TV受像機は、いよいよ画面が大型化していき、劇場用に製作された作品のDVD化メディア等をプレイヤーに入れることで、自宅でそのまま(劇場)体験することに匹敵するものを得ることが出来る。

 家を新築する時、富める人・ローンの人共々、すぺての人の中には、ホームシアターを企画することも夢見て、儚くも消えたかもしれないし、立派に実現できた人もいるだろう。

 勿論、家のミニ空間でちびちびと酒か安ウィスキーでも時々喉に流し込みながら、せいぜいが21インチの画面に映して、幾度目かのリバイバルで映画を観るのも悪くは無い時間である。そんな自分には、こういう時間も時に至福なひと時となる。

 時の流れから離れて体験する生活−−−そんな事を意識しようじゃないか。寒い日・雨の降る日・当ても持たない数時間を得たことに気付いた時に、そんな時間が得られると思う。

 かつて地上波放映で膨大な数の劇場映画がTVに映されたが珠玉と言える映画が50本ほど、収録してあって時々観ている。日本映画も洋画も色々録った。ひと財産ともいえる。宮崎勤君には数の上では適いませんが極めて文芸的娯楽的な作品ばかりであって、淫靡なものは在りません。

 最近、映像の露出の仕方が変わってきているように感ずる。一昔前位までは、往年の映画は、一部のものを除いて、バンバンTV地上波に乗せられて広く一般的に観ることができた。だからその場で見ることに留まらずに収録して後にリバイバル放映のし放題だった。

 洋画に『砂の惑星』というのがある。 原題“DUNE” これがものすごい映画で、観終わってから、人生を一回分体験してきたみたいな思いになる。最低5回は観賞している。あるいは『白昼の死角』−−これは高木淋光さんの『黄金の死角』という連載推理小説の映画化だったがキャストがすごい。主役級男優人が後から後から現われては、主人公の天才的知能に騙されて破滅したりしていく。個人がここまで世を翻弄させて生きていけた古き良き(?)日本人の心情を汲み取れて、とても懐かしい思いに満たされていく映画だった。

 自分が最後に勤務していた会社にいた時、後からオーナーとなった経営者はヒョッとして、この映画の主人公の生き方を参考にしていたのではなかったろうか?と思いながら幾度も観る。この経営者が或る経済犯罪で懲役10余年を食らって今頃何処かの刑務所で服役しているはずだ。鳩山さん、「友達の友達がアルカイダ」なんてちっとも迫力ありません。私の勤務した会社の経営者は今、受刑者です。間柄に徹底的な差があります。

 気を入れ替えて本題に戻って行きますが、第二段として後日に続くものとします。最近観た二つの劇場映画の話を書き綴っていく予定です。出来れば少し続けて、昔の日本映画黄金時代を体験した自伝的映画論まで展開して行きます。   続く。

   
 


Theatre (2)

 一般公開に先駆けて映画の試写会を観た。独行。早いものでその日から今は多分10日は経っている。劇場は渋谷、久しぶりだぜ若者の町。ステップを踏むように試写会場に向ったがやがて・・・場所が良く判らない。入場チケットのハガキにプリントされて地図まで書かれているのだが、ビル内のだいぶ上の階にあったという事は場所が特定できた所で判った事で、それまでその下でうろうろしていて、すぐにはIN出来なかった。実はビルの隣にある店頭販売のお店の女性に地図を見せながら所在を尋ねたら、なんと道路の向こう側にあるような事をいう。それは在りえない。

 そのビルの一階部分は大手、カメラ・家電・PCなどの量販店になっているが、そのことを何故か謳ってくれていない。NHKの発行したチケットじゃ在るまいし。結局上を見上げてやっと、このビルが複合商業ビルであって、収容施設・会社名の看板の中から見つけてIN出来た。

 映画のタイトルは「エクスクロス」 この作品に対する予備知識は、怪奇恐怖映画であると言うことだけ。あんまりこういう映画はみたくないのだが、せっかく人様から頂いたものなのでいくらかは義務感、責任感そして、「得るものは得てこよう」という好奇心が足を向わせたというわけ。

