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短編追跡小説『小菅プリズンホテル』
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 東京メトロ・千代田線の東の終点駅は綾瀬である。路線はそのままJR常磐線の我孫子・取手方面まで延びている。この駅を出て線路の南側沿いを暫らく北千住方向に向かっていくと、やがて商業地域から、住宅地域へと街の姿が変わっていく。その辺りで、私はポケットからハンカチを取り出して顔の汗を拭く。第一回目の、暑さを凌ぐ行為。頭の上で電車の通過する音がする。高架線路をまだそれ程はなれていないのだ。

 やがて運河の護岸壁が見えてきた。この川が天下の汚濁河川『綾瀬川』である。川幅と言うものは見かけ以上にあるだろうか、約10メートルか? 道路に架かる歩道橋の様に、スロープと階段があって、対岸に渡る。巨大な側溝に黒い水が、流れているのかな、溜まっているのかなと思わせる澱んだ川である。そして地に降りて目を南に向ける。その側溝は巨大な壁となって私の左に聳える。右側に敷地と外界を隔てるコンクリート壁があった。このU字溝の底を思わせる道を今度は歩かなければならない、南に300メートルは続いているだろうか、左手で、今渡った綾瀬川の護岸コンクリートを触る。次に右の手で“小菅拘置所”の高い塀に触れてみる。道幅は狭く2メートル前後か。日傘が男の私にも欲しくなる狭い無風な一本道である。二度目の汗。

 私は今回初めてこの道を通って、中に拘置された或る人物に逢いに行こうとしていた。東武伊勢崎線小菅駅を降りて、半月ほど前、仲間と二人で通った時とは違った緊張があった。その拘置された人物と逢うというよりも、もし今日こそ逢う事が叶った時に、伝えるべき事がきちんと口を突いて出てくるだろうか?ひとりで立ち向かって居られるだろうか? 私は改めて、ハンカチで顔の汗を拭った。そしてこの道を進んで行った。   
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 私がこれから向かう人物は、私の勤務先会社の経営者である。いや、あったと言うべきなのかどちらに断定してよいかいくらか不安定な存在である。或る経済犯罪を犯したとして逮捕され、刑事告訴されている公判中の間、この『小菅拘置所』に収監されている。彼に会わなければならない理由は? 時間を原点に戻して説明する必要がある。

   【N〇〇株式会社労働組合結成】
 N〇〇株式会社のトップが逮捕された後に、組織の崩壊と社員の失業という事態が次に襲い掛かって来た。情け無い。会社の運営は資金の調達がなければ、その時点でアウトなのだ、数ヶ月で灯が消えた。そして、失業したN・・社社員が業務を停止した社屋に棲んだ。社員がこのまま、退職金も受け取る事も出来ないで離散する訳にはいかないのである。債権者なのだ社員は。だから労働組合を立ち上げることになった。しかし経営者逮捕から組合が結成されるまでの数週間、社内は混乱していた。まず幹部社員によって会社維持の為に様々な対応が取られた。それは取引先各社との折衝と同時に、経営者に対するお伺いと言える対策協議であった。小菅に収監されたオーナーは、大きく分けて二方向面で弁護士を雇って対応させたと思われる。ひとつは自身の裁判の弁護人である。そして、債権者全般に対する折衝及び、財産管理などを図る代理人弁護士である。

 N〇〇社社員が直接交渉した相手が後者の代理人弁護士であった。彼が、経営者の委任を受けて登場したのである。彼を通して、会社運営上の指図が降ろされて来ていた。一般的に、傷ついた者に群がるのが、ハイエナ・禿鷹の類である。伸(の)して資金や自身の組織を肥大させていく途上の人物には、仮装的に露出させていたものと仮面の奥に隠している顔の、虚実二面、あるいは三面行動を執り、そこに腹心や管財人などを充てて、業務を遂行させていることが多くある。巧妙な裏の細工によってカネが隠れている場合も在る。構築途上のこれら有形無形の財産が自分の周りの者によって剥ぎ取られていく事態に対処する事は、刑事裁判を有利に展開するための対応と同じくらいに、心する所である。従って、「ハイ、会社解散。退職金払います」とはいきなり言ってこない。

 まず、経営者からの伝達にN〇〇社社員は振り回された。「ご心配ご迷惑をかけて誠に申し訳ありません。社員の皆さんは心配なく仕事をしてください。但し、これこれの取引先への対応はこう言って置いて下さい」から始まった、しかし、次第に取引先から強く拒否され始めて、会社解散の方向に流され始めていった。この事態になった時、代理人弁護士の力点は、依頼人であるオーナーの財産保持管理に置かれているという明確な予想が立ってきた。一番に迷ったのが、オーナーの意向そのものなのか、代理人のコントロールが入っているのか、そして一方で他の債権者の取引先代理人との折衝の推移はどんな展開をしているのか。その債権者に押されていけば、やがて我々社員が弾き飛ばされていく。

 その頃、密かに上部組合組織の存在を捜し始めて、その許に参入した上で社員労働組合を作って、代理人及びその源であるオーナーと交渉することを考えた社員が居た。この時私の行動でも、職務の途中で、ある程度の時間帯は動ける事があったから周りの了解を得て、労働者の解雇等に助言を与えてくれる組織団体をいくつか探し始めていた。このままお伺い的に代理人と話を進めても埒(らち)が開かないのである。『東京都労働相談情報センター』ほかいくつか足を運び始めたところでもあった。そしてそのアドバイスからも、是非これは社員労働組合を作り、一致団結して強く自分たちの要求を相手に伝えなければ成らない、という思いに到っていた。会社は間違いなく崩壊する。そして或る日。「既に上部組織に相談して、具体的立ち上げの手段を取り始めている。是非貴方も参入してくれ、ついては次の土曜日、これこれの所に何時に来てくれ」という申し入れを社員の一人から告げられた。その場所は、上部組合事務所である。私の意志の在るところが確認されたからである。私を含め四名が設立発起人となった。

 勿論、労働組合はたった一人から立ち上げる事ができる。現に我々が参入する事となった上部組織の構成組合員の幾人かは、たった一人で会社と闘っている。即日、『N〇〇株式会社社員労働組合』は設立された。翌朝、朝礼が始まる直前、我々四名が立ち上がって一礼し組合委員長が宣言した。「私達四名は労働組合を作りました。これから会社との交渉を直接行います。現在私たちの組合は、バックアップしてくれる〇〇と言う組合の分会の立場ですので、こちらの専門家のアドバイスを受けます。なるべく多くの人が組合に加入して呉れるようにお願いします」。確かに、その場に砂塵が舞い上がるかの如き、透明な歓声が上がった。趨勢は一週間程で着いた。

