて居るから、量は飲めない。しかし、咽喉に刺激は好くなかろう。以前ほど旨いと言う味では無くなっているのだが・・・

 人への依存症は無いようだ。精神的に甘チャンなところが昔からなかった。平日の昼間はほとんど独居老人状態である。人嫌いと言うより、人づきあいがめっきり煩わしく為っている。

 もしや、孤独依存 → 独居中毒に進んでいるのか? 但し、不安や寂しさはない。のんびりと、精神的には穏やかな気持ちで居る。何かに焦慮感でのめり込むような状態ではないのだから、深刻になる事もない。

 外から診てどうなのか? 客観視も遣って行きながら、現状維持でいこう。外は寒いし、年寄りの冷や水になってしまう様な行動をするつもりもない。


2月12(水ようび)  ソチ五輪


 ソチ五輪の競技が行われている時間はこちらの深夜だから、Live映像で観る事はなかなかできない。朝になって、まずは後追いでTVの朝の報道番組で一部を紹介し、昼が第二段で繰り返し、ご丁寧に駄目押しに夜のゴールデン・タイムの特集番組で総括的に紹介する。この時間になると、TV局の編集スタッフが綺麗に内容を編集してくれるから、昼間働いている人が寛ぎながら観るに重宝する。

 私は毎日家に居るから、この繰り返し映像がくどいと感じているだけでなく、普段楽しみにしていた番組が観れない事もあって、若干の不満がある。これはわたくし事なので腹立たしい事にはならない。だから、細君が一生懸命夜に観るのに付き合っているのだから、どうしても局側の編集画像の優劣が気になることがある。

 予選から始まって、次第に白熱するメダル獲得勝負に到る画像で、くりかえし(リピート)が多い時に、どこを切り取って映しているのか、時系列の流れに乗れないで解らなくなる。高い放映権を買って取りこんだ場面だから、存分に時間を掛けて流す都合があるだろうが、内容解説が、画面の中にテロップなどで表示して、色々な種類の表示がいっぱいになって、画面が煩わしくなるのだ。コマーシャルになると、スキッとそれらが取り払われているのが癪に障るくらいあざといのだ。

 全体と細部を同時に訴えるのだから、可成の構成技術が要ると思う、ここに優劣が生まれて、観やすさに差が出るのだ。スポーツを観ているんだか裏方の仕事を視てるんだか、何だかつまらない視聴者になっているようにも思う。

 実は、夜中の3時台の実況をNHKラジオ第一放送で聴いていて、ジャンプの高梨沙羅ちゃんがメダルを逃したことと、スノーボード男子ハーフパイプで、日本選手第一号二号のメダル獲得も伝えていたので、これを今夜のTVで見せられるのだ。

  
嬉しさも中くらいなり おらが五輪 (字余り)  


2月13(木ようび)  黒板


 TVで「今でしょ」の林修氏が、黒板に白墨(はくぼく)で字を書きながら日本語授業風に何やら解説したり、漫談家のケーシー高峰氏が黒板に水性ペンでいろいろ書き殴りながら、人を笑わせる。

 でも、実際の色を言えば、林修氏の黒板は緑版で、ケーシー高峰氏は白板(ホワイト・ボード)であるが、これらを「黒板」とは、これ如何に。私の小中学生の頃は正に黒板だった。果たして、色の黒くない黒板の夫々は、何故チャンとユニークな名前をつけていないのか?

 ネット検索で見ても、多くが「黒板」の名称のまま呼んでいるようで、敢えて言えば白板が「ホワイト・ボード」で通用していて、名前の統一が出来ていない。その黒板が明け方の夢に出てきた。

 学校の体育館の中のような造りの教室だった。壇上に黒板があり、自分が教師になっていて、その黒板の右側に、何やらの言葉を縦書きで2行書いて置いて授業を始めようとしたら、日頃から私が生徒からの受けが良くて、一部の生徒が、「先生、先生」と言いながら追いかけ回す。

 身に着けている衣類が何となく少なくて、チョッと恥ずかしい恰好をしているようで逃げ回っている。そのうち、或る女生徒の横にきて、机の上の教科書を覗くと、何やら、辞書のようでもあり、理科年表みたいに統計表が書かれた本だった。そして、その女性の名前は、芳賀さん−−−その人は、昔の中学時代のクラス・メイトだった。クラスの女生徒のトップクラスの成績で居る人だった。

 註:昼間本屋に行って、月刊誌『文藝春秋』を買ったが、その時、平積みになっていた『理科年表』を手に取って、パラパラと捲っている。

 次に、今度は男子生徒が私に何か言ってくる。何を言っているのか判らないが、その人は、私の鮎の師匠だった。ほかにも、時々夢の中だけで現れる荒木一郎のような、タレントのゴリさんのような野性味のある風貌の男性が出てきたり、登場人物がまるで四次元世界みたいに時間軸が好き勝手に回って人物を出してきた。