 上映に先立ち、監督と主演女優さんが緞帳(カーテン)の前に立って、司会の女性との掛け合いで観客に挨拶した。女優さんは鈴木亜美さん。おッ、最近の街往く女性ってやっぱ綺麗になっているんだ、という逆説感想を持った。おや、ここまでの話も上映に先立つ前宣伝の数々と同じで時間を食ってしまった。

 この映画評は後にして、もうひとつ細君を伴って観た映画を先に書いておくと、「ALWAYS 続・三丁目の夕日」である。先日11月18日(日)、場所は有楽町マリオン内の何とか劇場。昼前に着いて入場招待券−−−これも友達に2枚もらったもの−−−を座席指定入場券に取り替える時、30分後の上映にはもう前の列3列内くらいしかないので次の回にした。3時45分。

 キャーです、約4時間の待ち時間。色々やることやりました。まず、お店の宣伝しちゃうけど、有楽町駅から新橋駅に高架線路が続いている直下を並行に通って、みゆき通り(帝国ホテル方面)にぶつかっていく狭い道側にある「ペッパーランチ」の鉄板焼はすごい。自分はハンバーグと鶏肉盛り付けもの、細君は正調ハンバーグステーキ(目玉焼き乗せ)。

 ジュー・ジューと鉄板がすごい熱でソースを跳ね上げている。半生(ナマ)の鶏肉をひっくり返しながら焼きが出来上がっていくのだ。旨い。自分に悪い癖があって、周りの客の食事を覗き込む。すごいね。牛スライスステーキの肉なんか生だぜ。チョーレア。これを鉄板の熱の持ちが良くて、ミディアムの上くらいまでは焼けそうだ。つまり一皿でレアから始めて、色々の火の通りの違ったステーキが食べられる。この店は偽装なんかしなくてもきっと勝って行くと思う。

 おや、車道を駆けるは、野口みずきさんじゃありませんか。サングラスをして、観戦している群衆の旗に熱烈応援されている様子。

 少し時間をもどして、食事場所を捜している時、スタジアム・コートを着ている関係者風が2.3人立ち話をして居る。よく視ると何か地図みたいなものが書かれた紙を持っている。


 「何かやっているんですか?」と訊くと、12時半過ぎくらいにその先の日比谷通りを先頭が通ると言う。−−− そーなんです。当日は東京国際女子マラソンが開催される事を思いだしました。そんなわけで食事が済んで、丁度日比谷公園の反対側に、いまや遅しと待っている応援の人に我々も混じったわけ。

 私は大体が人に向けてカメラを撮ろうとする時、適えられる限り相手に声をかけてからシャッターを押します。

 「そこの道路を駆ける人、写真撮っていいですかァ」て聞いたかって? ハイ、いえ掛けないで撮りました。後で知ったけど、このゼッケン31は野口みすずさんだったのは後で判ったのです。大会優勝者です。この位置で後に数人の選手が着いていますが先頭を走っていました。50人くらい、散発的に通過する選手を見終わって、1時半過ぎ位か、細君がUNIQLOに行きたいと言ったので、銀座通りに出ました。私は中に入らないで、銀ブラ族の生態観測をすることにしてカメラに幾枚か収めました。
 ポカポカとした天気ですが、まだ12月に入っていないから『小春日和』と言ってはいけないはずです。気分はのほほん、歩行者天国の車道の真ん中で椅子にかけたまま、周りを見回して、ゆったりとした時間を過ごします。腹もまだ先ほど食した昼食を胃袋辺りで味を噛みしめているんだろうか、いい気持が全身を満たしている。

 美人も居ればそれなりの人も来る。銀座にはこれを身に着けて来てはいけない服装的な掟があります。女性で言えば、ミニスカート−−−これはウソです、推奨の服装にして下さい。JK(女子高生)のルーズソックス姿はいけないらしい。いまだこの姿を自分は目撃していない。男は、これは自分が思いついたのですが、ジャージ姿。