 
お断り。『小菅プリズンホテル』は、特定な会社及び組織や個人、そして時期を明らかにしないままで、事実としてあったものをベースにして書いていきます。この中に出てくる“私”とはberander自身であるかどうかの肯定も否定も致しません。  

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 『N〇〇株式会社労働組合』は発足時点で、上部組合の専任副書記A氏が交渉を取り仕切る事になった。会社の経営者代理人弁護士の元に、労働組合が結成された旨を、内容証明郵便物にして通知した。第一回目の“団体交渉”の申し入れ書が同封されている。然るべき日を認(したた)め、叶わぬ場合は代理人の指定する日時を、更に交渉の場所は、代理人の指定する所とした。之は、例え深夜の富士山山頂であろうと、荒波の太平洋洋上であっても、我々は赴くと言う交渉申し込みの常套で在るという。そして、交渉の場で交わされる双方の発言内容は、係争に発展するか、穏便な妥結に到るかの重要なファクターとなる。いわゆる感情に流された発言や、高圧的な言動も相対的に不利となる。相手があくまでも交渉に前向きに取り組む義務を果たさなければ成らない状況に、我々が仕向けなければいけない。だからシロウトの、にわか労働組合が交渉しても失敗するのだ、とA氏は言う。

 社員の反応が直ちに現われた。私の勤務場所は本社から少し離れた場所にあったので、推移は電話の連絡を受けて得ていたが、発足の日から5日ほどで半数以上、更に最終的には、10日あまりで一部の社員を除いて、ほぼ全員に近い社員が加入する組合組織ができた。実は、経営者の逮捕に到る直前の数ヶ月間、会社の上層部役員の離脱や解任があった。腹心が経営者の許を離れるという現象が何を意味したのかを、社員は積極的に評定できなかったのである。会社は膿んだ組織に罹病していた。残された管理職からも組合加入者が現われて、その時点で取引先等への交渉内容や、先方からの要望や回答の吟味が、組合員全員の評議の上で進行出来る構造が出来上がった。最早『N〇〇株式会社労働組合』組織が、会社の対外的な唯一の窓口となった。

 これから先、N〇〇 株式会社社員労働組合の“社員労働組合”部分の呼称を、単に“分会”とします。 そして、此処で時系列的に、ここら辺りまでの状況推移を整理して列記してみる。起点をN〇〇(以下“N”)元年1月1日とする。
 
 ・ N元年.1月1日 N〇〇株式会社社長逮捕される。
 ・  同年.1月18日 『〇〇組合 N〇〇株式会社分会』結成、
 ・      同月末、ほぼ全社員が分会に加入。
 ・      同月28日、先方代理弁護士B氏と第一回団体交渉を行う。
        (於:東京霞ヶ関・弁護士会館)

 ・      2月8日、N〇〇株式会社の会社業務停止。
  

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 会社側に対して分会が要求した内容を表わしてみる。
  1.経営者の不正な経営に対する責任追求。
  2.退職金プラス給与額3か月分の確保。
  3.M&Aなどによる事業の継続と雇用継続、もしくは社員の生活保障。

 第一回目の団体交渉は、組合側から相手代理人弁護士B氏に要求書を提出し、双方が確認した所で終了した。当方参加者は、A氏他分会から約5名、支援組合員2名。一方代理人側から代理人弁護士と、その事務所所属職員の若い弁護士1名が同席し、交渉の記録を執っていた。弁護士会館は、係争中当事者の話し合い場所として、いくつかの部屋を用意し、提供している。会員弁護士が使用申請をして利用できる。飲食は勿論出来ないが、会議会場などにある、余計な装飾などのない、機能だけで出来た机を囲い型に置き、布張りの事務椅子が在るだけの部屋である。双方が向き合う形で座れば、40人は収容できる。広い部屋の中で10名に満たない当事者の事務的会話が、と言っても、A氏と代理人弁護士だけの声が流れて終了となった。それにしても、お互いの距離は、5メートル近くは在る。何んなんだ、この物理的距離の長さは、と思わざるを得ない。

 初体験の緊張から解放された後、同席した分会メンバー全員が感じたものは「成る程、こうして粛々と状況が解決へと進み、目出度く終了になるのだ」という、楽観であった。A氏だけを除き。労働争議は戦いであって、両者は決して理解しあう為に向き合っては居ないということが、この後徐々に我々N〇〇社社員の前に現実となって現われてきた。

 起点、N1年1月1日の経営者逮捕という激震以降、初期の余震として起きたいくつかの事実を挙げるとまず、その年度就職した新人の中から、自発的に退職届けを会社に提出し、新たに再就職、又はフリーターとして、飛び出して行く者が現われた。彼らには、退職金を闘い取る意味が無い。家族から、特に父親から “労働組合”の存在を罵倒され聞かされて、離れて行ったものも居る。

 同年2月8日に会社業務が停止されてから、1週間ほどして我々は解雇通告を受けた。同時に解雇予告手当て1ヶ月の給与明細書を受け取る。その時点で、各種社会保険の解約手続を行う事になった。会社の総務部事務室に赴いたのは、代理人弁護士B氏から派遣された社会保険労務士C氏である。説明があった。「皆さん速やかに、ハローワークで失業認定手続を取って下さい」。−−−我々には疑問があった。解雇を認める事は退職金等の支給など、会社への要求を放棄する事にならないか?「違う、まずは自分達の生活を確保する為の手段として、闘争中であっても退職金を正規に受け取るまで、失業認定を受けて失業保険を受け取っても、何ら不利になることはない」とA氏が言った。失業保険は、私達の立場には、最速の救済認定で支給される。だから、私達は思った。私達には、これから『奈落の底』などないのだ、後は退職金要求交渉をまとめ、早い時期にこの事態を収めて再出発をしたい、と。

 今、私達は解雇を受けた。その事態に到る直前から我々は、社屋に組合員交代で昼夜を詰めて居続けていく事になった。『社屋占拠』である。「これからの会社とは、話し合い交渉だけでは無く闘いに打って出るものと成るのだ。この行為は、交渉を有利に、早期に解決する為に必要な労働者の権利として行うものである」、ともA氏は言った。会社への要求で、金銭支払い要求は退職金及びプラス給与分3カ月分である。しかし今はまだ殆ど何も得ていないに等しい。そして、他の要求内容の解決を図るためB氏との交渉を、ほぼ1週間間隔で繰り返した。