 嗚呼、面白かった−−− 目が醒めて、そんな気持ちになる不思議な夢だった。

 目が醒めてからの続きがある。私は、夢から目覚めた後のウツラウツラしている間に、今観たばかりの夢の未完結ストーリーを創り足していることがあるのだが、それを試みている。どんなものだったかと言うと・・・

 私の就学時代。授業中に黒板に字を書きながら進めて行って、最後になると見事にその授業の初めから最後までの内容を黒板全画面を使って見渡せる表現技術を持っていた先生が幾人か居た。そのうちの一人は、歴史科目の先生だったと思う。私の授業態度は、先生の話を聴き、黒板に書かれた文字を、時に自分流な言葉に直してノートに書いて行った。しかし、最後になると、そういう先生の場合には、ノートと黒板を見比べて一部分を書き直したり、補填して内容を有機的につなげて、それだけで十分に復習できた。

 そして、私も言ったことがあるかもしれないが、授業が終わって先生が黒板拭きで消そうとすると、ある生徒が「先生、消さないで下さい」と、叫んだりしたことがあった。それ程の文化遺産レベルの黒板表現だった ・・・

 夢の続きにそんなことを懐かしんで、夢で出てきた黒板をズームアップし、何やら私は其処に書き足していたのだ。



2月14(金ようび)  バレンタイン


 本日バレンタイン・デーに細君から、唯一のチョコレートを贈られた。去年は貰ったかどうだったか?

 かつて、現役時代に職場の女性から頂けていた頃は、流石に10個前後は貰っていた事は有った。勿論、妻子ある身の男性へのセレモニーであるから、義理チョコではあった。待てよ、一人くらいは、真に私に恋がれて居た娘は居なかったかどうか?

 独身時代は、まだ今ほど盛大な贈りごっこの風潮は無かったのが残念である。後に現われるのに得なものは、後出しジャンケンと出生である(そうでない時代もある)。

 30代の壮年期に勤めたアパレル会社には、服飾短大・大学出の麗しく聡明で芸術センスを持っているハイ・レベルな若き女性が多く同僚に居た。こういう中に置かれた男こそ、真の価値ある異性であるかどうかが如実に試される。

 彼女たちにも、異性の中に年齢のギャップを超えて価値ある男を良く見定めているようで、仕事上で救ってくれている男性は、はっきり言ってそれだけで慕われ、好意を抱かれている。

 注:ゴマを擂らないと、意地悪されるからなんて事で、表面上チヤホヤされることもある。

 この職場で、私の職務は、ユーザーの電算室の担当で、彼女たちが企画するニット製品の企画書をコンピューターで作成する際のフォローの仕事が中心になっていて、時にCOBOL言語で作表系のプログラムも作ってあげていた。基本的に甘いマスクに、ある程度以上の教養を持っている事を意識していたから、そういう、本質的好感度もあったと思う、けっこう若い女性たちとのコミュニケーションは良好だった。

 註:ヌケヌケとモテ男ぶりを書いたのにはわけがある。Diaryに嘘を書いてはいけないのだ。

 あのバレンタイン・チョコレートはなんだったのか、今でも思い出すたびに一人で吹き出してしまう憶い出があった・・・

 会社を辞めてしばらくしてからの女性から、いきなりチョコレートが送られてきた。何か手紙があったかどうかは忘れた。そのお返しにと、ホワイト・デー間近の頃電話を入れて、逢うことにした。何処だったか忘れたが、池袋に近い或る駅で落ち合せて、広い飲み屋さんに誘って一緒に料理とお酒を飲み、近況を話したりして時間をつぶした後、喫茶店に場所を移した。

 彼女の目に(期待していたのだが)潤むようなまなざしが無いのが些か気になりながらの会話だったが、やにわに彼女が、「今○○さんと交際しているんですが、どう思います?」と言ってきた。相談事の様である。何となく彼女が私に逢うまで想いを溜めていた心が萎んでしまったような雰囲気も観て取れた。

 こちらにも事と次第では、へっへっへッと、水を向けるつもりが無かったわけではないが、何故雰囲気が変わってしまったのか。そうだ、俺は今前歯が一本欠けていて、仮歯を補てんしてもらって居なかったので、とんまな顔を見せてしまったのだ。100年の恋も醒めてしまったのだ彼女は。ゆめゆめ顔の見栄えに注意を怠ってはいけない。

 ・・・こうして僕の初不倫は夢と消えてしまったのでした。チヤンチャン。


2月15(土ようび)  雪女


 AKBを退団した後、ソロ活動で活躍している板野友美嬢が雪に祟られて、予定されていたイヴェントが先週土曜と今日、続けて中止されたと言う。憑いていないと言うか−−− 雨女のたとえはあってもこれでは雪女になってしまう。

 そうだ、災い転じて福と為すと言うが、いっそ彼女のウリを「雪女」でアピールしたらどうか?このコンセプトが決まれば、後はイメージづくりの服飾ディレクターや専門家が、寄って集(たか)って素敵な雪女ヴァージョンを実現してくれるだろう? これまでに見たことも無い妖艶で魅惑的な雪女に成ることはマチガイナイ。