 おまわりさんが取り締まっているのか知らん? 兎に角、この二種類のセンスは銀座ではご法度だ。よきかな天下の銀座通り。

 映画がなかなか始まらない。銀座で過ごしたのは、これだけではないのだが、だってまだ時間が余っていたんだから。一旦ここで休憩させて頂く。次回は、ストンと、Theaterに突入するつもり。つまり−−−続く。

   


Theatre (3)

 『エクスクロス』・『ALWAYS 続・三丁目の夕日』の観賞はいくらか日を空けているが、これまでの自分の体験からすると、立て続けのものという印象だった。この二つの映画のストーリーには共通性が殆ど無い。だから、観終わってからの感想も全く違うのだが、何も受け手側からの感想だけを言うのではなく、私は映画製作者側がどんな意気を込めて作ったのか、製作意図にどんなことが反映されているのか、と言うことを分析したいと思う。それを内包した感想を書いて行きたいと思う。

 『エクスクロス』は、深作健太氏監督作品だが、おや、(父)親は、深作欣司氏ではないかと直感した。そして、「直感は誤またない」の格言通りだった。待てよ、直感と言うよりもこれでは「連想は誤またない」に近いかも。

 さて、この作品は彼の何作目のものかは知らないが、このことを追求しないで置いたまま、製作会議・製作現場乃至事前の社会現象の調査分析などにどんな意図を持ったのかを考えていって、先ずは大枠と言うものを創り上げてみた。

 それは、現代若者の関わる諸々の生活要素を多く含んだ作品に仕上げた事をあげたい。この作品には原作があって、それは上甲宣之原作による『そのケータイはXX(エクスクロス)で』というミステリー小説です。その原作をどのように解釈し、どれだけの忠実度の度合いで映画に現したのかは、製作監督と原作者の了解の上で成り立てばよいと思う。この作品のコアは、現代の若者の必須のアイテムである携帯電話をキーワードに据えて作られて居る事で成り立った上で、プロット(映画の脚本や構成)を映画制作者が作品に仕上げて行っている、と考えられる。

 どの部分が原作通りになっていて、何処がデフォルメ(作り替え)されているかは解らない。従って、ここからが映画作品を純粋に追及していく事を許されるとして、映像世界にのめり込んでいく。

 これまで、私の怖さを引き出す映像ははっきりしていた。兎に角人間の皮膚で覆われた内なる臓器や傷つけられた肉体を見せ付けられることがイヤ。怖いと言う事よりも気分が悪くなる。かつて細君が虫垂炎になって手術後に外科医ドクターが摘出した盲腸を「ご覧になりますか?」と聞いてきたとき、「見られません」と言った。娘が変りに見届けたのだが、「たらこみたいだった」と教えてくれた。話だけなら許せる。

 更に心理的な恐怖、異生物などの姿かたち、お岩さん、と色々なものをこれまで観て来て「怖かったッ」と思っていたが、この「エクスクロス」には困ってしまった。音響をどすん・どかんとぶつけて恐怖心を煽る。これには困った。さしたる展開が続くわけでもないのに、音響で観客を脅かす。ちょっとハッタリ気味。この傾向は多分TVドラマで手法的に成立しているものに倣ったのかもしれない。

 この映画試写会を見たある人のブログに偶然訪問して、その人の感想を見たら、物語をホラーという展開からアクションと笑いを(印象として)安直の流れで展開して行った、と言うことを述べていた。しかしこれは上映前の挨拶で監督と亜美さんそれぞれがちゃんと断わってきた所なのだから、自分はそのつもりで映画の中で繰り広げられたこれらの笑いとアクションのできばえは如何だったか、と言う観点で言ってみたい。