 あれほど言動に注意をと、我々を戒めていたA氏が交渉の最中キレて見せた。代理人弁護士B氏の挑発に載ったのである。記録中のノートに、ボールペンを叩きつけたのである。交渉、話し合いによる手段を絶つことになる。B氏は「話し合いに冷静に応じて頂けないから退席する」と言って部屋を出て行ってしまった。3月の初旬頃の出来事であった。確かに、話し合いは進展せず、空回りの感を我々も持ち始め苛ついては居たが、A氏は何故行為を起こしてしまったのか?我々を何処に連れて行こうとしているのか。不信感が私の心に湧いた。しかし、分会組合員はこの組合活動の流れの中で、最早導かれていかざるを得ない。そして程なく我々は、会社側に訴えられる。聞きなれない訴状が届けられた。『地位不存在確認請求事件』が民事裁判による被告人に成ったのである。「心配しなくていい。刑事被告人ではないんだ、相手が我々をN〇〇株式会社の社員でない事を認定してくれ、と言う裁判を起こしただけなんだ」 
  

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 我々N〇〇株式会社分会が、刑事被告人の経営者に対して退職金を団体交渉で要求する事は出来なくなった。その経営者自身が、原告となって民事裁判「地位不存在確認請求」を起こした事で、代理人弁護士B氏は団体交渉の場に臨まなくても良い事になったのだ。全て、両者の主張は法廷に於いて、裁判官を前にして展開することになった。そして、裁判官の判定による解決を両者が待つことになる。相手のこの行動は奇策なのだろうか、そして裁判所が之を受理するする事が、労働者を、更には弱者を苦界に貶(おとし)めることにはならないだろうか。解雇権の乱用になり兼ねない事の懸念である。永い歳月と多額の裁判費用が掛かり、労働者を干上がらせる事になりかねないのだ。民事裁判の二面性−功罪の存在が浮かび上がってくる。

 確かに労働者は法により未払い賃金や、会社の就業規則に謳われている退職金等の、労働債権は護られて居る。実際の裁決でも、最終的には経営者には解雇責任として、労働者から要求された退職金等、或いは訴訟の内容によっては、復職など立場の復元を法的効力の在る決定で下す例が多い。しかし、この度は我々労働者が経営者からの訴訟に受けて立たなければならないのだ。受けて立たなければ、挫折になる。そのまま相手の訴えが通って御仕舞い、何も我々に得るものが無い。その後に襲う敗北と言う余震にすら見舞われて、傷つく事もあり得る。この事態に、弱者のままに放り出されつつある労働者を救う術はいくらも在る。絶対に落ち込んではいられない。一般的に、労働者が個人或いは全員で会社から追い出されようとする時、駆け込み訴える事によって、公的に解決を図る機関がある。例えば『労働基準監督署』が全国各地域に存在する。更に争議を調停する組織として、例としてキーワード“労働争議の調停”でインターネット検索すれば、より理解を深め、不利から一歩踏み出して会社側の“極道”に立ち向かう手段を見つけることが出来る。或いは我々が分会として加入を果した、労働組合事務所のドアの中にも。この組織を探索するインターネットでの検索キーワードは“労働組合 ユニオン”。

 兎も角、N〇〇株式会社の社員は労働組合を組織し、上部組合の専任闘争専門家の許で活動を始めてから4ヶ月後、場を法廷に移して戦うことになった。弁護士が登場する、登場願わなければならなかった。労働争議が法廷で争われることは珍しい事ではない。労働者を強くバックアップする弁護士は多い。原告会社側 (経営者)が裁判所に訴状を提出してから約1ヵ月後の、N元年4月23日午前10時、東京地方裁判所第6・・号室法廷に我々は出廷した。そして我々は法廷の席に座ることになった。)

 お断り : 私が用いている年月日は、この小説の
−3−の中で表わしている、経営者が逮捕された日をN〇〇(N)元年1月1日として加齢換算しています。 

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 会社の経営者が事もあろうに、我々を民事被告人に仕立て上げ訴訟を起こしたことは、『ガツン』と頭上に何かが振り下ろされ、我々に一撃を与えたという印象があった。その時点で分会から数名が抜けて行った。今後の自分たちの就職活動などへの支障を考えて、独自で代理人弁護士と個別交渉をするという。その時を限りに彼らが以降、我々の前に闘争が終結するまで姿を現さなかったわけではない。その姿をみて、その後の彼らも今だ解決されていないのだ、という想定ができたのである。

 社員の殆どに裁判所が出した出頭命令書状の正式な名称は、『口頭弁論期日呼出,答弁書催告状』。つまり、開廷する。出頭せよの呼び出しである。そしてその書状が指定したN元年4月23日当日になった。霞ヶ関にある東京地方裁判所の裁判法廷では、我々の受けた訴訟の弁護を一任されたのがD氏である。そのD氏が被告人弁護席に座った。我々が座った席は仕切りの外、傍聴席であり被告人席ではなかった。そこから裁判の成り行きを見守ることになる。被告人全てが傍聴するには到っていなかった。法廷において、当事者双方がまず、言いたい事は何かを書面で裁判官に明らかにする事から始まった。

 「貴方の言っている事は、自家撞着だ、反社会的行為だ」、「いや、貴方達こそ会社の財産である社屋を不法に占拠している。言行不一致も甚だしい」、などの応酬は無い。全てが書面に存在している。組合側は、経営者から提出された訴状の言っていること、及び添えられている副本に記載された内容に対する反駁答弁書を、既に裁判長に提出している。相手からの副本は『甲第一号証』以下、約20件で之までの両者応酬書類の証拠品や、団体交渉時の印象まで、文章になって閉じられて出されているのだ。これらの確認が全てであった。矢張り之ではシロウトが、どんな事をどういう内容で作り、書類を提出していくのが良いのか解らないはずだ。そして、裁判の進行中の発言とヒアリングにもどんな技術が在るのかにも暗い。裁判官と両者各々の口頭での事務的なやり取りが淡々と進み、その日の最後に、次回法廷日程を裁判官から当事者に告知されて伺いが掛かる。“マンスリー”の日程になっているだ。我々のこの後の永き法廷での係争は、終盤を除きほぼ月一回のペースで進むことになった。提示された日程に対して、我等のD氏が自分の手帳を確認する事あっても、常に諾とする一方、会社側代理人弁護士のB氏は、しばしば修正を要求している。どちらも法律事務所を構えているが、D氏は弁護団事務所に所属する人物であった、いざとなったら分担が利くのだと私は思った。