 註:雪に不便な生活を強いられている地方の人にも何とか好感をもたれる工夫も要。

 さて、冬ヴァージョンは出来た。他の季節はどうするか、どう変身するか? 対照的に晴女に徹すればよい。こちらは春ヴァージョン、夏ヴァージョン、秋ヴァージョンと、続けて使える。彼女自身もそれくらいの事はこなすタレント魂はあると思うのだが。

 俺って意外とこういう演出企画性に才能が有るかもしれない。しかし、哀しいかな、人脈なし、経験なし、知識なし・・・こういう世界で活躍している人たちの遣う業界用語なんか、殆ど知らないのだから単なる閃きでしかないのだが。

 でも、あっちゃん(前田敦子さん)に続いて、ともちんも爺の心をキュンとさせる可愛い女性である。以前、ランジェリー姿のともちんの等身大パネルやポスターを女性肌着売り場で見かけたころ、怪しまれない程度(?)に幾度かその傍を往き来したことがありました。


2月17日(月ようび)  雪なかりせば


 細君の高校時代からの友人が埼玉県の秩父に住んでいる。週末の大雪で山梨県甲府市に1メートルを超す大雪が降って、あの辺一体が陸の孤島と化している、と言うニュースが伝わったので、「電話して、そちらのようすはどうか?ってきいてみたら」と言った。昨夜連絡したら、「こっちも家から出られないほど降っているよ」という噺だった。

 町が自衛隊の出動を要請したそうだ。その人は介護関係の仕事をしているのだが、仕事に出られないでいると言う。ニュースに流れないが、今回の雪の影響は至る所に人の生活を不便にさせているようだ。

 昨夜のTVで、赤道直下インドネシアのある島に暮らす親子4人が文明国日本にホームステイした模様を放送したが、受け入れ先の主人が、彼らを雪国の温泉に連れて行って、お国では絶対体験出来ない貴重な雪国のレジャー体験をさせて、家族を感動させていた。同じ雪についても受け止め方が違う。

 雪の不思議がここに有ると思った。雪はロマンティックである。心を優しくさせるばかりでなくむしろ暖かい灯を心に与える事もある。文学作品にも雪は、人の人情をはぐくみ、勇気を与えくじけようとする心を励ます。秋田の『かまくら』の情景はほのぼのさせる。飛騨高山の合掌造り村落に降る雪に虹のような光をあてて、霊験な景色を浮かび上がらせる。

 マッチ売りの少女が、最後に空から降る雪の中に優しかったおばあちゃんの顔を見て、安らかに昇天していく俯瞰の光景は、読む者、(映像を)観る者の目に、哀しくもほのぼのとした感涙を浮かべさせる。吉幾三さんの『雪国』も、北島三郎さんの『風雪流れ旅』も、人に北への憧憬を限りなく強く誘う。

 私はもっと若かった頃、雪の降りしきる中を艱難困苦を敢えて味わいたくて、心掻きたてられ外を彷徨ったことがある。東村山のサナトリウム療養時代では、或る雪の降り積もる夜に、隣の療養所にも会社の上司の奥さんが入院している病室まで、ブッシュのけもの道を踏み分けて見舞ったことがある。阿佐ヶ谷に住んでいた独身時代には雪の降りしきる中、寒中釣りで阿佐ヶ谷駅に近い釣堀までヘラブナを釣りに行ったことがある。オーナーがびっくりして練炭七輪と燗酒を用意して呉れた顔が思い出される。水墨画で自分が画中の人になっている『雪中寂釣図』が、脳裏に描かれていた。

 今週水曜日ごろ、また雪が降る予想だと?・・・嫌だなあ


2月18日(火ようび)  健さん


 関東地方7チャンネル・TV東京がウィーク・デー(月〜木)の昼下がりの時間に映画を帯で流していて、家に居る日の大体は観ている。昨日と今日は東映映画『網走番外地シリーズ』を観た。

 はっきり言ってしまうと、監督の意向に因るものでないとすれば、あまり演技が巧いとは言えないのだが、男の狭義心や決意を固めた時の顔は、流石にドスが効いてストーリーの先を期待して心が躍る思いがする。「やはり、いい男だぜ」と、多くの男性観客を唸らせただろう。

 劇場放映中はほとんど観て居なかったようだ。石井輝男監督で1965年から67年までの3年間で10本製作されている。その後、石井監督の死去でほかの監督が引き継いで更に1968年から72年までで8本製作配給されている。ものすごいハイペースである。

 日本では当時、映画は娯楽の主流になっていたから、邦画製作会社は、撮影所、ロケ地をフル稼働し、飛び回って映画を作りまくっていた。この辺の業界現場の噺は、『蒲田行進曲』に面白く描かれている。更に自分が小学高学年の頃、『笛吹童子』(シリーズ3作) → 『紅孔雀』(シリーズ5作)と、当時の少年の血沸き肉踊らせるチャンバラ映画が週一で製作され、配給されている。驚くべき乱造である。当時の映画館入場料は、小学生70円 −−− この料金設定は小憎い。私の当時の小遣いが1日10円だから、これを全部映画館に吸い上げられていたのだ。

