1・「トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所」の成立ち

2・「トレイシー」内の情報技術

3・「捕虜尋問所」の尋問の実態

組織論あとがき  解題 「組織」について考える

組織論序文 


 『組織論』

 動機は鮮明だった。日本人が組織を立ち上げる時、どのようなことを考えるか、そして進めるか? そこには何か日本民族特有の精神の働きがあるか?それをまずは深く考えようとした。しかし、このやり方で論を立てる事は容易ではないと思った。どうするか? そのお手本となる歴史上で大きく成果を上げたアメリカの組織構築と、その組織の機動力の実態を書き著した本を読み進んでいくうちに方針が定まった。

 その本をまず紹介しておきたい。『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』: 中田整一著・講談社刊

 以降、その施設を単に「トレイシー」と表していく。著者は、アメリカ・ワシントンDCに在るアメリカ国立公文書館(本館:NARA=National Archives and Records Administration,)に足を運び、ここに収められているトレイシーに関する資料を収集し、本著を書き上げた。
 
 「トレイシー」は、日本がハワイの真珠湾軍港を奇襲して、太平洋戦争が始まった1941年12月8日より半年ほど前から、アメリカで構想されていた。当時の世界情勢から見て、日本との戦争に向けて準備を始めることは、きわめて納得のいく方針だった。この想定で描かれた具体的なものが、日本兵捕虜を尋問して軍事情報を得るための施設という奇想である点と、半年後には実際に戦争相手国となった事で、施設を設立するまでのアメリカの行動は、目を見張るものがあった。遠大かつ効果的組織体をアメリカは造り上げた。その目的意識と実行力には驚嘆せざるを得ない。

 本論では、「トレイシー」の具体的な組織形態とそのための準備・運用の実態をできうる限り著書から拾い上げて記す事に趣を置くと同時に、翻って、現代の我が国のそれ(組織力)とを対比して、最終章では彼我の差に少し触れてみようと思う。 序文了

   
  
1・「トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所」の成立ち

検討会議

 20世紀の初頭、世界の中心はヨーロッパだった。アメリカは1865年に南北戦争を終了させて、国内を再び統一した政府の下に、ヨーロッパに遅れて産業革命に邁進し国力をつけ、ヨーロッパに追いついた頃であった。それでも、未だにイギリスは世界の覇権国の地位を持ち、第一次大戦でも戦勝国となってリーダー的位置を保っていた。

 亜米利加にとってイギリスは国家政策の様々な課題を学ぶ先進国の存在であった。折から、第一次世界大戦後の世界秩序は早々に崩れかけていて、一方で日本の中国侵略は拡大していき、アメリカにとって由々しき軍事的危機感を募らせる存在になっていた。しかし、当時のアメリカは、国際孤立主義を採っていた。

 そしてついに、ヨーロッパではヒトラーが周辺国を併合し、軍事侵略を繰り広げ1939年9月にポーランドに対して宣戦布告無き侵攻を開始した。これに対してイギリス・フランスが宣戦布告して第二次世界大戦が展開されることになる。この時はまだアメリカは戦場となったヨーロッパへの対独軍事行動を起こしておらず、1940年6月にフランスがドイツに降伏し、同年9月に日・独・伊三国同盟が結成されるに至ったところで、1941年3月にようやくイギリスに武器援助を始めることで、間接的参戦へと舵を切った。

 この段階でアメリカははっきりと日本を敵国と位置づけると同時に、日・独・伊枢軸国への臨戦態勢に入った。そのために総合的戦略を立てる必要に迫られた。その一つとして、浮かび上がったのが、諜報先進国イギリスが、対独戦を通して大きな成果を上げていた陸・海軍合同て編み出した戦争捕虜秘密尋問センターを、自国も持つことであった。そのためにアメリカはこの施設の運営の実態を学ぶために、一人の将校を派遣したところから活動を始めたのである。

 (この先の記述で具体的に個人名を表すことは少ない。文章を判り易くするためである)

 イギリスに長期出張した人物は、アメリカ海軍省情報局(ONI)所属の情報将校アルブライト少佐である。ドイツの諜報機関の活動について深い知識を持つ専門家で、前身は国際法を専門とする弁護士であった。