 この裁判は、基本的に原告の訴えが不利な上で始まっている。経営者が社会的な背任行為を起こして、経営している会社をも崩壊させているのだ。落し所は矢張り妥当な退職金を社員に支払う所となる、まして原告経営者本人は逃げも隠れも出来ない『小菅拘置所』に収監されているのだ。この民事裁判では、然るべき退職金を支払う判決が出て、原告経営者がそれを真摯に従認めしていくべき事が真実でなければならない。彼自身の刑事裁判への心証に大きな影響を与えるはずである。・・・しかし退職金原資調達で、経営者は難題をぶつけてきて、安易に其れに従うことを拒む事が往々にしてある。ここにプロたる法律専門家同士(三者)でその調整を図るために、裁判官自身が出した結論は、『和解』調停である。この法廷の権威者・裁判長が判決を出しても、逆に紛糾することは判っている。判決不服の控訴があっては失敗なのだ。永い「争い」の道に迷い込むことを選んではいけない。

 8月後半の法廷から、つまり第四回か五回目の公判辺りから『地位不存在確認請求事件』は、具体的に退職金支払い交渉として、裁判官立会いで進められることになった。『和解』への姿勢を見せるということは、そのところまで行なってきた組合活動は、いくつかの手段を自粛することになる。私の『小菅詣で』ももう出来なくなった。小菅拘置所はどんな所であったのか、忘れられないものがあった。
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 倒産した会社に退職金を要求し、その目的を果たすために挫折は出来ない。そのためには、膨大な労力が要る。その最大最重要なものは、精神力なのだ。どんな事が起きても、襲ってきても「妥協できない」という精神力が決して萎えてはいけない。それがあって始めて様々な行動を起こしていく事が可能となる。N〇〇株式会社分会は、組織としてその精神力をまずは強く持って行動を進めて行ったが、ほぼ全ての社員が初めて経験する連続の日々は安易なものではなかった。裁判で『和解』の交渉に入るまで、正に毎日が争議行動である。生半(なまなか)な心では出来ないと皆は実感していく。我々N〇〇株式会社分会メンバーは、A氏が強く指導していくことで様々な労働争議行動を興していった。

 『社前集会』が、組合立ち上げ後の早い段階で二度ほど行われた。社屋玄関前に分会々員が、夕方退社時のオフィス・ワーカーが行きかう中でビラを配り、携帯拡声器から声を流して、事件を大々的に報道する。そして、垂れ幕も作成する。社屋の屋上から、幅約1メートル、長さ約10メートルの晒し生地に攻撃の文言を書いて一本、日を追って一本・・・と増やしていく。経営者の反社会的行為を多くの人に認知させ、経営者に精神的な威嚇を与える事になり、早期の妥結を迫るのだ。『社前集会』には、各組合組織の応援支援が必要である。支援に駆けつけたメンバーの中に、歴戦の勇士が幾人も居る。彼らのシュプレヒコールの声と姿勢は殊更に大きい。その姿に励まされて、我等分会メンバーの声も呼応して次第に大きくなっていく。終った後、社屋の中で懇親会が開かれ、久方の再会をしたもの同士が近況を伝え合う。自分の闘争が完結した後に後輩の窮地に臨み、励ましのアドバイスを与える人も居る。労働争議は、各所に上がっているのだ、カンパが集まる。皆が苦しい中で助け合うのだ。やがて我々も連帯プレーとして、以後いくつかの支援行動に参加していかなければいけない。或る分会委員長が日常生活中に、会社側からの妨害と思わなければ起こり得ないような傷害を受けたと言うケースも在る。重症の打撲と骨折。圧力が暴力となって罷り通る現実が、我々の前に剥きだしの状態で立ちふさがっているのだ。

 時は、大リストラ時代平成不況の只中にある。明日にでも路頭に放り出される不安が、多くのオフィス・ワーカーの意識の中にあるとしても、現実に置かれている我々の姿をどのように受け止めているのだろうか。ババを引き疎外を受けた一人一人の、寄せ集めの組織という評価をしているだけかもしれない。己が身には起こり得ない事として、冷ややかに横目に眺めながら通り過ぎる。之では夫々の不幸はそのままひとつひとつの泡沫に終って、忘れられていくだけなのだ。それは違うと思う。今は安穏かもしれない、それは将来まで、保証される身分ではない。だから同じ立場の者が連携を組んで進むことが非常に大切になる。ここへA氏をはじめ、上部組合の幹部は力点を置いている。労働者の危機を常に意識している。

 我々が社屋の占拠を続けて行く上で、次第に他の組合メンバーなどに協力を要請して“夜勤”を続けて行かざるを得なくなった。色々な行動予定をスケジュール表にして掲示し、分会の各自が自発的に参加出来る項目に登録をして予定を埋めていくのだが、時々“夜勤”が空欄のままその日を迎える事が在るのだ。最低2名の構成を組み、簡易ベッドに別れてオフィスの蛍光灯の一部を点けたまま就床する。私はどちらかと言うと、大道で“気勢”を上げる姿が似合わない、苦手である。代償として、資料作成や退職金原資調査のために、会社謄本の取得や不動産登記内容閲覧申請等の地味な活動或いは“夜勤”を選ばせて貰うことが多かった。

 上部組合に単独で所属していた人が居た。30歳に届くかどうかの年齢。たった一人、エスケープ・ゴートにさせられて組織から疎外されたという。同僚・上司を含めた会社の全てから追われて、組合に辿り着いたと言う。ある晩彼が加わり3人の“夜勤”となった折、食事を摂り酒を呑みながら、しみじみと彼の心の傷口から流れる言葉を訊いた。じわりと出てくる低くそして間を空けた声。吃音(どもり)で喋る。そして抑揚の無い小声。話の内容以上に、彼の対人的接触障害を見せられて辛くてならない。淡々と語るその事実が、すざまじい内容であった・・・周りが彼に一切関わらない態度を取る、命令が全てメモ文書で伝わる。質問や報告は無視されて受け付けて貰えない。果たした仕事に対する評価やリアクションなどの反応も一切返ってこないと言う。組織の上からの指令であっても、周りの人間が此処まで鬼に成ってしまう事があるのだ。解る。

 30代のある時期、サラリーマンをしていた私にもあった。一切の仕事を剥奪されて約2週間、私は一日中を毎日、『般若心経』の写経を続けた事がある。生理現象以外は勤務時間中、只机に座っていろと言われている。毎朝まず硯に墨を摺り、筆を濡らして書き始める。摩訶般若波羅密多心経・・・。1行11字、或いは13字で二通りを毎日書いた。半紙一枚と1/3程度に或いは一枚、清書で書き切る。自分に惨めさを感ずることは無かった。そして屈辱を乗り切った。「辞めます」とは言いたくなかったのだ。外部からの来訪を受ける窓口に近い場所に、私は座らされ晒されている。そこに社員の一人が、いつも無言でお経を書いているのだ。「辞めてくれ」と会社に言わせた。「分かりました」と言って私はそこでその社を離れた。きっかけも、責任の所在もあったものではない、誰かが犠牲になる。その上で起きた私へのパッシングだった。その社に転職して日もまだ浅い事も禍した。勝利感も挫折感も私に残らなかった。その時間の過ごし方が正しかったか否かも、今だ私に答えは出ていない。標的にされ、攻撃を受けやすいタイプだったのだ、お互いに。彼に心の晴れる日を与えてあげることが出来るのだろうか。彼は癒されなければいけないのだと思った。
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 −8−