 とても良かった。主人公を襲う敵役(かたきやく)の女の人の殺傷武器の鋏が最初はちょきちょき実物大の大きさから、最後は人間の丈ほどの大きさまで次第に大きなものに変っていく過程が摩訶不思議。そして何故か狭いトイレ、汚いトイレがアクションの場と言う事は、昔の言葉で言うと「ご不浄」・「便所」・「手水場」みたいな語感が監督のトラウマ的、あるいは見る人に堪えられない嫌悪感を与える演出なのかと思う。

 携帯電話を使ってストーリーを広げたりひっくり返したりするのは、ごく当たり前だと思う。これまでの映画が、たとえば預言者の出現とか天の声とか、それまで動物だったりしたものが突然人間に変身したり、時代を一気に移動させたり、場所が変ったりあらゆる状況展開があったことを考えてみると、とてもつつましく現代的で現実的な方法手法だと思った。多分原作においてもそのようなものであるかもしれない。

 特質すべきことは何か・・・考えてみたが怖くも無く、斬新か?と思うほどのものも無く、とても印象的であったか、というものでもなく、但し惹きつけるものとしては、監督が様々な過去例をかなり上手に咀嚼加工してこの映画を創り上げていったと思ったことだ。

 この映画が相対的にどう評価されるかは、他に余り見ていないから言えない。では絶対評価はどうか、と言う事になると、これは一般公開される前だからやはり言えない。だから観るつもりで居る人は、努めてその作品の良いところを見つけて、楽しんで来て下さい、自分はそうだったんだから。

 このままでは、もうひとつの映画『ALWAYS 続・三丁目の夕日』の映画評は次回だな・・・「乞うご期待!」

   


Theatre (4)
 『ALWAYS 続・三丁目の夕日』

 やっとたどり着いたと言う感じがします。ある映画がロードショー公開開始からどれくらいの期間、観客が足を運び劇場を埋め続けるか、と製作関係者・興行関係者は気が気じゃないだろう。しかしこんなケースばかりではなく、自信ある作品を仕上げたと自負している面々も居て、この場合は御の字(おんのじ)に構えて、期待するのは何処まで挙行収入が伸びるかなんて、Excelの集計画面を眺めてキャッキャしているんじゃないだろうか。こういうのを昔は、まだ得てもいない狸の皮で数えたり、チョツト進歩してそろばんをはじいたりしていたことだ。

 当映画は、シリーズ化させたいという期待をストーリーの内容に含めて製作していたと、見終わった後に強く思った。具体的にもエンディングロールの中に予告編とも思える映像を差し込んでいる。

 観客の立場で言うと、シリーズ化は兎も角、第三作は是非とも製作して欲しいのだ。

  • あの人を映画の中でもっとみたい・・・小雪さんの薬指が長いこと長いこと(勿論全ての指が長いのだが

  • 売れない文学青年・茶川君の苦悶と希望と挫折の渾然とした生き様を追い続けたい。

  • 鈴木オートはニッポンがこの後経済成長を続ける中で、どのように零細工場(こうば)を脱皮していくか?

  • 淳之介君の産みの父親は、三丁目界隈をひょっとして一網打尽に買収して地域再開発させるような、そんな企業の経営者なのかもしれない、と危惧する・・・もしそうなら、観客みんなで反対しよう。

  • 六ちゃんの色香は何時ごろから蕾から花として開いていくのか?まさか、更正のきっかけを与えてあげた、あの若者とひっそりと都会で咲く二輪草になっていくのだろうか、やばいぞー六ちゃん。

  • どういう設定で新たな登場人物をレギュラー人の中に絡ませて持ってくるのか、その辺の巧さをちゃんと見せてくれるだろうか。今回の第二作では、淳之介君の学校の担任の山村先生、もう一度出て欲しいような、印象的登場だった。

  • 映像の中のどこかで時代考証のミステイクは起きないだろうか、と一部の観客(自分を含む)のアラ捜し趣味をそそる。今回の映画で、鈴木オートの息子・一平君が手に握っていた穴あき五円玉は、まだ発行されていなかったのではないかと思ったのだが、調べて見たらこのコインは昭和24年から出ていたことが判った。「参りました」・・・ようし、次回作を見る機会を与えられたら、涙腺をしっかり閉めて注意して、最後まで戦うぞ。

