自分たちが今話している、書いている〈ことば〉には夫々に歴史(語源)がある。注意を払って眺めてみると、ひとつの言葉が現す意味には、深く広い世界が見られる言葉、或いはその言葉に、いにしえの人の心や社会に潜む事物(じぶつ)を窺わせるものがある。それらの言葉は、その発生から一般的意味へと移り、現代に定着する過程が有るはずだ。これを明かすには、時代を遡って古代に求めていかなければならないと思う。言葉探索に携えていく課題は次の三つで善いのではないかと思う。

 ・いつ頃から使われてきたのか
 ・語源となる謂(いわ)れ、故事等は何か
 ・元来の意味のままに受け継がれ、使われてきたのか、あるいは変化したものであるか

 言葉探しの目的がなんであるのかは、以下に進めていく中で自分自身が確定していけば好いのだと思っている。今の時点にあるものは、〈ことばへの興味〉なのだから。


 タイトルを〈古代の声〉と取ったわけがある。

 朝日新聞社発行の朝日選書に、国文学者・西郷信綱さんの著書『古代の声』〈増補版〉がある。この本は、自分の住む街ある大学の図書館書架に見つけ、貸し出しを受けて、熟読進行中だ。タイトルを見ただけで、何を読み出せる本なのかを、書架に立てかけられていたその場所から閃光の如くに射られて覚った。

 自分がこのホームページ・『遠花火』の中で、この春4月初旬に稿了した『珍本・百人一首』を書き続けていくうち、色々な歌の中に深い意味が有ると思われるにも拘らず、難読なことばが幾たびか現われた。その時の気持は、百首に到る前に挫折させうるものではなく、むしろこのシリーズを終えたら「是非、続けてこの言葉どもとの付き合いをせねばならぬ」と、心に留めておいたものだった。そして、この本があった。

 古文を読むのである。従って如何に著者西郷信綱さんが、噛み砕いて説明してあっても、充分に理解できないものも、恐らく出てきてしまうと思う。内容の受け売りであったら、この不消化状態はいけないことである。むしろ、読んだ内容から出来うる限り自分自身の想定とそこから展開した創生を入れて、独自の内容を書くことを意識したい。それであるなら、自分の姿勢を著者に許して頂けるのではないかと思う。

 だから、本稿に氏の著書タイトルをそのままお借りして、『古代の声』−berander版としたのである。少なくとも第一段階、第一冊目の間は、殆ど他の文書文献等を補充させる事は無いと思う。必要な情況となったとしても、年代確認・人物確認などを、他から引用する範囲程度に留めると思う。考証が充分ではないから学研的価値は、従って少ないものと認識している。でも、逆にそうしなければ、自分の現したい内容が飛散してしまうのではないかと思う。

 先ずは第一冊目なのである、と心に含み置いて進んでいく。


 古代日本の姿を現代人が知る縁(よすが)は、思いのほか豊富にある。その主要なものが−−

  ・日本書紀(720年完成の歴史書)
  ・古事記(712年完成の歴史書)
  ・万葉集(7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた歌集)
  ・風土記(奈良時代(710年〜794年)初期ころから編纂されていった国内各地の地誌)
  ・延喜式(905年〜927年にかけて編纂され、967年に施行された律令)

 これらの古代本には、多くの研究者が膨大な時間と労力を掛けて著した論文・解説書・解釈書があって−−その総量で以って、立派なライブラリが設立できるほどに残されていると思って間違いない。しかし未だ必要充分な成果を得ていない学問でもあるはずだ。それだけに、市井の、チョット興味を抱いたに過ぎない者がこの古代と言う時代を真に知ろうとして分け入っていくにはあまりに無謀であり、また、例えて言えば微かな古代の根蹟のひとつひとつを確実に認めて理解していくこと事態が適わぬものだということは、はっきりしている。

 相当に、対象を絞り込み、そこからの関連ごとも最小限の広がりで留め置かないと、収拾が付かなくなる事も充分に想定される。その点、何を知るかについて、西郷信綱さんの『古代の声』に載せられた“ことば”をそのまま、ここで取り上げていく事を良策とみて展開するのである。

 先ず、目次全般を大概念項目で表してみる。

 ・市と歌垣
 ・御霊会の意味
 ・アヅマとは何か
 ・古事記の行間を読む
 ・枕詞の詩学
 ・オモロの世界
 ・古代研究の罠

 著者がこの『古代の声』を一冊の本にして読者に差し出されたとき、目次の展開は必ずしも、導き的順序を踏んでないという事を最初の「・市と歌垣」を読み続けるうちに感じた。突然、抽象概念を延々と読まされたような思いになったのだ。この項を読みきらないうちに最初の貸し出し期間の2週間を費やしてしまった。外に予約者が居ないのを幸いと、継続して借り続けている。気持を新たにして、読み出して強く惹かれていったのが第三項目の「・アヅマとは」である。いくらかでもこちら側に著者との概念的共通点のある言葉を選んだのである。