 彼は、イギリス・ロンドン近郊北方のコックフォスターズ地域のトレント・パークの中の草深い林の中にある旧貴族の石造りの館 −−− この中にあるイギリス海軍省の秘密機関MT19施設・捕虜尋問センター −−− に1941年6月25から約5カ月間滞在して、イギリスがドイツとの戦争で編み出した捕虜尋問のノウ・ハウを学び、そこでの研修が終わると、最後に12月1日にロンドン北部にある海軍省本部に出向き事務報告をして数日後、アメリカに帰国する。

 この研修が終わるのを待つかのように、一週間後の12月8日に日本軍の真珠湾攻撃が始まり、米日間は戦争態勢に入った。

 12月7日にアメリカに戻ったアルブライト少佐は直ちにワシントンのコンスティチューション・アベニューの一角に在る交通保健省の中の一室に行き、海軍の上層部にイギリスで得た成果を報告する。その報告をもとに、海軍長官から陸軍長官へ陸・海軍合同尋問センター設立に向けた提言がなされた。

 陸・海軍上層部は、対枢軸国との戦いを有利に遂行するために共同の捕虜尋問所を造り、敵の軍事情報を捕虜の口から直接得て一元化して共用することで、戦争遂行の精緻性と効率性を上げることを戦略として採用する事となった。この戦略に基づいた太平洋戦争の戦果が如何に多大であったか、後に実証されていく。

 すぐに検討会議の人選が始まり、下記の部署から佐官(大佐・中佐・少佐)クラスの主だった実務者が選ばれ、検討会議がスタートした。

  ・ 海軍情報局「特殊活動課」(OP−16−Z)
  ・ 陸軍参謀本部情報担当の第二部(G−2・軍事情報部)
  ・ 陸軍情報部(MIS)
  ・ 陸軍航空隊(AAF)
  ・ 憲兵司令部(PMG)

 1941年12月末から翌年1月にかけて「トレイシー」設立の趣旨をアルブライト少佐がメンバーに説明した。このヒアリングが終わるころになると、参加メンバーの全員が捕虜尋問所の重要性を認識するに至り、次のステージが直ちに敷かれた。施設設立に必要な準備には次のものを挙げた。

 ・ 「トレイシー」候補地の選定と施設の設計
 ・ 「トレイシー」の組織造り
 ・ 尋問の手法のマニュアル作り
 ・ 取得した情報の精査や検証から上層部への流通システムつくり

 これらを実現するために、5月初旬まで実質的な討議が行われた。(補足@参照

捕虜尋問所の場所選定から決定までの経緯

 施設の設置に向けては、この検討会議の進捗より少し早く1941年12月24日、陸軍長官の命を受けた憲兵司令部が、「捕虜尋問所」の候補地探しをスタートする。2週間前に戦争は勃発していることもあって、既に建設されている適当な施設を捜すことが指令されている。

 選ばれた場所が、カルフォルニア州東コントラ・コスタ郡バイロン・ホット・スプリングスである。ここに数年前までリゾートホテルとして使用され、経営不振で封鎖された赤煉瓦の建物が在った。その建物を1942年6月1日、陸軍が正式に接収した。施設の存在とその内実は、戦後まで厳重に秘匿され続けた。広大な草原・丘陵・湿原の広がる地形で、その建物から南東20キロ離れた「トレイシー」という町の名前からとっている。この町の名前「トレイシー」が施設の暗号名となった。一帯の地形は、周囲の丘陵によって外部からは隠されていて、極秘の軍事施設として極めて都合がよかったのだ。

 アメリは、「トレイシー」を基本的には日本人兵捕虜の尋問所として構想していて、もう一つヨーロッパ戦線で捕獲した捕虜のための尋問所を、ワシントンDCの隣バージニア州フォートハントに設置している。1942年5月、これら二か所の捕虜尋問所の設置をあいついで正式決定している。秘密保持のためにそれぞれの施設は暗号名で呼ばれることになる。

 日本人兵捕虜施設 ・・・ 「トレイシー」 または 「P.O.BOX651」
 ドイツ・イタリア兵捕虜施設 ・・・ 「フォート・ハント」」 または 「P.O.BOX651

 この二つの施設は、運用も同じとし、それぞれの情報を共有し、時に捕虜の融通も行った。

補足 @

 検討会議をリードしたのは、退役していたが世界大戦の勃発を契機に海軍情報部に復帰したジョン・リフェルダー中佐である。彼はこの会議のためにアルブライト少佐が設置した海軍情報局「捕虜尋問課」を強化して、「特殊活動課」(暗号名・「OP−16−Z」)に昇化させその責任者として辣腕を振るい、局内の中心的存在に育て上げていく。