 小遣いはいつもだと、駄菓子屋に駆け込んでおでんを食ったり、お好み焼きを食ったり、或いは射幸心を煽ってこよりを巻いた籤(くじ)があり、これはA4くらいの厚紙に将棋の布陣に似せて真ん中に絵が書いてあって、両端に縦三列横10枚くらいがずらりと薄紙の帯を載せて雑魚寝しているような状態に貼りつけられているものを、1枚1円を払ってはがす。こよりを捲る(まくる)と、大体が50銭、最高は、幾らだったか? 多分20円くらいか? そうでないと、お店の儲けが取れない。

 スカばかり曳くと、10円が5円になってしまって、心の中で半べそをかいた事もある。これをこの映画の時だけ、何週間も禁欲して映画館に行った。毎回が、どうしても次も観たくなるように出来ている。

 私の映画中毒は、この時だけのもので終わったが、流石にその後極道シリーズや寅さんシリーズ、極妻シリーズがどれ程秀作揃いで面白くとも、時代は変わってしまって居た。健さんも次第にシリアス物の映画に役替えしていった。

 健さんと言えば憶い出す人が居た。亜米利加TV映画配給会社に勤めていた頃、高倉健ならぬ、片倉健という、私より2・3歳年下の同僚が居た。名前がかすった事に悔やんでいた。タイプも正反対、精悍な感じの逆だった。女性にはよくモテた。

 番外地シリーズは明日も続く。


2月20日(木ようび)  真央ちゃん


 ソチ五輪の競技の結果は、良いニュースと悪いニュースがない交ぜで伝わってくる。今朝未明のニュースは、悪いニュースだった。浅田真央ちゃんが、ショート・プログラムで、16位で終えている。30人滑っての結果だから、本人が国際試合に出始めたころからの通算で、恐らく最悪もしくはそれに近い結果ではないだろうか。まして、この数年間だけで視ても、本人にはよもやの結果だと思う。

 フリー・スタイルに、このスコアが加算されて最終結果になるのだから、本人のモチベーションはかなりダウンしてしまったと思う。どう贔屓目に見てもメダルは取れないと思う。と言うのも、この女子フィギュアーの採点には審査員の恣意性が入っていると考えられることもあって、ロシアの15歳の少女と韓国のキム・ヨナさんと、あとは数人の外国人花形選手の採点におまけが付くかもしれないと競技前から感じていたのだ。

 まさかの、政治的なロビー干渉が有ったかもしれない。勿論憶測なのだが、審査員の採点による優劣評価には、審査員個人の嗜好や各選手個人に対する好みを全く排除して冷静で一点の非も無い採点をさせることは難しいと思うのだ。

 「巧けりゃいいのよ」とは言えるのだが、要は今回の真央ちゃんの演技に、始まるまでの周囲の期待が大きすぎて、本人には初めからプレッシャーが過重に掛かって、心をのびのびとさせて滑ることが出来なかったかも知れない。つまり、重圧。その最たる課題が、女の闘い−−−キム・ヨナ選手の動向を視野に入れながら演技したことが、たぶんそれ程気丈夫でもなかった(と思う)彼女の心に意識しすぎるほど意識したのが災いとなって現われた。

 独り内なる心に燃やす闘志ではなく、日本中がその熱き闘いに熱視線を注いだ。

 −−−確かにそこまでは、誰もが考えていた事だと思う。更に在るのは ・・・

 石川遼君は、いつの間にか凡才ゴルファーになってしまった。その理由は、体調に何らかの異変があるかもしれないが、やはり技術的峠を越えてしまったのが理由ではないだろうか。そして、その技術は、心の中に在る或るもの、例えばハングリー精神とか、その競技が好きで好きでたまらないという魂のたぎりみたいなものからプレーするという、アグレッシヴな向き合い方から進歩するのだから。

 然るに。

 悪いのは、名が売れて知名度が上がるとほって置かないのが、今の日本のマス・メディアと、色々な企業がイメージ便乗でコマーシャルやイベントに取り込む貪欲な商業至上主義である。

 恐らく、CM出演一本でゴルフ・トーナメント一回の優勝賞金となんら変わらない収入が得られる。多分たった一日で稼げる金であれば、本人にとっても飛びつかない手は無い。斯くして、これに染まり切っていく末に、本業は無残な結果に終わっていく。真央ちゃんも最近はTVコマーシャルでよく露出しているじゃないか。多分、今シーズンを以ってピークが過ぎるだろう。

