第一条

 明治維新で、日本が国際社会の一員として認められて存在するために、様々な旧壁・旧弊が国家の権限で廃止された。諸々ある中のひとつに、『仇討ち』の制度の廃止がある。

 この制度は1873年(明治6)に、明治政府の布告として廃止されるが、その置き換えとして国家が執行する『死刑』制度が生まれたのではない。別途の物と考えなければならないようだ。日本の死刑の執行は古代から行なわれていて、きちんとした法律(8世紀初頭に制定された〈大宝律令〉)から続く刑法だった。

 仇討ちは殊更日本社会だけに見られる特異なものではなく、世界各地で起きていた。更に仇討ちは一定の作法あるいは手続きによって、その社会に容認されていた。なぜ報復としての殺人(=仇討ち)を正当的な行為と見做されていたかを、突き詰めてみなければならない。

 死刑は、執行官の職務によって執り行われ、仇討ちは、個人の行なう私刑であって主に、怨念や面子(及び体面)など、個人的感情が動機となる殺人、という違いになると思う。ここでは、外国における夫々を考えていく余裕は生憎としてない。日本に於ける死刑と仇討ちは、ある意味で世界の中で特異な成り立ちがあると思われるからだ。

 広く世界で、異民族・異宗教間の征服と隷属の関わりの中で起きる当事者同士の報復殺人行為は、必ずしも私刑の範囲で捉えられない規模に増幅されているものがある。今でも世界の幾つかの地域で国家間規模で報復殺人行為は勃発している。これをも含めた『仇討ち』論を展開することは、ここでは出来ないのだ。

 第二条

 日本の三大仇討ち事件は次のものが定説になっているようだ。
 ・曾我兄弟の仇討ち
 ・赤穂四十七士の吉良上野介邸討ち入り(忠臣蔵)
 ・荒木又右衛門の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)

 夫々が美談、或いは勇壮な行為として、後世に語り継がれているからには、日本人にとって、仇討ちは成し遂げた後、世間から喝采や賞賛を受け、推奨すべき行為となっていた。しかし、仇討ちにはもっと切迫した悲壮的な心情がつきまとっていたのではなかったか。追う者と追われる者との激しい逃亡と追跡が時に展開されたとも聞く。路銀(資金)が尽きて、追跡すら不可能になったものもある。

 武士の社会になり、それが安定的政権となった江戸時代になると、仇討ちの作法が制度化されたとある。主に武士階級の中で起きた〈発端から仇討ちへの正当性〉が認められなければ、その行為は殺人と言う事になる。仇討ちの認定は、事後になる場合もあった。更に、仇討ちは決闘であって、その成否が分かれる事がある。仇討ちを仕掛けるものを討手と言い、受ける者を仇人と呼んだ。その討手が仇人に負けて殺される事を、返り討ちに遭うとなり、悲願が適えられずに終結する事もあった。その結果、時にその家系継承が消える場合も在った。そして仇人の立場は、必ずしも非難を受けることでなく、社会はその行為を正当性あるものとして認めた。

 仇討ちの連鎖は禁じられた。仇討ちを、報復行為から一段高尚なものに置いていた事がこれで判るのである。但し、必ずしも奇麗事ではすまなかった仇討ち事件はあったようだ。武士の体面、家督・家系に関わる殺傷であるからには、周囲の加勢などによって一方側の圧倒的優位の中で行なわれた事があったようだ。又は、ギリギリなところで抜き放つ秘策による勝利を勝ち取る事もあった。

 この二つの事が、異例の事かどうかは判らない。しかし次の条でその内容を書くことで、『仇討ち』の本当の姿を見つめてみたい。

  第三条

 
第1項 昭和39年(1964年)に製作された、東映映画『仇討』の中に見る仇討ち

 この映画は、重々しい映画である。その年の芸術祭参加作品として製作された。監督:今井正 出演:中村錦之助・田村高廣・丹波徹郎・三田佳子ほか、時代劇常連出演俳優多数。