 「OP−16−Z」は「トレイシー」の設立とともにこれを直接に指揮監督し、海軍側の捕虜尋問の権限を担う部署としての役割を果たして行き、対日戦争中、アメリカの諜報活動の中で最も国家に貢献した機関の一つとなった。諜報活動においても、統合参謀本部に直属する対外諜報機関 − 戦略諜報局(OSS)・戦後のアメリカ中央情報局(CIA)の前身− とも密接に連携した。

補足 A

 アルブライト少佐の報告によって「捕虜尋問所」の重要性が検討会議に参加した将校たちに浸透したころ、1942年2月、大統領に直属する統帥上の最高補佐機関・統合参謀本部(JCS)指令部が公衆保健省の中に置かれた。対外軍事遂行の総本山である。その組織のメンバーの顔触れは、下記の通り。

 ・ 海軍大臣 (議長)
 ・ 陸軍参謀総長
 ・ 海軍作戦部長
 ・ 陸軍航空隊司令長官



陣容と運用
 1942年5月6日、海軍情報局長と陸軍情報部長との共同最終決定案が出され、「トレイシー」運用の核が明らかになった。

  • 組織全体は陸軍参謀本部(G-2)が統括する
  • この指揮のもとに、センター内の全陸・海及び陸軍航空隊(AAF)の活動の調整と施設の提供に責任をもつのは、陸軍情報部(MIS)である
  • 施設警備の責任は憲兵司令部(PMG)が負う
  • 尋問は常に海軍と陸軍が相互に行い。情報は完璧に共有して意思の疎通を図る。尋問を直轄するのは、陸軍は陸軍捕獲物資課 海軍は 情報局「特殊活動課」(OP−16−Z)とする
  • 情報は必ず国内外各機関に発信する前に、尋問センター内で厳密に精査する(その具体的手続きは後述)
  • 陸軍、海軍ともお互いに勝手に上部に上げてはならない

 ここで注目すべき点は、「トレイシー」検討会議の時点で常にリーダー的な立場をとったのは海軍情報局特殊活動課の責任者・ジョン・リフェルダッファ中佐であったから、その功績をもとに、そのまま海軍が全権を得る事が普通である。それを運用面で、陸軍に委ねた事は、両軍間の縄張り意識によって組織の運営に弊害が起きることを配慮した為である。ここに各組織間の協調志向が強まっていく基が在った。

 最終的に、厳選された情報は、陸軍参謀本部情報担当の第二部(G−2・軍事情報部)が承認する。そのうえで、 陸軍情報部(MIS)の手によって、国内および海外20か所の諜報部門に伝えられている。発信手法には、既に実現していたテレックスも導入している。(補足B参照

 トレイシ−の所長に任命されたD・W・ケント陸軍大佐は「特殊活動課」「OP−16−Z」のジョン・リフェルダー中佐に1942年12月末頃には捕虜受け入れの準備が整うことを報告している。実際の尋問が始まるのは、さらに翌年(1943年)に入ってからになる。(補足C参照

補足 B

 トレイシーから上がってきた情報の発信先(20か所)の内訳は、概ね次の通り

  • 米本土の陸・海・空軍航空隊の諜報部門 をはじめ、戦略諜報局(OSS) 、戦争情報局(OWI) ・・・ この中の外国戦意調査課に、戦後の1946年『菊と刀』を著したルース・ベネディクトが1944年から属し、日本研究に従事した ・・・ など10か所
  • ホノルルの太平洋地域統合情報センター(JICPOA)
  • ニュ−カレドニア島ヌーメアの南太平洋司令部(COMSOPAC)
  • ニュ−デリ−、それにロンドンのイギリスなど陸軍省10か所

補足 C

 トレイシーの施設内の大まかな配置は、接収した建物を尋問施設用にリフォームし、敷地の周囲をフェンスで囲って長方形の敷地の四隅に監視塔も設置された。更にその周りに幾棟かの必要な建物を配備した。それらの建物は、下記の通りである。

 ・ 尋問所のある敷地の周囲300メートル以内に尋問関連の事務棟が配置された
 その外側に
 ・ 衛兵所、将校宿舎、憲兵隊宿舎、陸軍情報部の職員宿舎、
 ・ 電話交換室
 ・ PX(売店)
 ・ 歯科医院
 ・ 床屋、洗濯室、レクレーション・ホール(映画館)
 ・ 駐屯地本部
 ・ 司令官の宿舎
 