 知名度が、致命傷となった → The End (おちめ−)だ ・・・ 『然るに』なんて書いちゃって、肩に力が入ってしまったから、修正しました。


2月21日(金ようび)  劣等国家考


 日本人庶民の美しき心がけのひとつは、人が不幸になった時に援助の手や気持ちを差し向ける事である。色々な状況にその善意は向けられるが、今回の甲信地方の豪雪でも、多くの過疎地特に高齢者の難渋は、大変なものだったが、隣近所や地域の生活を支える商店・スーパーなどの少しでも行動できる人がこの良き心がけで動いた。

 庶民の手が差し伸べるのを当たり前で当然みたいな思いをしていて、安倍狼がほとんど関心を持たず、彼が今盛んに邁進している独裁者的志向を振り返ることもしないで、災難対応を怠っていた事が明白になった。

 側近・同志の中から即にこれを忠告したり注進したりする人は居なかったのだから、やはり安倍狼がいま日本の宰相であることが、如何に日本が一等国・文明国としての姿を劣化させているか如実に示したのだ。私は諸外国の評価を想定して、恥ずかしいのだ。

 主たる原因は、事の処置を官僚に任せて、自分たちが真の政治家として何をしなければならないかを多くの国政政治家が判っていない、乃至責任を果たしていないからだと思う。TPPだ、領土問題だ、拉致問題だ、その他多くの事が政治で解決着ける事が果たせないのもそのせいなのだ。綺麗ごとと、失言のごっちゃな発言ばかりしている。国会審議や質疑でも不毛の議論をしているように見える。

 そして、そういうことになぜか精魂疲れているのか、気が回らないのか、或る地方で天災被害が出ても気が及ばないのだ。国益とは何かもちっとも判っていないみたいだ。

 国家官僚は最早、馬鹿な政治家が派手に露出してくれて、その結果、一部の特権階級に賞賛されて得意になったり、多くの庶民に批判されたりして慌てふためいている姿を見て、心の底で喜んでいるに違いない・・・なぜに? 必然的に自分たちの日頃の仕事が政治家の干渉無しで動ける状況に為るからだ。あの事案解決のために、こういう組織を造った、金が掛かった、と。政治家が用意してくれた骨抜きの法律・法令(恣意的解釈可能)がマニュアルとしてチャンと用意されているし。

 この国は庶民の美徳と困苦に打たれ強い精神力で持っていた国体が次第に劣化して、三流国に堕ちて行くとしか思えない。



 浅田真央ちゃん。遂に自分の心から重石を外し、会心の滑りを見せたことに真の誉れを感じたかのように、清々しい涙と笑顔を見せていた。人生最大の感動的演技を叶えた事への充実感は、これからの生涯に最大の物として残ると思う。こういう人が人間として高貴なのだ。


2月23日(日ようび)  魚


 嬉しいことがある。冷凍庫に金目鯛の切り身と、大振りの牡蠣と、鮭のはらす(脂身部分)がキープされている。更に細君が久しぶりに昨日の夕餉に食べて喜んでいた筋子がチルドにまだ残っているし、今夜はブイヤベースを細君が作るという事で魚介類のセットが用意されている。海産物がいっぱい。

 昨日、流山市の流鉄平和台駅近くに在る角上魚類という、鮮魚専門店で買い占めたものである。〆て4000円強也、私が3000円の負担をして、細君に好きなものを買わせた。2月も下旬となって、小遣い残が可也あったので、外食で消費するよりもより有効に使う方が善いから、こうなった。魚料理は、細君も私も得意な方だから。

 買い物の中に、ゴボウ入りと、タコ入りの棒状のさつま揚げまで在った。チンで温めて、生姜醤油で食べて旨い。1本各100円也。このへんの選択志向が細君らしい。之も夕餉に出た。後は、豚肉のストックがあったので、回鍋肉。

 この角上(かくじょう)魚類と言う店は、謳いに山形のどこぞの漁港直送との事だが、流石に中間マージンが少ないか、無いかの利点で安い。そして新鮮である。鮪もあるし、鰤もあるし、生牡蠣もあるし、鰈も蛸もうまずらハギの大きいのも、近海青物・・・兎に角並の大型スーパーがいろいろかき集めても揃えきれないほど、種類豊富に揃えている。家からは、車で10分くらいの場所であるのに、めったに行っていなかったのが不思議なくらいだった。この前は、正月用のお節材料を揃えるのに行っている。

 店内には大勢の人が買いに来て賑わっていたが、通路が広いから、ストレスもなく品選びが出来る。これは、並べられた魚にもきっと良い事に違いないと思ってしまう。客は、こういうゆったりとした気分で品が選べると、ついもう一品そして之も、とお店のレヂにお金を落としていくだろう。

 一旦、駐車しておいた車に買った物を置いてきて、隣のDenny’sで昼食をとった。最後に細君だけ更に隣のヨーカドーで買い物をして、私は車の中で休憩していた。ヨーカドーでの買い物に一番金を使っていなかったのに、このお店の駐車場を利用させてもらっている。