 ある地方藩で、直参クラスの高級武家(奥野家)の三兄弟の長兄が、城下で一人の下級武士(江崎新八)との言葉の小競り合いから、決闘状を送りつけ決闘となり、河川河原で殺される。この沙汰は、事が肥大していく末に藩の外部に洩れて問題視されることを恐れた藩目付役の一応の取り計らいで、新八は、城下所払い・謹慎蟄居の身となり、或る寺に寄宿して暫定的な立場を余儀なくされる。

 奥野家の次男が、この処置に私恨を抱き、新八のところに馬で駆けつけ、寺社に近い小高い空き地に居た彼を襲っていくのだが、松の枝に振り下した刀が食い込んで、空いたふところを横払いに斬られて殺されてしまった。奥野家はそのため、末男子の辰之助が残るのみとなったところで、最早周囲の形勢から見ても、藩意として果し合いを薦める物となり、辰之助を動かし、奥野家は江崎家に人を介して『仇討ち』を仕掛ける。

 こうして藩の役職者(目付役等)の指示で動員された人足により、城下桔梗ケ原に、周囲を青竹で組んで囲われた決闘場が設営される。決闘当日の白昼、近在の領民の衆目の許で、決闘は行なわれるのであるが、予め辰之助には、叔父の計らいで加勢が付き、彼らの後陣に控えるのみの態勢となった。それを見た新八の怒りと決死の剣法のすざまじさが形勢を逆転しかねない状況になると、見届け役として控えていた徒役(かちやく)やお側役など、剣の達人達に、目付役が奥野家へ加勢にせよとけしかける。最早、『仇討ち』の常識が壊れた残虐的決闘となってしまうとして、彼らは動こうという気持になれかったのだが、やがて命令に逆らえず、新八に斬りかかって行った。

 幾太刀もの致命傷を負った新八に、最後のとどめを刺すようにと、辰之助に叔父が激を飛ばすのだが、離れた場所で、辰之助は、刀を脇に置き、両手で何時までも顔を覆ったまま、泣きじゃくっていた。完全に戦意高揚感を失った男の姿だった。

 殺された新八には、兄がひとり居た。月のない暗い夜の決闘場は、全ての設営が取り払われ、幾人かの家中の武士が篝火の下で、苦い酒を飲んでいた。少しはなれた場所に新八の兄が、一本の木の基に座っていた。話し掛けようと近づいたものが見たもの−−−腹を右から左にかっさばいて命を絶った兄の姿だった。傍に白布を掛けられた弟新八の死体が横たわっていた。

 
第2項 劇画『子連れ狼』で描かれた 仇討ち

 
石蕗の花

 郭で女郎が、短剣を咽喉に突き刺して自害した。同時刻、藩の奥御右筆組頭、菊地夫妻が寝所で交合(まぐわい)中、殺害される事件が起きる。

 女郎の自害現場に出張った町廻り同心(註:原作に名前は出てこないが便宜上、平蔵とする)の訊問に応えて郭の亭主は、その女郎には薄墨と名乗らせたが、証文(借用書)なしで苦界(=女郎の世界)に飛び込んできたという。500両ほど薄墨は蓄えてきたはずだという。その500両が無い。そして、平蔵と下っ引きは(投げ込み寺といわれていた)浄閑寺の無縁墓地に埋葬される場に立ち会う。しかし、その女郎の死に様の作法からして、平蔵の心に拭えぬ因果が残る。

 一方、菊地家に取り調べに入ったお目付役は、重なり合って串刺しに貫かれた夫妻(妻上位)の傷跡を見て、犯人が真上の天井板を外すや否や、その高さから放った大反り(薙刀=長巻き)状の切っ先の貫通による殺害と見た。恐るべき剣術者の仕業である。家中にこれ程の手練者は居得ない。

