第二作:  『道』 原題は“La Strada” 

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  道
  La Strada
  監督       フェデリコ・フェリーニ
  製作       カルロ・ポンティ
            ディノ・デ・ラウレンティス
  脚本       フェデリコ・フェリーニ
            エンニオ・フライアーノ
            トゥリオ・ピネッリ
  出演者     アンソニー・クイン(ザンパノ=Zampano)
            ジュリエッタ・マシーナ(ジェルソミーナ=Gelsomina)
  音楽       ニーノ・ロータ
  撮影       オテッロ・マルテッリ
  公開       1954年9月22日
  上映時間    104分
  製作国     イタリア
  言語       イタリア語

 オート三輪車に乗ってイタリアの各地の町を回りながら、怪力のほどを観衆に大道芸で披露するZampanoと、助手のGelsominaが綾なす、土地紀行・人情紀行です。

 Zampanoの役をアンソニー・クイン、Gelsominaをジュリエッタ・マシーナが演じます。この映画を観て印象に持つ最大な事が、二人の心の噛み合わない辛さ、堪らなさなのです。その原因は、Zampanoの殆どその男の持つ『業(ごう)』とも言える即物的・功利的な性格です。旅の途中、ある修道院にその施設のシスターの同情と慈悲を受けて宿泊の場所を与えられます。二人久しぶりに身体を伸ばす事が出来た気持のゆとろぎからGelsominaが、自分で表現しうる限りの言葉でたどたどしく、日頃の主人対召使の関係のような辛さの中にも、今は自分が少し、愛情を感じているという気持を伝えようとします。

 「何を判らん事をいっているんだ。早く寝ろ」 と女の心情など全く感心を持たないで言ってしまう。いつもそういう仕打ちの彼が、其の晩更に彼女の気持を凍らせる行為に出た。ふと、彼女が夜中に、物音で目を覚ます。格子のドアの先の部屋に2.30センチの長さのマリアの像が台座に安置してある。ザンパノが半身を、格子の間に挟まるだけのめりこませ手を伸ばして、捕獲しようとしている。あと少し。

 そのマリア像が金目のものであるから、欲しい。それが適ったかどうかは見えなかったが、翌朝、出発する時尼僧の皆に送られながら、Gelsominaは、心の中に済まない気持がいっぱいになって、その修道院が次第に遠ざかっていくに従い、涙が目からポロポロと流れてきたのです。

 Zampanoが或るサーカス団と興行契約して、自分の大道芸を演目のひとつとして披露することに成ったことがきっかけとなって、Gelsominaが、そのサーカス団に所属する一人の男に、恋に似た気持を抱いた。優しく彼女の心を包む様に接触してきたことから、Zampanoは其の男をやがて、喧嘩の末に殴り殺してしまう。その現場を見たGelsominaの心は、その時発狂します。静かに強い精神の破壊を起こします。

 映画のこの二つのシーンこそ、監督が訴えていた『業』の恐ろしさなのではないだろうか。その展開は、GelsominaとZampano二人に起こっていく。

 発狂するという事は、押しつぶされた心の爆発だと思う。それまで様々に受けてきたZampanoの不条理を、否定したくとも常にそれを見せ続けられていたことによって、否定できないものとなっていた−−−Gelsominaは、現実から逃れられない情況に置かれても、心は理性を以ってそれを克服・或いは意味づけしようとしていた。しかし、Zampanoが彼女に見せつけた殺人行為が発火点となって、本能が彼女の脳髄から理性を駆逐する。こうして、もはやZampanoの現実の姿が彼女の心から消えていく。

 Gelsominaの精神状況を自分はそのように思いました。

 Gelsominaを捨てたZampanoは、その後もそれまでと余り変らない環境に居続けて、旅の空の下に生きて居た。ある時、最早遠く忘れたていた過去に引き戻される。今彼の訪れているその場所が、捨てられたのちのGelsominaが暫らく生きてそして死んでいった終焉の地で在った事を知る。それは過去に関わった一人の女がただ死んだに過ぎなかったのに−−そのとき初めてこれまでの彼には湧き得なかった強い寂莫感と、疎外感に襲われる。

 彼にとって、Gelsominaは余りにも大きな存在だったのだろうか?−−−そこがこの映画を見た印象の最大の迷いなです。夜の浜辺に男の号泣。すごく彼の気持は判るのだが、Gelsominaへの懺悔がいかほどに強いものであったのか、それとも根源的なこれまでの自分の生き方、生きる哲学が敗北した事で、己の『業』から打たれるみじめな姿なのか。私はそこを、どう見たらよいのか解らなかった。