 難しい事には変りは無い。しかし“アヅマ”という或る地域を現す言葉は、現に今の社会で使われている。この言葉をまずは手始めに読みきって、その内容の概要を書き、つづけて自分の解釈なりへと進めてみようと思う。実は2度目の貸し出し期間は明日が最終日である。必ずや第三クール目の貸し出し継続を図書館に願い出て叶えさせてもらう必要がある。そのためにも、必死に読んでいく気になっている。

 次回に続く
 −−2008年5月6日−−   


 大和の国で、或る地域が如何にして“アヅマ”と称されたのかを追求することになった。

 この章でも、第一章の最初に紹介した西郷信綱さんの著書『古代の声』からの引用をコアとして、アヅマの名称が如何なる経緯で定着していったかを説明することになる。

 のではあるが、実はこの章の最後の記述が以下の文章で締め括られているのだ。その部分をじかに引用してみる。

 【・・・だがさてそれにしても、以上でもってアヅマという語にいくばくなりとその固有な歴史的生気がよみがえったとはたしていえるかどうか。】

 著者自身が首を捻りながら筆を置いているではないか。これではこちら側だって、文中からどれだけの確証を得られるのかと、些か心もとなくなるのだ。色々な古典を引用し、それを否定したり肯定したり様々に著者が捏ね回しながら話を展開しているんだから、最後でこんな落し方をされたら困ってしまうのだ。

 しかし進めていかなければならない。どんな話を切り出しとして書いているか、それを先ず紹介する。“アヅマ”という言葉の原初的な部分の引用である。

 【悉(ことごと)に荒ぶる蝦夷(えみし)等を言向け、又山河の荒ぶる神等を平和(やは)して、還り上り幸でます時、足柄の坂本に到りて、御粮食す処に、其の坂の神、白き鹿に化りて来立ちき。ここに即ち其の咋ひ遺したひし蒜の片端以ちて待ち打ちたまへば、其の目に中りて乃ち打ち殺さえき。故、其の坂に登り立ちて、三嘆かして「あづまはや」と詔云りたまひき。故、其の国を号けて阿豆麻(アヅマ)と謂ふ。】

 ヤマトタケルがいわゆる東征を終えて還る途次、足柄の坂にさしかかった折りの事を記した『古事記』の一節です。 休憩をとって、食事をしているときの情景。実は殆ど同時期に記された『日本書紀』では、場所が碓日坂となって、東南の方を望み「吾嬬はや」と嘆いたとなっている。「あづまはや」はどちらも、亡き妻、オトタチバナヒメをしのんでの事である。彼女は走水(はしりみず)の海で入水したとある。

 註:オトタチバナヒメは、「弟橘比売」と漢字が充てられている。走水の海とは、東京湾浦賀水道の事。ヤマトタケルの東征に随行していたが、相模から上総に向う時、船で渡ろうとして暴風に遭った事を、彼女は「これは海神の怒りであるから」と、人身御供となって、海中に身を投げた。−−−以上の史実については、金園社刊『日本の年中行事』に併せて載っていた『神さま仏さまの履歴書』の解説を抜粋引用しました。

 足柄山は、いわゆる箱根連山の北の位置にある。碓日坂とは、碓氷峠の事だと思う。こちらは、東山道(ひがしやまみち)途中にある。延喜式に依ればこの古道は、近江国勢多駅を起点とし、美濃国・信濃国・上野国・下野国を経て陸奥国に通じていた。

 ・・・
参考にしたURL

 この“アヅマ”に限らず、その他の諸般の名前の由来を記したいくつかの文献が『古事記』よりも、『日本書紀』を典拠にしていると、著者は確信しているようです。信憑性が高いのは、どちらかということ。

 さておき、碓日と足柄夫々の坂は、故郷を別れるの場所の象徴であったとある。東国の若者は、防人(さきもり)や舎人(とねり)として徴集され、大和朝廷の中央や、更にその先の任地に旅立つことがあったという。その時の、街道を西進する途中の夫々の坂に到ると、後を振り返り、ふるさとを或いは留守を守る妻や家族の面影を胸に秘めて歌を詠んだものが残っている。万葉歌である。この中に“吾嬬”という言葉が出てくる。それの原点が先にあげた、ヤマトタケルの嘆きの記述である。

 そして、心に湧くものがいよいよ、ここから先は異郷の地という思いなのである。このことが東国の人たちからみた故郷としての“アヅマ”であり、吾妻・吾嬬、さらには吾姫なる字を充てているものが視られる。

 一方、中央からも或る意味を以って東国の地を“アヅマ”といったと、著者は指摘している。それはアヅマの“ツマ”に端の字を充てていて、“ア”は接頭語である。つまり、大和から見た東の端の地と見ている、と。