 など53棟の付属付属施設が並んでいる。厨房には、日本料理のために日系二世の料理人も配置された

 ここに、尋問官、モニターの監視員、警備など将校・下士官あわせて184名もの陸軍関係者の在籍が(公文書館に)記録されている。海軍側の陣容もほぼ陸軍に近い人数が居たと考えられる。

   
  
2・「トレイシー」内の情報技術

 アルブライト少佐がイギリス・ロンドンで学んだノウハウは、捕虜から直接情報を聞き出す方法であった。その目的に向けて行われた検討会議で、それまで軍事面では扱われていなかった必要な技術を列挙した。

 ・ 精度の高い盗聴マイクの開発
 ・ 尋問で捕虜の語った内容を録音する機器の実現
 ・ そして、これらの機器をどのように使えば情報を得られるかの設置配備方策
 ・ 敵国言語である日本語を話せかつ理解出来る尋問官や解析官の養成

 アメリカにとって敵国の捕虜から情報を直接尋問して得るのは初めての体験である。お手本となるイギリスのノウハウがあるとはいっても、生身の日本兵捕虜を相手にするのだから、どのような問題がどんな形で現れるかは判らない。そのために各分野の専門家を任用し育成して、克服していった。

“Memovox Recorder(録音機)”の重要性

 マイクそのものは既に社会の様々な現場で普及し、精度も上がっていたが、いざ盗聴用に適したものにはどのような物でなければならないかを、民間企業や政府機関の専門家を軍属に所属させて試作品を作り試験を重ねながら実現させていった。

 “Memovox Recorder”は既に海軍省艦船局が、音響工学の専門家の設計に基づいて研究開発プロジェクトが立ち上げていた。ここから実用化の道を開いていった。 (補足D参照

尋問官の育成

 開戦当時、陸・海両軍の中に、日本語を自在に扱える将校は、きわめて少なかった。日本語を扱えるアメリカ人一人に対して、英語を扱える日本人は10万人いると海軍は推定している。(補足E参照

 当時のアメリカ人の認識では、日本語は世界で最も難しい言語であり、日本語を教えたり学んだりすることを一部では秘儀的なカルトのようにみる風潮があった。これに対し、海軍では真珠湾奇襲攻撃を受けるずっと前から、由々しき状況と意識していた。そこで1920年(大正9年)から、語学将校を日本に派遣して、日本語と日本文化を懸命に学ばせていた。

 その第一号が海軍長官の命を受けたエリス・ザカリアス大尉(留学時)である。その彼は戦時に於いて、トレイシーから送られてきた情報をもとに、対日心理作戦の最高指揮をとる大佐に昇格していた。

 アメリカは、その後1940年(昭和15年)まで、アメリカ大使館付語学将校として65人を日本に留学派遣で送っている。しかし、開戦前に20万人を超えた海軍将兵の中で、敵国の言葉を満足に使えたのはたった12人でしかなかった。

 1940年になって、日本との戦争が危惧されると、陸軍、海軍とも日本語学校の創設を視野に入れ、全米の民間人に募集をかけた。

 海軍は、1941年6月カルフォルニア大学バ−クレ−校と、ハーバード大学の中に海軍日本語学校を開設し、応募者600人の中から56名を採用した。全員がアメリカ生まれの白人で、年齢は20歳〜35歳、多くは大学院卒か学部卒で、前職は外交官、銀行家、教師、牧師、芸術家など多士済々である。学生は海軍職員の身分で、学校の存在は秘密にされた。1年後、6月コロラド大学ボールダ―校に移している。教育期間は当初は12か月、後に14カ月になっている。

 やがて、ここで日本語を学ぶ学生を増やし、戦時中ここから約1000人が巣立っていった。

  一方、陸軍情報部は、 1941年11月サンフランシスコの金門橋近くのプレシディオに秘密語学学校を設立した。こちらは基礎的日本語力を持つ日系アメリカ人の入学を許した。最初の学生は、60名、うち58人が日系アメリカ人だった。やがて、ルーズベルト大統領の政策により、日系人が西海岸から強制立ち退きさせられたあと、学校をミネソタ州のキャンプ・サベッジとフォート・スネリングの2か所に移している。終戦時陸軍情報部の抱えていた語学兵は、2000名に達していた。(補足F参照

 日本語教育を受けた語学将兵は、トレイシーばかりでなく、要所とされる司令部各部署や前線の諜報部署などにも配備されていった。第一期語学兵(陸・海軍あわせて100余名)の巣立っていったのは、1942年後半となる。