  そして−−妻女の傷口のあたりになぜか一輪の石蕗(つわ)の花が置かれていた。

 菊地夫妻殺害事件の捜査は、通行改め・宿改めによる聞き込みなどによって、深深と降る雪空の下、城下の到る所で進められる。その捜査に平蔵も駆り出され、見廻るさなか、浄閑寺の脇の坂道で近所の子供達が滑らせて遊んでいた箱橇(はこぞり)が転倒し、その箱橇に括られていた長巻の刃が一人の子供に軽傷を負わせるのを目撃した。それを契機に、近くに建つ小屋に続く一人の大人の足跡のあるのを見つけ、直ちに報告を受けた目付役が駆けつける。

 その寺の住職に質すと、身が腐り、死に掛けた浪人が中で病臥しているという。小屋の戸の前に立ち、目付役が誰何訊問する。

 「小屋の御仁に申上げる。尋ねたき儀があるが・・・」それを遮って、中の浪人は

 「お手前方が尋きたいのは、菊地(弥門)夫妻の事ではないのか・・・」と言って、事の顛末を話す。(註:抜粋かつ編集)

 「菊地の妻は、商家から玉の輿で嫁いできた女で、その才覚によって(藩)家中の者に、烏金(からすがね)を貸して、高利を取っていた。旗野という同僚がこの金を借りたが、膨大な金利を要求されて、返済も儘ならなくなって仕舞った。菊地の妻は旗野の妻に売春によって客を取る事を強要した。最初の客こそ、菊地弥門。無理無体の手ごめであったのだ」・・・

 「やがて、その事実を知った旗野は(既に皆の知るとおり3年前)、苦しみぬいて発狂し、母を殺して自分も自害した」

 「この事件で、旗野家はお家断絶、妻女は行方知れず」・・・浪人の語りがここに到るや、小屋の中から一気に炎が噴出し、あっという間に全焼してしまう。自ら疫病の身を消滅させたのである。

 一件落直と理解して、目付は一同を引き上げさせるが、平蔵の目に、見知らぬ幼児が日の射し始めた坊舎の軒下に立っているのをみて、

 「御坊、あの子は?」
 「いや、知らんのう、ぐふぉ・・・」

 不審が拭えない平蔵がその寺の近くに居残り、暫らく待っていると、住職から引き取った大五朗を抱いて、子連れ狼(拝一刀)がやって来た。平蔵は彼の前に飛び出し、「御用だッ」と言って十手を向けて、行く手を阻む。睨み合う間に、拝一刀が袂(たもと)から一輪の花を取り出して平蔵に見せる。

 「な・なんだいこりゃ」
 「石蕗の花、『つはぶき』ともいう」

 「何のまねだ?」
 「冬に咲くただひとつの花・・・この花をとり巻く世界は厳しい寒さの冬だということだ・・・
  そんな中で必死に咲いている石蕗の花・・・」
   ・・
 「お おめえは何者だっ!」
 「子連れ狼・・・一殺五百両!」

 全てを覚った平蔵は、一刀に向けていた十手を返し、脇に収める。下ッ引きと共にその場を去っていく二人の頭上より、ふたたび雪が舞い降りてきた。

 「薄墨と言う女郎は、旗野の新造(妻女)だったんだ。我と我が身を苦界に落としてまでして貯めた500両。刺客に託して仇を討ったんだ。そっとしといてやろうじないか」

 
残菊の宿

 東海道金谷の宿。夕暮れの迫った宿場では、夫々の宿の飯盛女や足洗女(あらいめ)が旅人の客引きをしていた。宿のひとつ、『きく屋』では、まだ客引きに慣れないお市も立たされていた。その器量の良いのを旅商人(あきんど)が見つけ、お市の客として付く。

 客の要求によって、女たちはひと夜の売春をもさせられていた。お市は武家の息女から転落した身であった。その宿に、拝一刀も投宿する。・・・「しばらくの長逗留になるかもしれぬ」

