解題
 このページは、以下の書籍の中に編者があとがきの代りに『解題(かいだい)』として著した評論を全文引用したものである。

 書名 氷川清話 勝海舟自伝  編者:勝部 真長  出版社:広池学園事業部

 2014年9月の“Diary”で、哲学と政治について@〜Cにわたって書き綴った中で私が主張した趣意、理論に強く影響を与えた著作として、此処に敢えて再現した。


1、政治家の三要素

 マックス・ウエバーは、その『職業としての政治』のなかで、政治家たるものに要求される素質として三つのものをあげている。すなわち、情熱と責任感と目測とである。

 熱のない政治家は、どうにもならない。しかしここでいう情熱とは、政治の仕事が好きで好きで、それに没頭して飽くことを知らぬ態度をいうので、没主観的なものである。情熱的といっても・やたらに中味のない昂奮の言辞を弄して、身振りばかり大げさに「革命」とか「平和」とかをセンチメソタルにわめきたてることではない。

 たんなる情熱だけでは、政治の仕事は達成されない。政治は一つ間違えば、国をほろぼし、民衆を塗炭の苦しみにつき落とすのである。政治家に要求されるものは、責任の重大さを肝に銘じていてほしいということである。無責任な政治家なんて、それ自身、無意味である。政治家は、誤れば、辞職してすむというものではない。腹を切ってすむ、とも限らない。自分の肩に無限の重みを感じ・薄氷を踏む思いで行動するのでなければ、政治家たる資格はないのである。

 政治家に責任を果させうる能力は、第三の目測からくる。すなわち冷静な打算と見透しである。精神の集中力と平静さをもって、現実を切りひらき、つくり変えるには、事物と人間との問につねに「距離(ディスタンス)をおく」のでなければならない。この「距離」をおくことができるかできないかが、政治の専門家と、素人とを区別するカギとなる。熱い情熱と冷ややかな目測とが、同じ一人の人間の心の中に同居するとき、一個の政治的人格の強みが生ずる。世に利権あさりの政治屋(ポリティシャン)は掃いて捨てるほどあるが、真に政治家(ステーツマン)の名に値する、情熱と責任感と目測との所有者は、そうそうあるものでない。わが国の近代においても、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、原敬、吉田茂らには、政治家に必要な素質がかなり備わっていたように思われる。

 M・ウエバーもいう通り、真の政治家たることを妨げる最大の敵は、人問の虚栄心である。人間であるかぎり虚栄心のないものはいない。しかし芸術家や学者にあっては虚栄心があってもさして職業上の妨げとはならない。ところが政治家だけは、その職業上、虚栄心は絶対に禁物である。なぜなら政治とは権力を動かすものであり、職業政治家の喜びは、「人間にたいして影響力を持つという自覚、人々を支配する権力に参加するとの自覚。とくに歴史的に重要な現象の神経中枢を手中に握っているという感情」にあるからである。

 それだけにもしこの権力慾が、虚栄心によって曇らされるならば、政治家に必要不可欠の目測をあやまり、「距離をおく」ことができずに、個人的な自己陶酔に溺れてしまうからである。勝海舟もまた幕末政治家として第一級の資格をそなえていたように思われる。その情熱という点では、すでに青年期に、オランダ語の辞書を筆写しに毎夜遠い道のりを歩いて通い、二冊写しおえて、一冊は自分のものとし他の一冊を売って学資にかえたという事件にも現われているように、事に当たって徹底的に打ち込み、決していい加減にしないねばり強さ、根性は、江戸っ児にめずらしい、生まれつきのものである。

 目測、見透しのよさでは、元治元年九月に大阪で初めて勝と逢って話し合った西郷吉之助が、「どれだけ智略のあるやら知れぬ」「実に驚き入り候人物」と書いているくらい、その情報蒐集の広く確かで、状況判断の適確なことは、幕末政治家中でも抜群であった。たとえば彼は慶応三年の手記に、諸国の注意すべき人物(いわば各界の今後の実力者)として次の者を挙げている。