 都市近郊の新興大型マンション群には、昔でいうところの下駄ばきマンション張りに、地上1階フロアや地下フロアに大型スーパーが必ず付随している。新興という事は、それまでは農地だったところであるから、区画整理後に地ならしして置いて何年かしてから建ち並ぶ。町中に在った在来の小売店を蹴散らす、という事が無いから良い事ではあるが、並ぶ食材は、画一的であり、価格を統制しやすい分、幾らか割高感がある。

 こういう、大量消費スポットでは、「今日は秋刀魚が安いよ〜」などの掛け声に釣られてその晩のそのマンションの過半の家庭で秋刀魚が胃袋に収まる−−− 何だか餌を食って居る気になってくる。


2月24日(月ようび)  樹木希林さん

 明け方4時から、NHKラジオ深夜便の『天野祐吉の隠居大学』を聴いていた。コラムニスト 天野祐吉さんが女優 樹木希林さんをゲストに迎えての座談だった。日常の俗っぽさを脱ぎ捨てた二人から発する言葉は、隠居世界に居てなお社会にきちっと対峙し、珠玉の感性で世を見つめ生き生きと生きている姿を魅せてくれた。

 註:平成25年3月25日放送のリピート番組だった。

 これまでも幾度となくこの番組を聴いていたが、天野祐吉さんの今回のゲストに対する控え方は凄いものが有って常に樹木希林さんの話をしっかり受け止め感心したり、自身の内なる知性が奮い起こされた如くに話題を膨らませていた。

 話の中で様々な二人の私生活が披露されていくのだが、天野祐吉さんが、40代の奥様と仲良くやっている様子を訊くと、すかさず「隠居大学だものね」などと即妙に感心してみせる。この場の中に居てこそ一言で言い得る言葉だ。隠居生活万歳なのだ。こういうものの言い方 −−− 余計な説明の言葉も、ややこしい前後のつながりに付ける修辞も削いだ、それでいて噺が宙に行かないで地にしっかり着いた言葉の表現 −−− が出来る樹木希林さんは、正に話芸秀逸な人である。

 彼女は、特にFIJIFILMの年賀状印刷CMに必ず出演し、毎年笑いを誘う好演を魅せてくれる(「美しくない人にはそれなりに」と言われて、納得するとぼけた味わい)から、演技に於いても、女にして怪優と呼ぶことが出来る女優さんであるのだが、演技に勝るとも劣らないラジオ向けの話芸達者である。

 ラジオで出た話ではないのだが、実は以前週刊新潮の連載随筆『大遺言状』の中で、森繁久彌さんから樹木希林さんに対するこんな言葉が発せられた。「樹木希林は俺の芸を盗んで居る」


 久世光彦さんが最晩年の森繁久彌さんのお宅に伺って、彼の語るに合わせて聴き取り取材したものである。大森繁が彼女を評する最大賛辞であった。樹木希林さんは20歳直後の頃、TBSテレビ『七人の孫』のドラマに後から加わって、森繁久彌さんと共演して以来の永い付き合いである。その間の二人の触れ合いの中で、彼女のユーモア演技が確かに森繁流免許皆伝の技を付けた事が判る。何かのCMで、酒を飲みほした猪口をぱくりと口に含んでシラッとした顔を見せるものが有ったが、正に森繁久彌さんのお惚け芸を拡張したものだった。

 あの「ロツクンロール!」を締めくくりで発する内田裕也さんとは、仲の良い別居夫婦である事もうかがわせるハワイ旅行の噺もあった。あのご夫婦の関係は例えて言えば地球と月の関係ではないかと思う。月から見て地球は、裏表全貌を眺められるが、地球から見て月は、常に一方側の姿しか観られない。この状況こそがお二人の絶妙なバランスを採った夫婦関係ではないだろうか。

 どちらが月でどちらが地球かなどの評定は無意味であって、天体の引力関係に依っているのだから、ニュートンは愚か、アインシュタインもびっくりなのである。

 もうひとつ、自分も長年不思議に思っていた芸名を改名した謎が解けたのは収穫だった。

 初めの芸名は悠木 千帆(ゆうき ちほ)だったが、今のテレビ朝日(最終社名)に為る前の、『日本教育テレビ』(NETテレビ)が社名変更する際のチャリティーで、幾人かのタレントさんが様々なグッズを出典したのだが、彼女は「特に売る物もないから」という事で芸名を出典したらしい。この噺も番組の中で紹介された。オークション形式で値が付けられ、最後になって司会者が「さあ、20000円・二万円・・・もうひと声ないか」と会場を促したら「20200円」の声が出て、この金額で落札されたそうだ。(ウィキペデアで調べると1974年の事だ)

 私の身体は休んでいて、脳はこの放送をしっかり聴いていた。


2月25日(火ようび)  晴読行動

 もう少しの辛抱で、家に閉じこもりの生活から少しだけでも解放されそうである。週間天気予報でも、今日あたりから最高気温が14℃から17℃くらいの寒さの緩んだ好天が続くようだ。

