第四作:  『グラン・トリノ (Gran Torino) 』 
 


監督 クリント・イーストウッド
製作総指揮 ジャネット・カーン、ティム・モーア、アダム・リッチマン
製作 クリント・イーストウッド、ビル・ガーナー、ロバート・ロレンズ
脚本 ニック・シェンク
音楽 カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンズ
撮影 ティム・ステーン
編集 ジョエル・コックス、グレイ・D・ローチ
配給 ワーナー・ブラザーズ
公開 2008年12月12日
上映時間 120分
製作国 アメリカ合衆国
言語 英語/モン語
制作費 3500万ドル

 アメリカ合衆国は、いまだに戦争体験者を生んでいる特異な国家だ。

 世界の中には制度的に徴兵制をとっている国は決して少なくないはずだが、実際に訓練でない殺るか・殺られるかの、敵と戦闘している国となると殆どが戦闘地域が国内にある当事国であって、これが他国との戦いと言うよりも、内戦状態の同一民族・同一国民同士で闘っている事が多い。

 アメリカはそれらの多くの戦闘地域に兵を送っている。第二次世界大戦後の派兵の歴史は、延々と繰り返されている。

 この『グラン・トリノ』の主人公も、かつて朝鮮動乱の戦闘体験者で、退役後に勤めていた自動車製造会社(フォード)を定年で退職した後、つれあいが先立ってしまい、孤独な生活に入ったところからストーリーが始まる。この設定は、アメリカ国民の多くの庶民、特に中年以降の男性にとって、ありふれた人物像として受け止められるはずだ。

 主人公は、朝鮮動乱の際に、一ダースに余る朝鮮人を殺している。其れも多くが少年兵だった。その時の戦争体験が未だに心の傷としては残っていたのだ。

 その彼には神の前に跪き(ひざまずき)、罪を懺悔しようなどという弱さは微塵も無く、隣人の生活、チンピラの無軌道な行動などを激しく罵り、憎悪するという態度を常に出してしまう。こういう性格に固まっていく初老男性を映画の中に見て、日本人でかつ、同じような年齢の自分が持つ共感と、当の同国人のアメリカ男性の湧く其れとには、かなりの乖離があるのではないかと思う。

 となりに住む家族は、モン族という東南アジアから中国大陸に広く分布して住む、亜南方民族の移民者だったので、「イエロー」差別意識を強く持っている主人公の癪の種と成っていた。世界中到るところから陸続と渡って来て住みつく異民族が醸す同族意識、生活仕様を嫌い、差別意識を持ってしまうアメリカ人の心を、こういう映画を通して、自分たちは意識出来るのだが、必ずしも不快感を持つことは(自分には)無い。

 主人公と異世代の人間、或いは異民族とのちょっとしたきっかけから始まった交流によって、終局への筋書きが出来上がるって事をこの映画はテーマとしていると思う。所謂『死生観』

 妻が生前に夫の無信教に心を痛めていたことを牧師に話していて、「奥さんがあなたに、懺悔をするように言い残していました」とその牧師から主人公は、聞かされるが、聴く耳を持つことは無かった。このことはよく自分にも判る。殆どその点は自分も同じものだからだ。

 そして。何かにつけ、牧師は主人公に信仰の大切さを語りかけていく、その過程と、彼が次第に深く関わっていく隣家の青年や、姉とのつながりが同時に進み、その先に姉弟が同民族のチンピラから受けてしまった事件が起きてしまう。

 罪の懺悔をキリスト者は本当に素直に吐露できるのだろうか、信仰の深さ、強さに関わらずに、どうなのだろうか? 結局牧師の前で懺悔したことは、彼の一番奥深い扉の中に滓(おり)のようによどんでいる過去に犯した罪ではなかった。懺悔の席で話を受けるのは、主キリストそのものであっても主人公は、神の前に出さない。

 死に場所にそれが現された。

 魂の根幹にあった罪を彼は神に差し出さなかった。死に際・死に方・残された人に対する愛情、それらのために全てを自分が組み立て、演出して死んで行った。

 様々に、小さな違和感は在った。しかし、ロマンチシズムやヒーロー感を排斥して創り上げた映画なのだと、監督し主演したクリント・イーストウッドは訴えているのだと思う。

 自分にとってもある程度共感できる老人像、更にカッコイイ老い方のモデルにもなる映画であった。