 そして。最初に着いた客の旅商人に抱かれながら、お市は過去の忌まわしい記憶に襲われる。

 『御馬廻役 高百五十石 藤枝勇之進 変死ニ付知行上リ候間 可被得 其意候』

 去ること1年前。お市の兄勇之進が、町家(越後屋)の娘・きぬと叶わぬ恋路の末に心中。二人の亡き骸と共に藩より下された書状が藤枝家に届いた。二人はお互いののど元を短刀で相刺し交えての壮絶死であった。身分不相応となるこの不祥事沙汰に、母は先祖を祀る仏間仏壇の前で自害する。

 残されたお市は、母と兄の葬儀の済んだ場で、幾人か居残っていた兄の同僚に真実を求めて迫る。

 「お願いでござりますッ! な なぜ兄は越後屋のきぬどのと心中などをッ!」

 仕組まれたこの心中事件の真実は、その場に居合わせた同僚の全てが気持の中に仕舞ってあったもの。これをお市が必死に問い求めていた。

 「兄は、工藤家の息女お牧さまと、近々婚約する運びとなっていました。町家のきぬどのとなぜ心中を?」

 「お市どの、この事を突き止めぬほうが御身のためでござる」・・・と一旦は差し止めたが、やがて誰の口からとも無く、真実が明らかにされる。

 ・「お牧さまにおかれては近々、殿の御執心があって、御側室にあがられる事になった」

 この話を期に、一同は狼となった−−「いかんとも藤枝家は既にお取潰し。稀に見る美貌のお市どのも、もはやいずこへと知れず所払いとなる身、いやもったいないのう」

 「もっと詳しく教えてやろうというのだ」 −−迫るけものたちを避ける間もなく、お市の着衣は男たちによって全てはがされる。そして、男たちはかわるがわるにお市の身体を陵辱していく。

 ・「この玉の輿の話は工藤家にとって、願ってもない吉事」
 ・「勇之進に下手に話してこじれてしまっては取り返しが付かない」
 ・「一計を案じて仕組んだのが、工藤家に行儀見習いに上っていた・・・」 ← (俺に代われ)
 ・「越後屋の娘・きくとの叶わぬ恋として、仕組まれて・・・」
 ・「恐らくは眠り薬を飲まされた後、のど元をかき切られ、抱き合い心中の形に組まされた」

 お市は無残な我が身の不幸を体験しながら、この許し難い真実を彼ら兄の同僚から聞かされたのだ。

 『きく屋』の中庭には、見事な残菊が咲き誇っていた。先ほど拝一刀を部屋に案内する際、お市がその菊の美しさを説明した。「菊節句以後に咲き始めた晩菊は、残る菊ともいわれ、霜に耐えていくだけに、悲しくあわれなまでに美しいのです・・・」 「残る菊、残菊か」

 きく屋に数日後、側室に上った後のお牧の方が、供を従えて観菊に訪れる。期熟して、母と兄の位牌を懐に納めお市は、庭を歩き始めたお牧の方を繁みに待ち受けていた。

 「汝のために非業の最期をとげし藤枝勇之進の妹いち! にっくき仇! かくごしやッ」と切りかかる。直ちにお供の強わものどもが庭に降りて、お牧を追うお市の前に抜刀して立ちはだかり、攻める。防戦になるもお牧に向うお市は幾太刀か、切り付けられながら「この恨み、晴らさいでかッ」と叫ぶ。お市の頭上に最後の太刀が下されようとしたその時、拝一刀登場し、あっという間に彼らを殲滅させ、お牧の前に立って「刺客子連れ狼見参」と名乗ると同時に胸元を一撃して倒す。

 先ほどの反撃に倒されたお市は、薄れいく意識を振り絞るように一刀に「あ あなたさまは?・・・」と問う。「娘の仇を討ちたいと願うた父親がいる・・・そなたが兄の恨みを晴らしたったように・・・」