 前述の「特殊活動課」のジョン・リフェルダー中佐は、尋問所所長のD・W・ケント陸軍大佐からの(1942年12月末施設側の準備が整う旨の)連絡を受けたのち、1942年10月24日になって海軍情報部長あてに、11月30日完成予定である事を報告している。(時間交差の理由は不明)

 トレイシーは正式に1942年12月15日オープンして、組織的活動がスタ−トする。当時の職員はわずかで、陸軍が尋問官など17名の将校・下士官、海軍は将校2名民間人7名と記録されている。当時の戦況はまだ日本が優勢で、捕虜もわずかだったことと、陸・海軍ともそれぞれ教育を終えた尋問官の員数も少なかったのだ。

トレイシーでの特訓

 陸・海軍の語学教育を終えて、トレイシーに配属された新任尋問官は、着任後ただちに6週間の集中講義の訓練を受けた。これまでに学んだ日本語の教養をもとに、実務に於いて捕虜との日本語による対等の会話の完成度を挙げなければならない。

 全体を統括する監督官は戦前、永く日本で宣教師の経験のある尋問官長ウイリアム・ウッダード大尉である。講師陣には21名の日本語通が名を連ねている。講義内容の詳細をならべると・・・

   ○ ウッダード大尉
 ・ 日本人捕虜の尋問 (3時間)
 ・ 録音の書きおこしとモニタリング (2時間)
 ・ 日本軍の戦争準備 (4時間)
 ・ 日本統治下の朝鮮と満州 (1時間)
 ・ 東京ニュース放送のモニタリング (6時間)

   ○ キルドイ大尉
 ・ 日本における捕虜体験 (1時間)
 ・ 日本の警察による尋問について (1時間)
 ・ 潜水艦・航空機・戦艦・商船の水路図紹介 (それぞれ1時間)
 ・ 日本海軍の慣習と伝統 (1時間)

   ○ パーカー大尉
 ・ 1940年以降の社会的、政治的状況 (2時間)
 ・ 日本人の心理 (1時間)
 ・ 日本の戦況ニュースの要約 (毎月曜日に1時間)

 このような講義を通して、送り込まれてくる新任者に日本兵捕虜と同レベルの日本の知識を持つよう、重ねて教育していた。更には、演習科目として、尋問における落とし穴と策略(捕虜の仕掛ける返答の見破り方)(1時間)、教師、或いは生徒同士で行う模擬尋問、日本のラジオ放送で流される標準語による言葉の学習、尋問後の最終報告書の作成(勿論英語で)、盗聴実習と録音機の操作などなど全部で80科目もの講義科目をこなしている。

 こうした命題を周到に用意することによって、捕虜たちの尋問時の心理を巧みに誘導して、真実の情報を提供させていく事に成った。


補足 D

 録音器は当時はまだ、レコード盤型が発明されて間もない頃で、短時間収録を可能にする程度だった。検討会議に参加した将校のほとんどが“Memovox Recorder”という言葉すら耳新しい造語だった。尋問官と捕虜の直接の会話は、日本語で行ったが、捕虜は、目の前で証言したことをメモに記録されることを好まない事は、イギリスの経験で判っていたから、その部屋に設置した盗聴マイクで拾って逐一録音する必要があった。

 また、尋問された後の捕虜が仲間のもとに戻った後のお互いの会話をやはり盗聴して、尋問時の証言の真偽を確かめる必要があった。或いは新たな貴重な証言を得るチャンスもある。

 それらのためには、長時間連続の録音と、チャンスの都度に素早く録音を開始することができるON・OFF切り替え構造が録音機に必要となってくる。

 最後に。尋問の時はもちろんだが、重要な情報を得るには、盗聴を悟られない状況を作る事と、捕虜が重要な情報を進んで話す心理にさせることも研究した。イギリス軍が編み出したノウハウがあったが、トレイシーでは、更なる心理戦を研究した。

補足 E

 日本の英語教育は、1886年(明治19年)に、高等小学校精度が始まると飛躍的に普及していった。現在の小学小学5年から中学2年にかけての年齢である。しかし、太平洋戦争当時は、英米語を適正言語として使用を制限し、敵愾心を煽る政策を実施して、世間で使われていた英語表記は、ことごとく日本語で表されていった。但し、教育現場や陸・海士官学校では戦時的題材を織り込みながら、終戦まで英語教育は続けられている。