 和解調停になる前の、この非日常的小菅詣での話をまだ話していなかった。私がひとりで綾瀬駅からこの拘置所に赴くより以前に、私は初経験を果たしている。

 面会の第一回目は、東武伊勢崎線小菅駅ホームで私とE氏は時間を決めて落ち合って赴いた。道を進んでいくと我々の入る入口よりかなり手前に、収監者の搬送用、更に恐らく職員の通用共通と思われる正門があった。その先に何軒か収監者への差し入れ用食料品、日常品を売る商店がある。周辺は住宅街である。何処もほぼ同じ商品揃えである。

 まず、小菅拘置所の面会者用通用門を同行のE氏と共に入って、右手の第一待合室に入る。この待合室にも売店がある。呼び出しを待つ人の人種を私は観察する。家族。社員。友人。そして、このような場所に於いてはどうしても同席が避けられない人達。仲間同士の会話の語調や、容姿で察する事が出来る。“ヤ”のつく人達。

 これから、この拘置所に収監されている、我々の勤めていた会社の経営者に面会をするのである。“面会者”へのルール説明の掲示板がある。「まずは面会の申し込みをするようだね」。すぐにその部屋を出て、目の前にある建物の正面の入口を入る。先ほどの部屋に比べて、暗い。古い博物館か映画館の入場券販売窓口の前に立った様な雰囲気である。葉書をひと回り大きくしたサイズの面会受付用紙を仕切りの内側に控える職員から受け取る。ひとり一枚。会いたい人(収監者)の氏名、貴方のお名前住所、用件、続柄・・・。「さあ、続柄はどうしようか?」と私。「社員で良いじゃないかなあ」。「用件は交渉ではまずいなあ。仕事の相談でいいか」。ちょっとウソをつく。『近況伺い』という項目が用紙に用意されてはいるが、違うだろッ、て気がした。二人揃って申し込み用紙を提出する。二枚を見比べて、「ご一緒ですか?」と訊いてきた。「そうです」と答えて、数字が書かれた1枚のプラスチック札を受け取った。用紙記入は、一枚で良かったのだ。再び最初の待合室に戻って、呼び出しの放送を待つ事になった。

 一定時間を開けて、ほぼ5組単位くらいで番号が放送される。彼らが部屋を出て先ほどの入口に消えていく。何となく今居る自分たちの待つ空間は、“外”という感じがしてきた。小一時間後とうとう我々の握っている番号が放送された。再び、塀の中に今度は、面会者として進んでいくのだ。職員に促され廊下を右に行き、左に曲がった先に関門。ボディー・チェック、持ち物検査(具体性を秘す)。そしてその先でガラスのドアを開けて一旦建物の外に出た。パティオ。葉の生い茂った若い桜の木が植えてある。その先にある建物が、次の待合室になっていた。先ほどに較べ1.5倍の広さ。黙々と、微動もしないでうつむいて座っている人が幾人か居る。強い思いが心に有るのだろうか、会話の内容を組み立てて居るのかもしれない。差し入れ物の検査チェックを受け、職員に引き取ってもらった所で退場していく人も居た。

 番号が呼ばれて、次々と先着者がこの面会室の奥左手の廊下を先に進んでいく。面会の終えた人達とすれ違う。やがて「××さん、いらっしゃいますか?」廊下の右手、職員事務所の仕切り窓が開けられ、ひとりの職員が面会室の人を洗うように眺めてE氏の名前を呼んだ。「何だろう?書式不備か?」二人、席を立って駆け寄るように進む。職員が「本人が面会を拒否しています。残念ですが面会は出来ません」。

 会社で留守番をしている分会メンバーに電話を入れる。「昼間からヤケ酒飲むわけにもいかないね」。二人はノドを潤す気も沸かないまま途中で別れ、私はその日は自宅に戻った。そして次に独りだけの訪問を仕掛けた。2週間ほど後、綾瀬駅を降りてひとりで再び「拘置人」に逢いに行くことに成ったのだ。この間、別のメンバーが面会に訪問しているが、「先着一名に漏れてしまった」事で叶わなかったという。拘置者への面会は一日にひとり。既に面会者がひとり訪れているのである。弁護士は別、基本的に用向きが異なっているのだ。

 私は申し込み開始時間の直後くらいに受付を済ませた。そしてパティオの先、面会前の待合室で再び、“受付番号”が呼び出されるのを待つ。老人がひとり同行者と言うより、そこに居合わせた人たち全員に、聞かせるように喋っている。オイラ前科者ンだ、・・・刑務所暮らしはどうだったとかを独りで喋って居る。「うるさいなあ、ブタ箱ぶち込むぞ」。誰か言って欲しい。

 名前を呼ばれる。また拒否か。「今入浴中なのでもう暫らく待っていて下さい」と告げられ、ホッと光明が射してきた思いになる。少しして、もう一度“名前”が呼ばれた。「本人が面会を拒否しています。本日は面会できません」。先ほどの職員の発言は何だったのだ。彼からの伝言ではなく、本人が入浴中につき、伝達が遅れています、だったのか。

 東京拘置所内当人宛で私は数日後、今度は「速やかに退職金支払いに応じて我々が早く再出発出来るよう心して欲しい」旨を書いた手紙を出す。日を数日置いて、もう一度出す。この手紙は私の許に返却された。「受信人不在につき発信人に返送願います。」と拘置所が附したと思われる紙が着いていた。8月下旬である。裁判が『和解調停』の方向に舵が切られた頃と同期していた。直ちにそのことを皆に知らせた。我々の弁護士D氏の調査で、経営者が高額の保釈保証金を納めて、拘置所を出たということが判明した。


 

お断り

:拘置所の内部及び手続等の解説は、当時私が経験したものを記述したもので、記憶違いが若干あるかもしれませんが確認できません。従って、心ならず創作になっているかもしれません。只今この施設は私が通っていた当時から変貌しています。ウェブ検索のキーワード「東京拘置所 面会」で参照の上ご確認下さい。又、拘置所に裁判未決で居る状況の人に対して、統一した言葉を用いる事はしていません。現場の呼び方、法律用語、一般用語等色々に表現することが在ると想定した為です。写真は、20005年3月はじめ、千代田線車内からの撮影したものです。現在、この『

小菅プリズンホテル』は、今後の収容者増の予想による北館(?)の増築中です。「お客様を多数お待ちしています」か?
   