 「慶応三年上国に在って事を執るもの、探索者の密告せしところありといえども、皆皮相の見にて、多くは門閥家を以てこれが最とす。予が考うるところ、是と異なり。

薩摩藩
西郷吉之助、大久保市蔵、伊地知正二、吉井幸輔、村田新八、中村半二郎、小松帯刀、税所長造

萩藩
桂小五郎、広沢兵助、伊藤俊助、井上聞多、山県狂助、前原一誠、山田市之亟

高知藩
後藤象次郎、板垣退助

佐賀藩
副島二郎、大木民平、江藤俊平、大隈八太郎」

 海舟の見透し、目測の適確さが、これだけみてもよくわかる。これらの人物こそ翌慶応四年の戌辰政変に最も精力的に動いた活動家であり、その後の明治政府を動かした指導者たちであった。いわば海舟には、反幕勢力の将棋のコマの動き、手の内がかなり適確に読めていたということであろう。また政治的責任という点では、海舟がいつも手本としていたのは北条氏の政治である。北条義時、泰時父子の政治こそ、人民の生活の安寧を中心におき、そのためには帝室にたいする不忠の汚名もあえて忍んだというのである。しかも蒙古襲来の外難には、北条氏は立派にその責任を果した。海舟が、江戸城明渡しの談判のときも、心中深く「北条氏に倣いうるか」を決意していたという。

 徳川三百年の恩顧にたいする不忠とか裏切りとかいう批難はもとより覚悟の上である。勝をさして大逆臣、大奸物と幕臣たちはいう。問題は実質的に日本の人民の利益となり、さし当たっては江戸百万の民衆に迷惑をかけないためにどうしたらよいかである。幕府はどうせ倒れる。できるだけスムーズに日本を新しい国家体制に移行させるにはどうしたらよいか、である。もちろん海舟にも意地はある。福沢諭吉が後に批難した「痩せ我慢」がないのではない。もし西郷たち官軍が無理難題を吹っかけ、談判決裂となれば、受けて立つ用意は十分ある。

 その時は、ナポレオン軍を迎えたロシア軍がモスクワを焼き払った焦土戦術にならって、江戸を焼き払うつもりである。かねてそのために江戸中の博徒や親分や火消しにはすべて渡りをつけてある。幕府の海軍を一部は相模湾に向けて東海道を進撃する官軍に艦砲射撃を加えさせ、他の一部は大阪湾に向かわせ京大阪を押えて官軍の後方を遮断する。しかしこうなれば戦乱は全国に波及し、長びき、収拾つかぬ状態に陥り、英.米.仏.蘭.露などの外国勢力の介入を招くことになるであろう。幕府の小栗上野介一派は、北海道産物の開発権を担保にしてフランスから戦費を借入れて官軍に抵抗するつもりであった。がこれはナポレオン三世の政治的失脚から、向こうから断ってきて成らなかった。

 海舟は、淡判の前後、しきりに英囲公使パークスと連絡をとっている。パークスは、江戸が戦場となればそれが横浜に波及し、横浜在留の外人、商杜らに被害の及ぶことを好まない、と勝に答えている、したがって西郷・勝の談判で、平和裡に江戸城の明渡しがまとまることは、パークスを初めとする外国勢力のまた望むところであった。この事は、当然、西郷や官軍側も十分に考慮したところであった。

 あらゆる勢力のバランスの上に立って、人民のために最も有利な解決をかはかる……ここに海舟の政治責任がある。「人民を離れて尊皇を説くのは、そもそも末だワイ」と、明治三十一年の時点で放言できる人は、勝のほかにはそうザラにいないであろう。「狂といおうが賊といおうが、そんな事は構うものか」という捨て身の構え、ここには虚栄心は消えているのである。

2、東洋的哲人−明哲保身

 幕末維新の動乱の渦中で、実にたくさんの有為の人物が殺されていった。安政の大嶽に坐したものを別としても、刺客の手によって消されたものが多い。佐久間象山、平岡円四郎、原市之進、坂本竜馬、中岡慎太郎、そして、維新後にも横井小楠、広沢真臣、大村益次郎ら。また革命のあとの反革命で、革命の闘士の間の相殺が始まる。萩の乱の前原一誠、佐賀の乱の江藤新平、西南戦争の西郷南洲の一派。これらを平定した大久保利通もまた紀尾井坂で刺される。「西郷殺すも国のため、大久保殺すも国のため」と人々は歌った。