補足F

 陸軍語学学校を出た日系人語学生は、太平洋戦争中盤以降、南西太平洋の島々で「マッカーサーの耳」として活躍している。更に、トレイシーにおいては、捕虜から捕獲した文書や日記を翻訳し、尋問から得た情報を細かくフォロ−して、多大な貢献をした。但し、彼らは全幅の信頼を与えられず補助的な立場に置かれた。

   
  
3・「捕虜尋問所」の尋問の実態

捕虜の登録手続き

 太平洋戦争を通して捕らわれた日本人捕虜の総数はおよそ5000名である。彼らは捕獲された地域・海域の最寄りの一時収容所経由のケースを含めて、最初にカルフォルニア州サンフランシスコのゴールデンケート・ブリッジから内湾に入った先、エンジェル島に在る陸軍の駐屯地内の捕虜入国申請所に収容された。ここで「登録書」を書かされて正式な捕虜手続きをとる。所属部隊・階級・兵籍番号他、生年月日・本籍地、前職などの一般社会に居た際の様々な個人情報なども記載させられた。一般的な「入国申請書」の形をとって、虚偽記載を防ぐ工夫を取っている。

 次に、軍事情報をどの程度有しているか、知識教養、知能の程度を判定する。 −−− トレイシーで必要とされる情報を提供できるか、ここに集められた全ての捕虜に綿密な審査尋問をして選抜し、その後トレイシーに移送していった。(補足 G参照

 選抜されなかった捕虜は、各地の一般捕虜終了所に移された。トレイシーに移送された捕虜の年度別員数の記録が残っている。

 ・ 1943年    71名
 ・ 1944年  1040名
 ・ 1945年  1231名  (後日、年度の誤記を正した)
         計2342名

尋問が始まる

 トレイシーで実際の尋問が開始されるのは、1943年になってからである。捕虜の最初の移送は1943年1月1日午後10時の10名で、前年(1942年)10月のガダルカナル海域で沈められた重巡洋艦「古鷹」の乗組員7名と、11月15日の第三次ソロモン海戦で撃沈された戦艦「霧島」の乗組員3名だった。

 彼らは、トレイシーの捕虜受け入れ準備が整うまでの約2か月間、エンジェル島から、アメリカ南部ルイジアナ州リビングストンの捕虜収容所に他の囚人たちとともに移送され、待機させられていた。

 第二陣は4日後の5日の夜到着している。前年2月ウェーク島沖で捕獲された特別哨戒艇「第五富久丸」の1名、6月ミッドウウェー海戦で撃沈された空母「飛龍」の34名の内9名、9月アリューシャン列島アトカ島湾内で撃沈された潜水艦呂号第61の5名、計15名の記録がある。尋問は1月7日からまず飛龍乗組員4名から始まる。

 こうして日本の国家の詳細から様々な軍事情報に至るまでが、捕虜の口から明かされていった。日本兵捕虜の相手をした尋問官は、全て日本語で対応した。陸軍情報部が編纂した「尋問手引書」に沿って、捕虜は捕囚された時に心身極限状態を経験したり、厭戦思考に落ちて居たりしていることなどを鑑み、尋問官は巧みにその心理を突いて、捕虜の心を開いていく事に努めた。

情報の密度

 トレイシーに送られた捕虜総数2342名に対する尋問回数は、10387回である。平均して、一人4.4回となる。但し、事前の信用評価のための予備尋問は含まれていない。尋問の結果まとめ上げられた書類は精査され、厳選されたうえでワシントンへ送られた。

 報告書件数は ・・・ 1718件 6475頁である。尋問の回数の多さに比べて、かなり絞られていることが覗われる。

 これらの情報の内容は、戦局の推移に従って、軍上層部からの要求が変わっていく。それに合わせて、尋問する捕虜の適宜の選別が必要となる。この難しい判断も、捕虜同士が交わす仲間内の会話を盗聴した内容や、エンジェル島で申告した捕獲時の日付、海域や地域及び所属・階級、或いは前職等のリストが役立っている。捕虜になってかなり日が経っているより、新鮮な情報を持って居る可能性のある捕虜が適任という判断も加わった。(補足 H参照

組織の理想形として見たトレイシー日本兵捕虜尋問所について −- まとめ −- 

 近代戦は総力戦だと言われています。この戦いに敗けることは、国家が滅亡し他国に従属させられ、民族が絶望的辛苦を味わうことになる。このことをかつての大日本帝国は意識できていただろうか。ひとたび戦いに入る前、どれほどの準備をしていたのか、文字通りどんな戦略をどのような科学的論理的結論を立てた上で進めていったのか?