 さて、この辺までが著者の記述内容であって、いくらか曲解或いは説明不足があるかもしれないが、直接的な話の部分は大体これくらいとなっている。後は、補足的にその時代のいくつかの言葉の成り立ちと展開の例などを述べてアヅマについてのそれを覗わせている。これには、自分としては読みきれないものを感じたのです。この段階に到って、いよいよ大きく膨らんだ或る想定の話になる。

 都に上り、舎人となった東国の若者たちは、文字を知っていたのか?そして、碓日や足柄の坂で詠った歌を、紙に書いたのか。道中にそのような筆記具を携えていたと考えていていいのか。

 万葉集は、勅撰和歌集であるという説がある。少し控えて考えたところで言えば、天皇の歌も幾つか載っているから、ある意味、主催大伴家持、後援〇〇天皇なんて企画されて出来たのかもしれない。この「〜かもしれない」という部分が古典研究に専門家でさえ言っていることがあるから、自分も大いにこれを使うつもりです。

 担当官は先ずは歌を多く寄せ集める作業にあたった。当然高貴な人から直接受け渡されたものもあるだろうし、記録に残っているものを記録処より引っ張り出したものもあるに違いない。さて、それ以外となると、野に浜に出て、農夫・海人(あま=漁師など)に、野良仕事の歌、海辺の美しさなど、作らせたものを書き留めて集めたものも有るかもしれない−−−「5・7・5・7・7が基本だけど、大体で善いから」なんて促したものなんかあったのではないか。

 担当官幾人かがこうして手分けして、広い範囲で集め、さて、記述したものの中に、「なんじゃこれ?」なんて、首をかしげ、あんまりヘンだったものは没にしたかもしれないが、詠み人のその時の情況を思い出して、いくらか手直しして採用したものがあると思う。兎に角、ハガキにて応募なんてインフラは勿論ない。投書箱はあったかもしれない。

 さらさらと書き留めたものが、誤字気味のものとか、韻を整えて少しかっこよく添削校正したこともあったと思う。なんせ、幾人かで評定し、最後に最終選者が正式文書(もんじょ)にしていったのだ。さあ、こうなると、先の防人や、舎人の歌なんかは、幾つかの“アヅマ”の字になって行ったかもしれない。

 切りがない想定の続きなんて、どこかで止めなければいけないだろう。ただ、これは言える。今や悠久な流れの遥かな先に過ぎ去った、いにしえの人たちが言葉として語った音声である。純とした音によって表された意味と文字の結びつきは如何に行なわれていったのか。漢字は表音文字ではない、表意文字なのだ。音声で表した“事の意味”と漢字で表した“事の意味”が最初から一致していたはずはない。長い時間がかかって、その都度の訂正や検証によって、間違いを取り除く努力を重ねていきながら定まって行ったのではないのか。

 防人たち、舎人たちが、“アヅマ”をどのように意味を込めて使った言葉だったかは、もう一度彼らの説明を受けなければ、真の意味を知り得ないのではないだろうか。ヤマトタケルが「あづまはや」と言った言葉自体、彼らの話を元に再現性逸話として記録していったものかもしれないのだ。

 以上である。自分の勝手なる「あづまはや」の解釈はどうするか。

 「俺の妻は(今頃)どうしているのかなあ」

 第四章は「枕詞の詩学」を読んでからとなる。   次回に続く

 −−2008年5月13日−−   



 〈枕詞 = まくらことば〉−−−就学時代、古歌の授業の中で一度は、聞かされ、目にした言葉である。

 代表として、本著(西郷信綱『古代の声』:朝日選書)に二首が載せられています。

  あをによし 奈良の都は 咲く花の 匂ふが如く いま盛りなり
  たまきはる 宇智の大野に馬並めて 朝踏ますらむ その草深野

 例えば、この二句などが教科書に出ていたとすれば、「太文字で表した夫々の言葉が次の言葉〈奈良の都〉と〈宇智〉に掛かっている枕詞である。枕詞自体に意味があるものではない」と大体がこの程度の説明を述べて、先生はその先の(生徒からの)追及を避けるようにして、本文の解説に入っていったものだと思う。

 自分が今般、かつての学校の授業を、半世紀近くたって復習していく事に不思議な感を持っています。あの時代、何か、知りえないままに封印した思いが無かったのか、枕詞の調べに、文学的な感動など湧かなかったのか、そんな追想を試みながら少し枕詞の本質を探ってみようと強い気持が、本著を読みかけたところで現われたのです。古代の人が歌に込めて枕詞に表した詩的表現、美的感覚を少しなりとも理解したいと言うのが自分の持った主題であります。