 日ごろから、閉じこもりで筋肉や筋がこわばって身動きがしんどくなることを心配しているのだから、晴れたら、少しでも外に出て歩く時間を増やしたい。今までは、意を決してα 娘のどちらか(カメラ)を持って外の景色とか、公園にでも行って、人の活動などを撮ろうと勇みたいのだが、肝心の光景が乏しいから、外出を諦めて仕舞う。精々が惣菜の買い出しに20分ほどの外出を果たすのみで終わる。

 日中人口が極端に少なくなる地域でもないが、矢張り今の季節では、どの家の人も家の中に籠りがちのようだ。昔と違って、学校が終わって帰宅した児童も、鞄を部屋に放り投げてすぐ外に出て、友達同士と遊ぶ生活もしていないから、昼下がりの街の中は到って静かである。

 駅近にスボーツヂムが在って、10年ほど前まではよく通っていて、トレーニングしたりエアロビクスした後は汗を流し、サウナに入ってさっぱり出来ていたが、腹にチューブを挿した躰に成ってしまったから、最早それも適う事は難しくなっている。恥ずかしいとかどうかではなく、人の目に目障りになるだろうし、それなりのチューブ収納に面倒が掛かるのだ。

 『幕末史』も読み終えたし、いよいよ、買って置いてある『文藝春秋』の読みかけの部分以降をじっくり再開して、目が疲れたら外に出る時間も摂って行くことにしても善かろう。

 晴耕雨読などときっちり決めなくともいい。晴読行動。


2月27日(木ようび)  奇跡的

 私は、これまで幾度となくこのDiaryに、患ってきた下咽頭癌と食道癌の噺を書いているが、昨日明け方もいつものように、NHKラジオの『ラジオ深夜便』の午前4時から始まるインタビュー番組を聴いて、今の身体の状態が奇跡に近い最小限の後遺症で済んでいる事が判って驚いた。

 インタビュー番組の副題は、「医者が”がん”になってわかったこと」で、近畿大学学長・医師 塩ア 均さんが自身の胃癌手術を受けた時の当時(確か、8年くらい前だったか?)の医療事情などを中心にした、癌の手術経験者の立場から色々な癌治療の難しさや、経後の体調などについて語った。

 塩ア氏は、本来食道癌が専門である。自身が近畿大学医学部付属病院の院長になって2年目の時に、癌に罹っている事が判って、あまり生存率の良くない或いは後遺症の出る確率も高い状況にまで進行しているのを敢えて自身の身体を実験台と覚悟して、抗がん剤+放射線治療と、胃癌の手術を経て復帰を果たした。

 その噺の中に出たのだが、一般的には食道癌手術の問題点は、嚥下機能の低下がよく見られる事で、誤嚥の危機を避けるために声帯を切除することが多かったと言う。

 私は、これを避けることが出来た。最初の下咽頭癌手術の際にも医師団は、声帯を残すか切除するかにかなり慎重なカンファレンス(医師団の確認や合議)が執られたと術前に聞かされていた。

 下咽頭癌手術後に声の出には異常が出なかったが、退院後に誤嚥危機が良くあった。これは今思うと、可成タイトロープな日常生活を続けていた事を後で理解した。担当医に通院の度訴えたが取り合って貰えなかった。そして、食道癌の発覚である。私の心は怒り狂っていたが、よくぞ押さえて、耳鼻科診療には主治医を変えて貰い新たな食道癌手術を正に粛々とした心で迎え入れた。そして・・・

 ものすごいかすれ声になっていた。咽喉の近辺には、嚥下のための筋肉や神経組織が緻密に入り組んでいて、更に声帯の動きや発音をコントロールする組織があるから、仮にそれを直接いじらなくとも発声にも影響がでる。

 入院中にリハビリが始まって、嚥下訓練だけでなく発声回復リハビリも受けた。初期には、音階がわずかに3音階(ドレミ)しか出なかった。それも自分では、音を上げたのか下げたのかがよく確認できないくらい曖昧な発声だった。入院中や退院後の暫くの期間も、見舞いの人や電話で話をした人にも、そのかすれ声のまま接していたのだが、自分の気付かないうちに、このかすれ声は無くなり、音の高低の幅を広げて不自然さの無い噺が出来るようになっていて、相手の人から、「声が出るようになったね」と驚かれた。

 本人にそのあたりの変化が気付いていない事で改めてびっくりした。私の方は、以前にもまして、嚥下に苦心していて、その事だけに気が行っていたのだと思う。

 嚥下快復は、まだ道途中である。鼻の奥に食べた物が詰まって咳き込む傾向がある。食道狭窄拡張術も幾度となく受けて、これはいくらか効果が出ているのだが、要するにコックンと飲み下すときに、全部が食道に降りて行かないのだ。やはり、咽喉の受けたダメージは大きい。

 しかし、食道癌手術が済んで1年経ってみて、当初こそ、水だけしか入らなかったものが今では、健常者が食べる物のほとんどを量こそ少ないが、食べている。更に味わいもごく自然の美味さで感じる事も戻っている。初めの頃は、何でも粉っぽく感じたのだが。