 その後も森有礼・星亨と、政治家はとかく狙われる。幕末の政争の激しいとき、洋学をやるものは特に危険で、福沢諭吉のごときは、家にひきこもって外出を極力さけていたと、「自伝」で述べている。ところが勝海舟は、どんな危険な場所へも平気で積極的に単身飛び出してゆく。そして奇蹟的に無傷で帰ってくる。おそらく勝ほど敵からも味方からも疑られ、憎まれ、つけ狙われた人物も少ないであろう。とっくに暗殺されていて少しも不思議でない存在であった。それが何度も死地を脱し、九死に一生をえて、ついに七十七才の天寿を全うして畳の上で大往生をとげることができた。達人というぺきであろう。

 海舟が生を全うしたのは、偶然でない。彼には彼独自の人生哲学があった。それは多分に老荘的であったと思われる。

 私は人を殺すのが大きらいで、一人でも殺したものはないョ。みんな逃がして、殺すべきものでもマアマアといって放っておいた。ナニ蚤や虱は殺すから、そう思えばいいのだが、ごく殺人は嫌いだった。それは河上彦斎が教えてくれた。「唐ナスでもナスでもあなたは取っておあがんなさるだろう。あいつらはそんなもんです」と。それはひどいやつだョ。しかし河上は殺されたョ。おれが殺されなかったのは、無辜(むこ)を殺さなかったせいかもしれんョ。刀でもひどく丈夫に結わえて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは、斬らぬという覚悟だった。「海舟座淡」

 人は平生の修行さえ積んでおけば、事に臨んで決して不覚をとるものではない。剣術の奥意に達した人は、決して人に斬られることがない。(宮本武蔵の例)。おれも昔、親父からからこの事を聞いてひそかに疑っていたが、戊辰の前後、しばしば万死の途に出入して、始めてこの呼吸がわかった。かの広島や品川の談判も、ひっきょうこの不用意の用意でやり通した。=「氷川清話」

 ある時分、たくさん刺客やなんかにひやかされたが、いつも手取りにした。……危険に際し、逃れられぬ場合とみたら、まず身命を捨ててかかった。そして不思議に一度も死ななかった。ここに精神上の一大作用が存在するのだ。一たび勝たんとするに急なる、たちまち頭熱し胸跳り、措置かえって顛倒し、進退度を失するの患を免れることができない。もし或いは逃れて防禦の地位に立たんと欲す。たちまち退縮の気を生じ来りて相手に乗ぜられる。事、大小となくこの規則に支配せられるのだ。おれもこの人間精神上の作用を悟了して、いつもまず勝敗の念を度外におき、虚心坦懐、事変に処した。それで小にして刺客、乱暴人の厄を免かれ、大にして瓦解前後の難局に処して、綽々(しゃくしゃく)として余地をもった。=「氷川清話」

 まさに「勝つと思うな、思えば負けよ」である。勝敗を度外視して、ひたすら虚心に物来れば応ずるという柔軟な心が、自己の全力を発揮させるのである。この柔軟心を、不用意の用意ともいう。

 「ナニ忠義の士というものがあって、国をつぶすのだ。おれのような大不忠、大不義のものがなければならぬ」=「海舟座談」

 不用意の用意とか、この大不忠の忠、大不義の義という考え方を海舟は好んで使う。ここには老子の「道の道とすべきは常道に非ず、名の名とすべきは常名に非ず」という考え方が根本にあるのでないか。

 「無為にして閑寂たるというは、大いに為すあって、しかる後にやるべきものか、おれは少し惑うが、しかし今の人は、なぜこんなに擾々(じょうじょう)として自から事をなそうとするものが多いだろう」=氷川清話

 「おれなどは、早く西行や一休のようになればよかったと思ってるのサ。馬鹿らしい。つまらねェ事にひっかかってしまった。初めから隠居のできる人は、それがいいのサ。これでも五十年も政治でメシを食ったから、……みんな昔と同じことサ。ワシの方では、陳腐だと思ってるヨ」=海舟座談