 江戸時代の国学者・歌人の賀茂真淵(元禄10年3月4日(1697年4月24日) 〜 明和6年10月30日(1769年11月27日))が枕詞について突っ込んだ研究をしている。その中から、基本的な内容を二つ本著より抜き出してみる。

 ・著書『冠辞考』に、記紀歌謡から万葉までの枕詞約320余種を取り上げている
 ・(枕詞の定義として)−−こを本として下の意をいふにあらず、ただ歌の調べのたらぬをととのへるより起きて、かたへは詩を飾るもの

 以上二つの軸を元に本著が幾つかの枕詞を含んだ歌の意味解説をし、更に展開を著している。これを元に早速、自分のノートをここから開いて書き綴っていくことにします。基本的には、本著(西郷信綱さんの「古代の声」を指す)を出所とした引用も含む。他からの引用があればその都度出処を記すものとします。

 一旦、休憩。 次回に続く

 −−2008年5月17日−−   



 古代の人は、自然現象や山河原野海原の存在、或いは変化のさまを現代人以上に強い思いを持って眺めたに違いない。時に、身に襲う緊急事態が有る、日頃聞いた事もない音が地から空から響き渡る事も有る。或いは日蝕・月蝕、季節、天候の穏やかならざる急変による不安感など、今の人の持つ常識を悉く持ち得なかったところから来る様々な振る舞いがあったに違いない。−−自然界に平伏する、あるいは挑む・解決策を施す。

 自然の中に人格化されたものの存在を描き、その或る者に向って、言葉による人の意思を伝えるということも起こっていった。地域の長(おさ)や通話者(巫女・神官など)が、その役を担って試みる時の具体的な祈祷の詞を創った。あくまで言葉のみ−−口承的なものとして。

 今の古代研究の中で、祈祷の種類がいくつかに分類されている。新年祭・大殿祭の祝詞(のりと)、大祓(おおはらえ)詞、奉納詞、厄払詞等々がそれであって、原初から在ったものが平安初期あたりまでに文章化され、体系化され延喜式・風土記・古事記など様々な文献に収録されていったとある。

 この祝詞は口上である。従ってこの言葉の中に〈枕詞〉の存在が見い出せるのか?
 
  • ・【科戸(しなと)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝(あした)の御霧(みきり)夕(ゆうべ)の御霧を朝風夕風の吹き掃う事の如く、大津辺に居る大船を、舳(へ)解き放ち艫(とも)解き放ちて大海原に押し放つことの如く・・・】(大祓)

  • ・【大野原に生ふる物は、甘菜・辛菜、青海原に住む物は、鰭(はた=ヒレ)の広物・鰭の狭物(さもの)、奥津藻葉・辺津藻葉に到るまでに・・・】(祈年祭)
 上の二つは、枕詞が含まれて居ない祝詞の例として挙げられる。引用文が些か短いので、一定の韻律を感じさせる処まで到っていない。また〈室寿〉(むろほぎ)の神事=新室(にいむろ)の完成を言葉でほめ祝うこと)で述べられる寿詞は、「寿く(ほく)」といって、詠う(歌う)とか語るとは異なる口上であったようだ。このような「寿く」という意味合いの祝詞に枕詞的修飾語がない。

 ところが一部の祝詞の中には、そうとも言えない(修辞語が散りばめられた)ものが在る。以下の詞文中の下線引き部分がそれであって、いわゆる枕詞を含んだものと定義していいことになる。
 
  • ・【神風の伊勢国の百伝ふ渡逢県(わたらびのあがた)のさくくしろ五十鈴の宮にます神、名はつきさかき厳之御霊(いつのみたま)あまざかる向津媛命(むかつひめのみこと)・・・】(神功紀)
 つまり不揃いが在る。この辺をさすがに国語学者、古代語研究者は、更に学問的探求を為すとして、この辺の「ワケ」を解明しようと突き進んでいる。当然色々な文献の隅々まで目を通し検証しながら、発見があり、推理を組み立てていったりするのだろう。その点、部外者が軽装かつ徒手空拳で入っていくと、これが、もっと大らかな、勝手とも言える、広き草原の行く手を阻む草木をバッサバッサと薙ぎ倒すが如くに、要らないもの、手に負えないものを排除しながらの行軍となるのだ。いま、探しているものは、歌の世界で縦横に舞う〈枕詞〉の存在を確かとする世界なのだ。

 この世界の確立者は、その一人として、万葉歌人柿本人麻呂であると本著が提唱している。ここを読むに従って、和歌以前の古代歌謡からの伝承と思われる道筋が着いていることを感じた。

 ところで、本著の借り出し期限は、明日21日である。タイムマシンの時間を刻む音が次第に大きくなっている。私なりの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』物語が果たして現代への帰還滑り込みに失敗して、古代に取り残される恐れも在る。一旦筆を置いて、しかと、急ぎこの部分を見定めてくる。

   次回に続く

 −−2008年5月20日−−