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 −9− 登場人物を此処で整理して置く。

 ・ A氏 = N〇〇株式会社社員労働組合(分会)が加入した、上部組合副書記長
 ・ B氏 = 刑事被告人F氏)の民事担当代理人弁護士
 ・ C氏 = 社会保険労務士。N〇〇株式会社社員の解雇手続を履行
 ・ D氏 = 分会代理人弁護士
 ・ E氏 = 分会メンバー1
 ・ F氏 = 刑事被告人、N〇〇株式会社社長。

 更に時系列の整理。
 ・ N元年1月1日(時系列の起点日)、N〇〇株式会社社長逮捕
 ・ 同 1月18日、労働組合結成
 ・ 同 1月28日、B氏と第一回団体交渉。東京霞ヶ関『弁護士会館』
 ・ 同 2月 8日、会社業務停止
 ・ 同 2月16日、社員全員の指名解雇
 ・ 同 3月10日頃、『地位不存在請求事件』民事訴訟を受ける
 ・ 同 4月23日、民事裁判第一回公判開かれる
 ・ 同 5月中旬、刑事裁判第一回公判開かれる
 ・ 同 7月中頃から、小菅拘置所にF氏に面会を始める(但し、不可が続く)
 ・ 同 8月下旬、民事裁判は『和解調停』交渉になる

 これも、ねじれ現象と言えるのだろうか。N〇〇株式会社社長、F氏の刑事裁判が始まった。私達が被告となっている民事裁判が『和解』の話し合いにシフトする前、5月中旬に入ってからである。逮捕後4カ月余りが経っていた。この公判を、分会メンバーは傍聴席から“観察”した。場所は同じ東京地方裁判所である。同日開廷こそ無かったが、F氏を軸にした二つの裁判に、私達は同時に関わる事になった。第一回刑事裁判の公判は、多くの分会メンバーが傍聴席に詰めた。裁判長側から見て左側の傍聴席入口ドアを入ってすぐの位置にプレス席があり、我々が入った(小法廷)に約1ダース程の席がある。その奥に3ダース程の一般傍聴席。“Small theater”空間であった。そこで、この配置について私はこう考えた。

 判決が下る。裁判所玄関から息せき切って報道カメラの待ち構える場所で、パッと『勝訴』、或いは『不当判決』の白地の布または紙に墨文字の幕を広げる人。彼が恐らく、プレス席の最もドアに近い場所で腰を浮かせて、法廷の最終章を聞き入っている。手に2つの幕が抱えられている。いなや、さっとドアから飛び出して世紀の判決を、外に伝える正にプレス員である。東京地裁に於いては、六階以上のフロアからエレベーターで下って駆け下りる。昨今は、その時間さえもどかしく、法廷の部屋から飛び出し廊下で携帯電話を使い、空間を飛んで判決結果の幕を用意している人に伝えるかも知れない。「勝った」、「負けた」と声を上げて。

 自分たち社員の上に君臨してきた人物を傍聴席から只黙って見つめる。彼は入廷する時を除き、以後裁判中は常に我々へ背を向けている。痛ましさも、怒りも、情愛の感情も私には沸かなかった。永き収監の期間を経て、顔面は青白く、かつての事業家として、にじみ出ていたオーラは失せていた。そう、彫像を見るかのような、醒めた観賞である。何度目かの公判で、被告人弁護人の被告人への尋問の場面を観た。意外と厳しい。この意義を深く考えた。訊問の内容は当該事件の展開の再現である。被告人が告訴されている犯罪的行為=被害者と取り交わす、契約書や覚書などの作成に到る行為を、むしろ責めている。被告人は、これに何と答えるのだ。弁護人の尋問に彼は答える。すると弁護人は時に、「それは違うでしょう!」と、なじるように迫る。被告人と弁護士との関係は、時にパートナーでは在りえない、クランケ対ドクトルの間柄に近いと私は思った。検事からの尋問に対する機先であるのか、或いは被告人の人格を引き出し導き、裁判官に対する心証を有利に運ぶためか。「包み隠さず、正直に答えます」と言わせる。弁護人の頭脳と、経済犯罪者の頭脳は、時に対峙してしのぎを削る事がある

のだ。 
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 −10−

 分会の闘争テンションは結成当初こそ高い状態が続いていたが、状況が長期化するに従い様々な事情が組織を好ましくない状態に変化させていった。しっかりと分析した上でこれを語ってみたい。

 まず第一に挙げられるのは、組合を結成するに到る前の初動で、N〇〇株式会社には経営者逮捕の時点で、経営を代行しうるナンバーツーの存在が居ないという認識は、殆どの社員が共通して判っていたにも関わらず社員の力を強く結集して会社の存続に真剣に突き進もうとする意識が強く沸きあがっていなかった。唯々諾々と小菅に収監された経営者に伺いを立てていた。経営者逮捕直後の選択肢を、まず疎かに扱ってしまう烏合の衆であった。そして続いて、組合が結成された時点でも、かなり楽観的な見方を分会メンバーが抱いたということ。殆どの社員が初めて体験した突然の会社崩壊で、目の前に現われた谷底を、鋭利な深い視界とは観ないで、すぐに蓋をすればそこを何とか渡って山を越え、新しい道の先に辿り着けるものと思った。“蓋をする”とは退職金の取得である。労働組合の結成も叶えた。経営者に団体交渉で迫り、闘う姿勢で向き合って要求していけば、通る道理と考えて進んでいった。つまり、組合を結成しただけで、退職金要求の団体交渉を進めていけば、道が出来ていくものと、殆ど確信していた。

 もはや退職金取得の闘争である。目指すものを手に入れるために執る対策や行動が、果して有効に打ち出されかつ効果的に現われてくるかが、次の課題になってくる。状況を正確に予測し見通しを立て、変化にも新たな柔軟性を持って事に当っていけるか。これらのテーマ全てを我々分会メンバーがA氏の打ち出すものに従って行動を一にして始めて行った。未経験の組織にはまず止むを得ない状況だったろうか。労働争議のコアにあるものは、いわゆる『団結』と『喧嘩術』である。経営者或いは、会社から放り出されたままで御仕舞いでは、完敗なのである。あるいは、逃げていく相手を捕まえなければ、取れるものも取れない。立ちすくませ、真っ当に退職金を要求して出させなければならない。この喧嘩術を彼A氏が語り、具体的な指示を出して、我々が動いていく。社前集会を開き、社屋に労働争議中であることを知らしめる労働組合旗やスローガンの幕で装飾し、時に相手経営者の、別の場所にあるテリトリー内での示威行為などを打ち出して、喧争宣伝活動を世間に向けて行(おこな)った。