 著書に描かれた内容は、太平洋戦争に日本が如何にして敗れたか、その必敗の記録と言えるものです。いかなる構想力を以ってアメリカは敵国日本に挑んだのか ・・・ 資源の差、工業力の差だけでなく、国家的一大組織を作り上げて敵国のあらゆるものを情報として掴み取って戦ったからであることは、間違いありません。

 ある時点から(1944年7月サイパン陥落後)、戦勝後の占領政策に必要な情報を軍上層部はトレイシーに求めています。そのため、直接の攻撃戦術ばかりでなく、軍事、外交、天皇制などの最高政策上の情報或いは、日本人の思想・感情の習性とその背後にある文化の特性 −−− 「玉砕」・「神風特攻隊」に通底する行動心理の分析、洞察が必要だったのです。目的意識、そして先々への見通しです。

 組織を起こす際、組織の骨格を決めた上で、そこに関わる個人個人に共通意識を持たせ、任務に最大限の能力を引き出し実行していけば、危機を乗り越えることも、目標として描いた政策などを達成させ得ることもアメリカは学び、ノウハウとして確立しました。こうなると、如何に優秀なる人材が集約している日本の官僚組織と言えども、実態の彼我として比較したら、太刀打ちできるものではない事は明確です。これまでの戦後になっても様々な形での両国関係の不均衡な姿で見られるのです。

補足 G

 エンジェル島に収容された捕虜の一部はハワイ・ホノルルの太平洋地域統合情報センター(JICPOAK)の海軍収容所とホノルル陸軍収容所をはじめ、南太平洋のいくつかの島内収容所を経由している将兵も居て、その際に認証尋問されていていることを申告させている。

 この事前に得た調査情報は全てトレイシーに届けられていて、それらの捕虜に対して尋問官は事前に準備をしてからエンジェル島に於いて聴き取りをした(註:参照)。同時にワシントンの陸軍情報部から絶え間なく、収集すべき情報のリストが届けられた。これらは諸機関の要求に応じてまとめられたものである。従って、それらに答えられる捕虜の選別に、具体的なものが加わることになった。 (日本各地に在る軍需工場の詳しい生産品と、その工場内の工作機械の配備などの情報も、経歴等から選んでトレイシーに移送された捕虜から聞き出すことが可能になった)

 註:トレイシーのあるバイロン・ホット・スプリングスからエンジェル島までは直線距離で約80qであることから、尋問官はこの間を行き来したものと推測します

補足 H

 直接尋問室で尋問官と捕虜との尋問の場で得たものでなく、気を許しあった捕虜同士の会話を盗聴した記録が残されている。場所がトレイシーではない別の捕虜収容所の可能性があり、その時の捕虜もドイツ空軍大将(G・K)と日本海軍少将(J・K)との会話である。日時は1945年8月9日14時

 二人は、新聞で事前に長崎の原爆投下を知っていた(時差によって可能)。話題は原爆の威力に及んだ。G・Kはナチスドイツのゲーリングからその破壊力のすごさを聞かれていたと話を振ると、J・Kもその通りだと答えている。そこでG・Kは、もはや貴国は、どう勇気と勇敢さで戦ってももう無理なのだ、あらゆるものを築き上げてきた祖先に対する罪だと思わないか。あなたの国だけでなく人類に対する犯罪ですよ(要約)と、終戦への決断を促している。

 この両者の会話はドイツ語で交わされている。なお、本著では、人物は実名となっているが、敢えて匿名で記した。実はこのような内容の会話さえ、重要なカギとなりうる。これをもとに太平洋戦争の最終的な潮目となってアメリカは、日本に向けて降伏勧告への手続きを執ったのではないだろうか。

   
  
組織論あとがき 

 「組織論」は冒頭で記した『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』から抜粋して、書き上げました。

 但し、その施設で具体的にどのような尋問がどのような手法で行われ、内容はどういうものかだったのかについては、ほとんど引用しませんでした。トレイシーから生まれた情報が大量かつ多岐にわたっているばかりでなく、その手法が具体的で精緻であり、著書のほとんどを抜き出すとになってしまうからであります。したがって、本文の中で記された内容をお読み頂いただけでは、満足の行くことは出来なかったと思われます。