 この映画の第一作は、劇場公開では観ていなかった。自分にこの映画の評判が届いたのは、今回の第二作が公開される前の宣伝中の時だった。そして、もし第二作を観るんなら第一作を、DVDもレンタルされているから絶対観てから行ったほうが良いです、と教えてくれた人が居たので、ちゃんと展開を仕入れていったわけ。

 さて、今作品のラストシーンと、前作品のそれとでは、前作品のほうが良かったじゃないか。しつこいくらいに都会の美しい夕焼けをいくつも見せてくれた。おまけに、周りの人の感動的な心遣いによって帰省を果たす六ちゃんの見た、汽車の窓から眺めた夕日まで・・・「私は夕日になりたい」

 ところで、この六ちゃんは「六子」が本名でこれが六ちゃんとなるわけだが、ひょっとして、この作品はTVドラマから飛び出してきたんじゃないだろうね。六ちゃん→6チャンネル。止めなさいよ、TV局とタイアップして興行すると、品性が無くなってしまうから。スポーツの中継なんか見るとひどい姿になっているのが今は殆どなんだから。その昔、「男はつらいよ」シリーズがあったがこの映画の発生がTVドラマだった。しかしやはり2・3作目くらいかもしれない、早い時期からガッチリと『映画人による、映画観賞者のための映画』として不動のシリーズへと続いていって、ギネス記録にも輝く作品群となって行ったのだ、学べ・しかし真似るな『ALWAYS 三丁目の夕日』よ。

 一服のち、エピローグを載せたいと思います。私の子供の頃はいわゆる日本映画黄金時代でした。当時の熱狂的映画鑑賞者だった自分の得た体験などを書いていきたい。なんだか、“Theatre”自体をシリーズ読み物にして仕舞ったようだ。

   



Theatre (5)

 Theatre の最終回上映となりました。 ♪ 虹の都 光りの都 キネマの天使

 ・・・先ほどまで、ビテオを観ていました。『蒲田行進曲』です。松坂慶子さんはそれはそれは美しく、美貌の女優・小夏役を演じ、風間杜夫、平田満などの男優人、志保美悦子、原田大二郎、真田広之・・・などの名優が綺羅星の如くに登場した娯楽作品。日本映画黄金時代の栄華を想い出させてくれた作品です。

 作品の中で描かれていること。−−黄金期当時の撮影所の中では、幾作かの映画が同時に進行していました。アクション・時代劇・文芸作品などの各作品班がそれぞれにセットの中で、役者さんが役を演じ、カメラがその演技を収めて次々と脚本を映像に移し替えるが如くに製作されていく。エキストラ俳優、大部屋俳優は、時間を繰り合わせてそれらの映画のチョイ役に掛け持ちで出演する。チャンバラ映画であっては殆どが斬られ役。「今日は、3つの映画で5回死んだ」なんて事もあった。

 粗製が濫造されていたかと言うと、決してそのようなものではなかったと思います。日本人が赤ちゃんから最高齢の老人ひっくるめて、一年でひとり10回以上も見るほどの動員で日本映画を私たちが見ていた時代がありました。【資料:昭和33年度の映画観賞者数11億2千万人がピーク(別冊1億人の昭和史「昭和日本映画史」)】

 あれが、こうして、こうなればヒットする、なんてパターンが在ったかもしれない。しかしちゃんと俳優が期待にこたえる演技をし、ストーリーの中にも観る人の心をきちんと掴むペーソスとか、正義感などの共感を織り込んでいるから、見た後の観客は満足した。