 そこで、二番目に上げるもの、つまり我々がA氏に着いて行った事は、良かったのかという事である。結果的に、我々の組合闘争は長い時間を掛けて解決した。この評価は難しい。1年半を遥かに超える時間を有している。N〇〇株式会社社員だけの闘争であったらどうだったろうか? 組織のメンバー全員を精鋭化させ、違った喧嘩の仕方で闘っていくリーダーが生まれたも知れない。そして、『手作り』の労働組合活動を発明し得たかも知れない。或いは相手から打ちのめされて、何も得ること無く分解してしまったかもしれない。現実の分会活動は、どこかにお仕着せの与えられた労働組合活動になったような気持にさせた。我々分会に対するA氏及び上部組合の存在意義と、ここから打ち出してくる状況対応法や行動手段を指図されて、私はそういう仕切られている気持ちが惹起し、どうしても精一杯心を闘争に傾倒させていけなかった。

 分会と上部組合とのしがらみの問題が出てくるのである。例えば状況の変化に対応して、話し合いが行われて、分会メンバーの意見が出る。その案を取り入れた場合の成果について、確かな保証は勿論無いから意見が纏まらないケースがある。ひとつの具体例として、永い期間の社屋占拠に我々メンバーが相互に協力し合って交代で24時間の“勤務”を追行することが最大の苦痛となっていた。この状況から早く皆が開放されたい。分会メンバーがそれを可能にする案を提出しても、成功するか分からない。そのような時はどうしてもA氏が意見を出す。この際A氏のバックには、自身の提案を実行させるに必要な他のメンバーの動員が可能であるから、結果的にそれが採択されていく。A氏は、「砦を開け渡したら負ける」という。支援メンバーを送り込むことでついに闘争の最後まで社屋占拠は続けることになって行った。

 しかし分会の中に、闘争姿勢の大いなる分裂が発生した。分会活動に対する協力点数制度が導入されていく。ノルマの達成度による解決の際の分配格差を採用しようとしていく動きが出てきたのだ。ノルマとは主に社屋に出てきて“勤務”する事が実績とされるものであった。最早社屋占拠と、法廷で進行するマンスリーな『和解交渉』が経営者側との闘争の姿になっている。勤務を遂行する事にはメンバーの個々人に不利と有利の状況がでてくる。一人身の体と、家庭人との私生活の違いを無視する事は、この組織にとって必要なことである。そのことは頭でわかっても心で納得出来ていけないことはある。失業保険の給付期限が終了した人の中に、最早生活維持のために、アルバイトを始めていくメンバーも出て来てしまった。これらメンバーの状況すら全てが、活動にとっては非協力行為と評価することが正しい事だったのか。

 『和解交渉』の中で我々は、積極的な会社財産の宝探しを行っていく。これは次章に。

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  和解の話し合いをする部屋は、オフィスの打ち合わせや会議を行うなどの部屋と同じだ。約五坪ほど。セミナー会場あるいは会議室で用いる長机が、二つ繋いで一辺とした四角形に置き、一坪強の空間が中に出来る。裁判長が最奥、法廷と同じ配置で左側が会社側、右側に分会側当事者が座った。一辺に4人が座れるから、最大で机を16人が囲むことができる。裁判長の正面の机の前にも、分会メンバーが座る。右側に座った分会側の背後に窓がある。その窓を背にしたソファーにも人が座るほど我々メンバーが出席したこともあった。この和解の席を約1年間ほぼマンスリーで、裁判官がセットした。時前に当事者は先に着席して裁判長が入場するのを待つが、常に原告と被告側が同室して対面するというわけではない。お互いが同席の上で応答する場はこの和解の総時間の、半分にも満たなかった。裁判長が交互に一方の言い分を聞く或いは自分が立てた条件を提示する事があるとき、裁判長に対面しているどちらかの当事者がそれに答える、或いは意見や拒否などの意思を伝える。書面の提出になる事もある。やがて攻守が交代する。外の椅子に、ポツンと座って控える相手に、「どうぞ(そちらの番です)」とか言って入れ替わるのだ。

 この、お互いのすれ違い場面が、私には馴染めない。同席した際の向き合った場面と違って、入れ替わる際相手が、すっと上目を流してくる事がある。この無表情が人間の感情が篭らない人形の目と同じに感じられてならない。原告経営者は既に保釈保証金を差し入れて娑婆に棲んでいる。この和解の後半に幾度か出廷し、部屋の外に控えて代理人弁護士と並んで座っていた事があった。その際偶然に、我々にこの目を向けてきた。相手は、この場に及んでもおいそれと、条件内容を認めることが無かったのだ。和解の部屋で対面する事もあった。唾のひとつも吐いたり或いは、胸倉掴んで吊るし上げたい気になる分会メンバーが出て、紛糾しないものか不安な思いになる。特にA氏がその職業的パフォーマンスでいつ再発の暴言が飛び出すか、皆が心配するという危惧を持った。こちらの発言手は殆どが弁護士D氏だったが、分会委員長と、A氏の発言の機会もあったのだ。流石にここは我らが弁護士・D氏への裁判官の心証は熱いと感じる雰囲気が在った。

 裁判官は、人の子であるのだ。構図的には、我々が退職金の原資となりうる会社資産等を調べて、特に不動産関係の資産を処分して、充当する事を中心に訴えて行き、それが相手の反駁や引き伸ばし手段で帰ってくるという形が続いた。裁判官にとって、じれったい経営者に思えてならなかっただろうと私は思う。我々の努力はある時、海外に不動産資産があることも調べ上げたのである。瑕疵(かし:傷つき)物件であるかの調査、金額価値の評定までも現地の専門家に依頼を出す。これらの調査結果を書類として和解の席に用意していくのである。社屋で会議の折など、その土地に誰か出張させるか話し合ったこともある。労働争議中にこのような用件で海外出張を試みたケースがあっただろうか。法律知識、語学レベルに難があることで流石に渡航の実現にまで至ることは無かった。

 籠城占拠中の社屋に胡散臭い人物が、時に訪問する。

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 会社はオフィス街の一角にある。自社ビルの不動産価値が、億単位の鑑定評価がなされている事も、我々は調査して知った。そしてこれが無傷では無いことも判った。会社経営上、不動産を担保として銀行借入を図る事は珍しい事ではない。従って経営者といえども自分の土地社屋の扱いに何らかの制約を受けている事もある。婚約者のいる娘を持った父親のようだ。「煮ようが、焼こうが親の勝手」とは言えなくなる。相手男性の意向がかなり優先されてくるということである。