 経腸栄養3対経口栄養が1の割合で栄養を摂って生きている。初めの頃の焦りの苛立ちは無くなっている。よく、障害を受けた時に、何を失ったかではなく何が残っているかを数えろとは言うが、そんな切羽詰まった心がけにならなくとも、あるがままに受け止めている。心穏やかな心理で居るのだから。

 但し、早く暖かくなって呉れないだろうか。からだを動かさない分、歩くと筋が張って歩行の動きが緩慢になって仕舞いがちである。そして、あんまり気にはして行かないようにしているが、痰が多く出る。それも、時に梅干し色に色が付いている事が多い。耳鼻科医師は、肺炎気味な状態になっているかもしれない、とケロッと答えたのだが、何も処置して呉れないのだから仕方がない、浅田飴を日に2粒舐めたり、うがいくすりを稀薄にしてうがいして居るのみでほっといている。


2月28日(金ようび)  雁の寺

 水上勉さんの小説に『雁の寺』があり、映画化されている。私の観たのは、1962年製作大映映画だった。三島雅夫さんが寺の住職、若尾文子さんがその愛人になって、爛れた愛欲の日々を送っているのを、其の寺で下僕のように働かされている小坊主が毎日見せつけられて屈辱の日を過ごしていた。

 小坊主は、二人が同衾している寝室の脇の土間を天秤棒に肥桶を担いでゆっさゆっさゆすりながら歩いて意地悪したり、住職が用事を言いつける時は、鳴子を鳴らされて自分の居場所から呼びつけられる。些細な事で叱られる。

 屈辱は憎悪に歪んで増幅され、ついに小坊主は住職を殺して、どこかに隠す。法事を依頼しても来てくれないので、檀家(又は別の寺の住職?)が寺に行ってみると、小坊主も出奔していて誰もいない。

 部屋の襖絵に描かれていた雁が刃物状なもので切り取られていた。そして、その凄まじく爆発的な憎しみは、絵画に美しく描かれた襖絵の雁にまで及んでいた事を知ったのである。

 些細な設定は曖昧かもしれないが、そんな内容の映画だった。

 或る物や絵を壊したり破ったりする者の心は歪んでいる。その歪みを生む原因は、本人の正常な心を押しつぶすほどの重圧であると思うのだが、人の心には、ある程度の跳ね返す力が働くはずである。その心の強靭さには個人差があると同時に時代の環境も大いなるきっかけとしての関わりを持つと思う。この度、公営図書館で被害を受けたアンネ・フランク関連本は、如何なる要因で、憎悪の対象になってしまったのか?

 被害状況の広域性を考えると、当初の犯罪者の物だけでなく、便乗犯にまで及んだものを想定させる。その便乗犯は、面白半分と言うだけの動機ではなく、矢張り何かへの歪んだ復讐心を心に抱いていたのかもしれない。今回の被害対象がナチスに対してでなくアンネとなっている事が哀しい。極右思想などと言うコチコチな思想であると考える事よりも、弱き者へと向けられた結果であるような気がする。

 水上勉さんはこの『雁の寺』の中に、自身の実際の体験で心の中に棲みついてしまった歪んだ気持に対し、意趣返しの思いで、これを書いたのではないかと、或る人は解説している。



 此処から先の文章は、後で書き足したものである。

 と言うのは、『雁の寺』の映画は、1992年にBS−TVで放映され、当時の職場の誰かに頼んで録画してもらったものを所持していた。だから、不確実な記憶の儘で書く必要は無かったのだが、敢えて試みた。そしてその後でビデオを見直したのだ。記憶に対するチャレンジ−−−どれ程曖昧なものであったか判明したかった。そうでないと、あいまいさが打ち消えてしまうと思ったから。後に残る記憶は、誤解から来るもののほかに、どんな工程でダイジェスト版を脳で生成するものかも判るかと思ったのだ。

 先ず、住職が小坊主を呼ぶのに使った手口は、鳴子ではなく右手首を縄で縛って、その縄を寝所まで引いて置いて、用があると、ぐいぐいと引っ張っていた。(鳴子で知らせる手法は、では何から得たのたのだろう?)

 雁の襖絵は、幾枚もあって、様々な雁の生態が描かれていて、その中で親子雁の構図の部分だけが破られていた。小坊主は、幼いころ養母から捨て子だったことを聞かされて、「この事は誰にも言ってはならない秘密にしておくのだよ」と言われていたが、住職に知られる事となってどす黒い殺意を抱き、同時に母子雁の絵柄に対し嫌悪を持って起こした、抹殺行為であった。

 そして、その破られたものを見つけたのが住職の愛人だった。本堂で行われた葬儀の時の小坊主の態度の不自然さからたどり着いた。この愛人は、小坊主の頑なな拒絶が、不憫な幼少を体験していることから来ているのが判って居て、常に気にかけて愛情を注いでいたのだ。また、小坊主は、最後まで出奔していない。

 −−− つまり、細かいところで話を都合よく脚色したのが、後に残る記憶と言えるのではなかろうか。