 公文書館に記録として残されている物には、トレイシーの尋問室で、捕虜の多くが自らの意志で積極的に尋問官の要求に従って、時には、軍事施設の内部見取り図までスケッチで書かれた資料まであります。これが尋問の成果なのです。そして、完膚なきまで国土を破壊され、国体(軍国)を解体された戦史となっているのです。

 翻ってみれば、日本の社会に存在するあまたの組織を私が喝破できたと仮定して、引き続きその改革法を著すことができるのか、と言えば幾らかなりにできるかもしれませんが、あくまでも机上論でしかありません。組織を起こした事もなく、その中の中枢にいた経験もないのですから。

 しかし、日本のそれぞれの組織の中で、特に国家の行政組織は、実のなりすぎた果樹が群生している様にしか見えません。組織の幹は兎も角、枝を広げた先に実った果実の存在理由は、そこに集まる害虫・害鳥等が甘い蜜を吸い取るためであると思わざるを得ません。稼働するシステムもそういう要求に叶うものになっていて、当初お披露目した目的を果たしていません。アメリカが成し遂げた、トレイシーへの目的に向けた組織造りのノウハウを学ぶ精神は、日本には有りません。これは悲しい現実です。

 最後になりますが、本来、捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ協定では、盗聴を禁止しています。それだけに、トレイシーは、超一級の極秘施設であったのです。そして、この施設の秘密を保つために、その場所に向かう道路は広い範囲で幾重にも設置された検問所によって外部からの侵入に備えています。憲兵司令部(PMG)までもが初期の段階の検討会議に参画させる周到さでありました。完璧までの組織運営の鑑とされると言えるのではないでしょうか。

 心残りを収めて  了
   
  
 解題 「組織」について考える


 自然界の変化には秩序があると思う。暑くなり寒くなりしながら季節が回り、それぞれの季節に合わせて海の気象、陸地の気候が一定の規則で移り替わりしていく。この繰り返される現象の中に秩序があると考えられる。その環境の中に生きる動植物の生の営みが、その秩序に従って生息することで、よほどの変動がない限り、地球自身が宇宙の中で長く消滅せず生命溢れる特殊な星として存続する力を持ち得た事に成る。

 いま、このような状態で惑星地球が営みを続けていられる理由を考えた時、「組織」の存在を思い描いてみる。人智で生み出された「組織」を母体の地球に当てはめるのではなく、地球の作り上げた「組織」の存在を逆に人間が学び、人間社会の中に「組織」を生みだしたと仮説し、それぞれ照らし合わせて共通性が取れれば仮説は定説になる。

 生物は生きるために何らかの規則的行動を取っている。そして集団を構成している。コロニー、群生、集団移動など −−− そこに組織の基本的要素が含まれている。異種同士が混在してに生息している域内で、種ごとの秩序は独立している。微生物レベルの生命体から人類に至るまで、種ごとの組織的な集団行動をとっていて、その上で種相互間の協力関係や共生関係や食物連鎖のような一定律で成り立つ秩序の姿として観察できる。

 これは地球上全生命体が、組織としてミクロからもマクロとしても構成を成していると言えるのではないか。人間社会に在る組織(政治結社、会社組織、文化的運営組織など)に対しても、同じ要素を持っているとみることができる。これを以って人間社会の組織が、自然界の組織と質が同じであると考えてよいと思う。

 更に言ってしまえば、自然現象を見れば、海流、火山群、地殻変動なども、それぞれがまとまりを形成して活動している、さらには太陽系の存在や銀河の中の星々も組織として活動をしている。実際には、物理的法則でその規則性を説明しているが。組織とは、人類だけが創りえたものではないのだ。

 有史時代に入って以降、人類は組織を起こすこと無くして進化しえない事に成る。かつての人間社会を遺跡や遺品、当時の記録などを基にして調べると、文明の夜明けを迎えた幾つかの地域では当時の社会が組織化された世界を形成していて、かなり統律されていたことが判る。

 この段階で、組織が集団を進化させるのに重要な要素の一つとして欠かせないものであったことが判る。組織そのものに人智を注ぎ有効に運営する術を高めて集団の営みを膨らませた。後世に有名な、古代ギリシャのスパルタの軍隊などは、極めて顕著な組織体である。組織は、必ずしも現代社会から評価すれば、必要悪と言えるものもあった。奴隷制度を維持した組織(国家)もある。いわゆる現代にも存在する「悪のシンジケート」も組織でありうる。

 組織とは、目的をもって人が効率的効果的に組み合って活動する、集団と言ってよいと思う。定理となるかどうかは判らない。私観である。