 鞍馬天狗。任侠。青春映画。家族。そして原作文学作品などを映画化した名作の映像を、日本人の殆どの人が見るために陸続と映画館に足を運んだ。

 私が小学生の頃の事、映画上映中に呼び出しが掛かる。「本町仲通りからお越しの〇〇様、至急の用事がありますのでお家にお帰り下さい」なんて、モギリしていた女性などが時々声を張り上げて呼び出しをかけていました。その人、きっとお店の店主かな? 商売を打っちゃってまで、街の映画館に紛れ込んでいたかも知れない。

 当時の映画入場料は、自分が足を運んだ映画であれば、一作70円だった。勿論小人料金です。昭和20年代の最後の頃の料金。自分が小学生の4年生から5年生の頃でした。母親は既に亡くなっていたから、お小遣いをくれたのは義姉です。

 「ねえ、これからあの映画が終るまでお小遣いを毎日貰わないで貯めとくから、1週間ごとに70円くれない?」とお願いして、少年向け冒険とファンタージーの連作映画を観ました。その映画シリーズは二つ在りました。

 ・新諸国物語『笛吹き童子』 製作1954年
 ・新諸国物語『紅孔雀』 製作1955年

 主役の俳優は中村錦之助さんです。後年改名して萬屋錦之介さんです。紅顔の美青年のあの顔あの声にしびれました。脇役に東千代之介さん、大友柳太朗さん、高千穂ひづるさんなどが出演した映画。この二つの映画シリーズのストーリーは繋がったものであったかは覚えていないけれど、当時の自分に最大の興味を抱かせ、頭の中を完全支配していたものでした。映画は1週間ごとに回を重ねていきました。何を犠牲にしても映画を観にいく事を優先させました。どちらのシリーズも多分、四回前後続いたものですが、毎回がほやほや出来立てで映画館に届いた(たしか、そうなっていた)ものであれば、なんとこの映画の製作ペースは、7日です。役者さんの撮影現場出勤(缶詰状態?)が7日間と言う事ではありません。製作スタッフによるラッシュフィルムの編集、そして、プリントとまさに突貫工事、連日徹夜のペースで僕達少年の夢を毎週毎週かなえてくれたのです、キット。

 すごい生産ペースです。四週間位を週に一回70円握って映画館に通いました。ひとつのシリーズが終り、次のシリーズが始まるまでどのくらいの間を空けていたのか覚えても居ませんが、役者さんも僕達も一服期間がありました。斬られ役の役者さんにも怪我の回復期間が与えられて居たのでしょうか。先ほどビデオで見終わった映画『蒲田行進曲』の中では、安さんは銀ちゃんからの押し付けられ女房の小夏さんに懸命に奉仕するため、スタントマンさえ尻込みするような危険な役を重ね重ねて、身体に負傷箇所が増えていってます。

 当時のベテラン俳優さんは、1年で12作品以上のペースで映画出演をしたなんて話を聞いた覚えが朧に残っています。中村錦之介さんはもしあのままのペースで出演する作品を充てられたら、年間52本です。王貞治さんの年間最多本塁打数が55本ですから、ちょっと遅れを取りますが、なんて比較どころではないのです。役者さんにはシーズン・オフが無いじゃあありませんか。

 俳優さんはよく玄人筋にモテたと聞きます。そりゃそうでしょうよ、一作一作ごとの役作りに腐心し、スタッフ、特に監督との作品解釈の相違による妥協や軋轢の精神葛藤などもあるのだから、撮影所で着いた垢を綺麗さっぱり洗い流したい事もあっただろうと思います。それはどういうことかと言えば、京都撮影所であれば祇園花街に、配下の俳優さん等と繰り出して大いに開放感を得ていたと思います。大枚をお店に落としていく。そればかりか、アラカンこと嵐寛寿郎さんには巷間にこんな逸話があるそうです。