 「おれでももし親や妻子がなかったら、今頃は強盗の頭にでもなっておったかもしれないよ」=氷川清話

 ここまでくると老子よりもむしろ荘子に近いかもしれない。海舟は「虚の世界」を見ている。荘子の「ただ道は虚に集まる。虚は心斉なり」(人間世篇)を考えているのでなかろうか。海舟も「無用の用」をいい、「気」を説き、「坐忘」を説く。荘子fまた、

 「名の尸(かたしろ)となることなかれ。謀の府(くら)となることなかれ。事の任となることなかれ。知の主となることなかれ。無窮を休尽して、無朕に遊び、その天より受くるところを尽して、得を見ることなかれ。また虚のみ。至人の心を用うることは鏡のごとし。将(おく)らず迎えず。応じて蔵せず。故によく物に勝えて傷つけられず。(応帝王篇)

 名声の象徴になるな。策諜の倉庫になるな。事業の責任者になるな。知識の主宰者になるな。永遠なるものをあますところ体得し、痕跡のない無の世界に逍遥し、自然から受けた自己本来のものを十分に全うし、本来のもの以外にさらに何ものかを得ようなどとは思うな。つまり虚になることだ。達人の心は鏡のようだ。鏡は外物の去来に任せるだけである。まったく無である。無心である。外物が前に来ればそのすがたをそのままに映し外物が去れば去るにまかせてもとの無にかえる。また外物が来ても来なくても、鏡は気にとめない。それで外物の応接にたえて外物のために傷つけられることがない。(大浜皓訳)

 明治維新のとき、海舟四十六才で、西郷南洲より六才の年長であった。海舟が初めて頭角をあらわしたのは三十三才のとき、長崎へ海軍伝習生として出張を命ぜられ、小十人組へ番入を命ぜられてからである。三十七才、成臨丸艦長として米国出張を命ぜられ、帰国後、その功により天守番の頭格。四十才で軍艦奉行並。将軍家茂に認められ、四十二才で作事奉行格となり諸太夫となり、安房守に任ぜられた。それが神戸海軍伝習所事件、つまり坂本竜馬を塾頭として多く他藩の激徒を養成し何か事を企てるのでないかとの嫌疑をうけて、四十二才の十月に失脚、約一年半の間は氷川の自宅に閉門謹慎していた。

 四十四才の五月、再び軍艦奉行に返り咲き、長州との談判の使節となる.しかしこれも事志と反して再び第一線から退けられ、不遇をかこつ。そうして一年たっていよいよ鳥羽伏見の戦いに幕軍が一敗地にまみれて、将軍慶喜がほうほうの体で軍艦で江戸に逃げ帰るや、「安房守を呼べ」ということになる。もうこうなっては、事態を収拾できる人物は、幕府には勝安房守以外にないのである。この明治戊辰の一年間、海舟四十六才の年は、彼の人生の絶頂期で、最も華々しい檜舞台の干両役者ともいうべき姿であった。

 一般の読者は、ここで海舟の生命は終わったと思うであろう。あと明治三十二年に歿するするまでの三十一年間は、余計な付録的な余生とみるでもあろう。だが必ずしもそういいきれないものがある。明治戊辰、四十六才までの前半生を陽とすれば、それ以後歿年七十七才までの後半生は陰である。前者が動なら、後者は静である。しかし明治以後三十年間の海舟の生き方は、見方によっては、人生の完成期でもある。表面、目立っては、何をしたかわからないようであるが、それは海舟自身が意図して「跡を消」しているのである。「痕跡」を残さぬようにして、明治十年の西南戦争のときでも、日清戦争のときでも、陰で何か仕事をしているらしいのである。

 この「跡を消す」とか「痕跡を残さぬ」という考え方も、荘子のものであろう。とにかく海舟には、一個の哲学があった。ただ学問としてあっただけでなく、実践的な、経験をへたものとしてであった。すなわち、哲人の風格があった。政沿家にして同時に哲人であるという、プラトン以来の理想的な哲人政治家の数少ない例を、われわれは勝海舟においてみることができるのである。

 −−− 了 −−−    2014年9月26日