 お市の握っていた太刀を預かり、一刀はお牧にとどめを刺す。と、それを見届けてお市はこと切れ、母と兄の後を追って黄泉に旅立った。

 
なみだ糸

 子連れ狼・拝一刀は、公儀介錯人であった。江戸幕府の諸藩統治政策の遂行上、藩主筋すらも時に断罪し、刑死を命じることもあった。その執行には大名自らの切腹で充てた。武士の情けである。その切腹を介錯するのが公儀介錯人である。

 拝一刀は、柳生烈堂のはかりごとで失脚し、刺客道に入り、諸国を巡り刺客御用を求めて歩く。時に、今向っている先に、かつて介錯をした領主の終焉の地となった、見晴らしの広い川のほとりがあって、新しい藩主にまみえず、遺臣が墓守りを続けている事がある。待つこと幾霜月の後に機会訪れて、改めて一刀に立会いを求めることになった。死に際を求めての決闘である。

 また、彼に討たれた武士の菩提寺が近くにあることを知って、一刀は供養に立ち寄る事もあった。そのような目的で入って行った、と或る寺の離れの小屋に、ひとりの未亡人が幾年も主人の墓守をし続けていた。季節は、池の表面に氷も張る厳寒の頃だった。

 敷地内の通路や墓所の雪払いなどをしていたその婦人と一刀は、住職の引き合わせがあって、婦人の住む小屋の一室で対座する。

 「機(はた)を織られるのか」
 「はい・・待つことの月日に耐えるなみだを注いで、毎日毎日・・・織り上げてはほぐし、ほぐしてはまた織って・・・昨夕やっと織りあがりました。なみだの糸がようやく悲願の布を織り上げたのでございます」

 「・・・」

 「わたしはあなた様に斬られた笠間大輔の妻にございまする」と言って、一刀の目の前に鎖鎌を差し出す。夫の遺品である。一刀は笠間大輔との決闘を憶い出した。その前に座って、婦人は、一刀を心ある武士であって、必ずやここ夫の菩提寺に立ち寄られ、夫の菩提をとむらわれることを信じて待っていたのだという。

 「お立会い下さりませ」
 「承知」

 いよいよ、外に出た鎖鎌遣いの女と、戦場刀を持つ一刀の闘いが始まった。・・・頭上にウナリを上げて分胴を付けたくさりを回し、敵に投擲する機会を狙っていた彼女は、機をみて一刀に放つとそれを刀に受けてひきつけたのを同時に、彼女は接近戦にと挑み掛かっていく。鎌で斬りかかる彼女の胸を深々と一刀の刀が刺す刹那に女も、鎌が一刀の左二の腕の辺りに手傷を負わせる手ごたえを得た。

 くずれて倒れた彼女がかすれ行く意識の中で末期の言葉を呟く。

 「あ あなた、今こそ・・・おそばに・・・まいり・・・」 絶命。

 「相手に一太刀なりとむくいて死ぬることがこの女性(にょしょう)の悲願・・・
  しかして1日も早くご亭主のそばへ行きたいと、それのみを念じておられたが
  いま、そのすべてが叶うて倖せであろうかのう」

 亡骸(なきがら)を引き取った住職からそのような話を一刀は聞かされた。住職も理解していた。一刀が寺を立ち去る前にこういうのだ。

 「わざと一太刀を受けなすったか」

 こうして、貞女もまたこのような形で仇討ちを果たし、夫の後を追うことになったのである。

 子連れ狼の作品群の中にはその外、武士同士の決闘と仇討ちを題材としたものなどがいくつかある。

 補足:

 現代の我々の世では、例え犯罪被害者、或いはその遺族がいかに苦しい悲しみや、深い遺恨を抱いても、仇討ちを直接果たす事は適えられない。唯一法廷の場においてのみ、被害者側の安寧を得られる機会が設けられているに過ぎない。その場所に被害者側が直接踏み入る事はできない。仇人が当事者になりえても、討手は部外者に限りなく近い立場に置かれている。

  2008年4月26日 稿了