 宴席で自分に就いた女の子を見初めると、しっかり面倒を見る約束で落籍し、小奇麗こざっぱりした一軒家を手に入れて、一緒に棲むなり通ってくる。やがて手を切る時が来ると、その家を与え、映画の出演料で貯めてあった全財産を叩(はた)いてその女性に与えて別れる。・・・これじゃあ、女の人は男としての気風(きっぷ)に惚れ込む訳だ。昨今の芸能タレントの中の著名なプイボーイなどは、最初からスケベ心だけが行動を支配しているようにしか思えない乱脈ぶりだ。ホントーにそんな気持なの? カッコよく遊んでくれよ、俺たちには絶対手に入れられない、お床にも入れられないもの(失敬)を扱えているんだから、みっとも無い振る舞いしたら、穿いてるものを引っ剥がして、〇〇を捻ってお仕置きだぜ。

 一方。最近のドラマ、映画に出演する役者さん・タレントさんの多くが芸能プロダクションに所属したり、個人事務所を構えて、出演料の収支勘定をコントロールしている風潮である。事務所スタップやマネージャーが様々な興行企画に渡りを着け、TV出演、イベント参加、映画俳優役へと営業をかけて後に、彼ら役者さん・タレントさんなどの仕事が決まっていくものだと思う。それらの与えられた仕事に、彼らが「どんだけ〜」自分のコンセプト・スタンス・カラーなどの自分の個性面を全う出来るものがあるか判らない。創り上げられたスター性である。ストレスも往年の役者さんのそれに勝るとも劣りません。

 「遊びなさい、六本木でも新宿でも」と声をかけたいのだがハイエナのようにカメラ隠して潜む芸能人私生活暴き隊の人の餌食となってしまう。棲むマンションに張り込んでいて、3時間の二人っきり、だとかお泊り、だとかの書き方をして、あとは勝手な想像を読者や視聴者にさせてしまう。「もしもし、お二人は今、何してるの?」と質していないだけ罪深い行為です。突撃するしないという問題ではないのです。こういうわけで余りにもスターのオーラが消え失せている現代は最早銀幕すら埃を被ってしまったか。

 イヤイヤそんな様にはさせません。私は今、料金割引適齢年齢であるから、同伴者を連れて観ればひとり千円で映画を観る事が出来ます。ロードショーだって何だって。この特典は不思議なもので、細君は有り難がるがチョットお知り合いになった若い女性をお誘いするチャンスにこの特典を使ったらどう思われるだろうか。映画のいいところへきて、そっと手を伸ばして相方の手でも触れようものなら、「もうガマンできない」と彼女はオジさんに罵声を浴びせかけて席を立って帰ってしまうかもしれない。

 「何がいけなかったんだろう」

 これからは、やはり細君に引きずられて映画を見る事が多くなっていくと思う。この1.2年はそんな状態で幾作かを見た。『MIV』・『ハウルの動く城』・『オペラ座の怪人』・『Shall We Dance』(観覧は順不同)などです。でも、どの映画も鑑賞中に眠ってしまうことは無かった。だって音響が凄いんだから最近の映画は。今年は何故か自分が頂いたチケットによって、兎に角「観る」。の自分の意思で経験してきた。

 Theatreの数も増えて来ているのではないだろうか。大規模ショッピンクモールの最上階などに3〜5・6館の劇場を纏めたゾーンも増えている。この試みと傾向は、永き観客動員減少の続いた映画界を再び活性化させていくことになるのか。最近の映画監督の平均年齢は確実に若年化していると見受けられます。そして、製作スタッフも“ユニツト”と呼ばれるチームの単位を作って、映画に入れていくのにどんな楽曲がいいのか、どんなロケ地を選んだらよいのか、俳優さんに身に着けてもらう服装やメイキャップはどうするか、市街のどのお店をバックにとったらよいか、など様々に専門的考察を取り入れて、市井の企業などへもタイアップを働きかけ創り上げていく。かつてのアメリカ映画大作主義で使ってきたブロック化された映画制作処方を今、日本の映画人はこれを発展的に取り入れて各々のコミュニケーションとコラボレーションをより高めて製作に励んでいるものと感じさせた。

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  映画の監督さんて出世魚みたいだ。新人→新鋭→鬼才→ベテラン→巨匠