 銀行はこの不動産に対して我々の『和解調停』の進行中に、融資の回収を目的として担保不動産の競売手続を東京地裁に出した。法的手続きによる訴状を裁判所は『事件』と称呼して受理する。この銀行の意志は想定される事として、事前に我々はA氏と共に当の銀行へも、面談を申し入れていく。我々の退職金原資として、この不動産物件を考慮に入れるよう依願し、同時に安易な競売手続を取らないよう要求していた。広い意味の権利主張を銀行にぶつけたのである。前後して当該不動産へ退職金保全の為の抵当権設定の登記も行った。競売によって得る銀行の取得金銭から分配を得るため、保険を掛けていくのである。出来る事なら、銀行に対しては、敵対行為を執りたくない、しかし少なくとも牙城となっている社屋建物から、無力に撤退する事はできない。係争の相手、経営者に対抗する為の必須条件なのだ。又、我々の頭の上で競売が成立した後、新しい不動産所有者から退去要請等の新たな告訴を受けたくない。裁判所には、多重に交差する民事上の訴えがこのように幾重にも事件として届けられる。

 この、社屋の不動産競売を巡り、三すくみの現象が生まれた。まず、銀行の立場。銀行の社会的信用が失墜する事を嫌うとする、債権者銀行の配慮と対応がある。銀行が最大に恐れる事は、一般的には悪質な『占拠屋』の強行手段である。今は退職金要求を掲げる労働者が占拠しているが、経営者との和解が粛々と進行しているから、時期が来ればこの状況は霧散する。だから、銀行は我々が社屋占拠しているこの状態を是認する以外にはない。遠巻きに管理の体制をとっている様子が伺えたのである。両者間で、ある範囲の情報の交換も行われた。しかし、銀行は我々の占拠している社屋不動産を競売にかけて行った。我々は銀行の早まった行動(競売)に対し失望の念を抱いた。直ぐに競売参加希望企業が動き出した。彼らが考えなければならない事は色々在る。物件取得後に我々当該不動産を占拠している労働者側と、どの程度の退去費用の提示で折り合いがつけられるのかの問題をかかえるのだ。この労働争議が、いかなる段階にあり、闘争のテンションがどれ程強烈なものか判らなければ、競売物件取得のメリットが得られないかもしれない。更に、この競売物件は外見以上に実質、どのくらいの付加価値を或いは、ダメージ的要素を社屋の中に持っているのか、上ものの建物は、そのまま使えるのか、更地に戻して再構築しなければならないのか?事前に知っておかなければならない。

 そして分会自身の不安感がある。競売の公示がされた後に強行占拠屋の強襲は否定できない。つまり、一種のピケ破り集団。彼らは、競売で物件を得た当事者に無理難題を振ってくる。我々を強行手段で排斥した後、権利者に交渉を仕掛けるはずだ。籠城中最大の緊張が、特に夜間当直者の心に激しく沸いた。と同時に善意の競売参加者の出現を期待する状態でもあった。退職金要求争議が、此処から解決するかもしれない。そして、一縷(いちる)にある期待、新しい雇用の可能性も、無いとは言えないのである。我々を人材として認めてくれたなら。不信な謎電話がある。質問の電話も時々掛かってくるようになった。社屋の周りでそれとなく監視している人物の存在も意識する。単なる別件の無関係な人が、立ち止まっているに過ぎないのかもしれない、或いは、争議を起こしている社屋に対する好奇心で見学をしているだけかもしれない。外の人の気配、物音が籠城中の我々の心理を疑心暗鬼にさせて締め付けた。

 「侵入されて威嚇された段階で、無抵抗の意志を伝えて退去して欲しい」。これがA氏の指示であった。「矢張り、興り得るかもしれない」、と皆はこの想定マニュアルを聞いた。その前後、夜間の当直中にしばしばガラス窓に物がぶつかる音を聞いた。組合旗を縛っているロープが風に吹かれてガラスを叩くのだ。ある晩、ドアがドンドンとノックされた。武器たるものも持てずにドアの外に誰何(すいか)をかける。「俺。帰るのが億劫だから泊めてくれ」。夕方交代して引けたメンバーが、さんざ近くで飲んだ後戻ってきて、こちらの不安をコケにすることもあった。

 昼間。遠巻きの観察に留まらず、正当に用向きを我々に伝えて、来訪するものが居た。我々は条件として1Fフロアの自分たちの行動する場所だけを見て頂くことにして、それ以上のスペースに上げる事はしなかった。又、不動産会社の名詞を出して、自分の社内に於ける不当な扱われ方を喋り続ける30歳くらいの男。「自分も貴方達のように組合に入りたい」。口は深刻だが、目が室内の注意深い観察をやっている。言い訳つけて上のフロアに行きたがっている。「あんた、会社命令で来たんでしょう」。黙ってあしらって置けばよかったが、その言葉で怒ってしまった。これが多勢に無勢でなかったら、どんな反撃をして来たか解ったものではない。

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 和解への階段が次第にステップアップしていき、残りあとわずかという位置まで来ていた。裁判官が原告側に極めて当たり前の勧告を下そうとして行く。「貴方の訴えている、『地位不存在確認請求』とは、従業員の解雇を認めろ、ということですから、相応する解雇手当をどれだけ出そうとしているのかを示さなければいけないでしょう」。と迫っているのだ。我々には、この『和解交渉』が原告経営者と裁判官との綱引き状態に感じられ始めた。

 年が改まりN2年2月に入り、初めて具体的な和解への勧告案が裁判官から出た。原告に退職金満額と和解金5箇月の支払いを提示し、両者に回答を求めた。分会側は、弐もなくこれを了認したが相手はこれを拒否。一応原告側が追い込まれる形が出来たのである。この和解勧告案に我等が代理人弁護士が注釈した。「勿論裁判官は、相手に交渉しているわけでは無いでしょう。和解を長引かせていく原告への心証と、こちら被告側のダメージが此処まで積み重なっていけば、当然これぐらいの提示を出すのだと思います」。

 私は経営者に言ってあげたかった。『法律も、社会的倫理感も、人間性・己の人格までをもこれだけ軽んじていく人間が居るのか。我々分会メンバーが闘争中に行った行為が、そこまで貴方を頑なにさせたのですか? 或いは、お金を出す事がそんなにも嫌なのでしょうか? これではあなた自身が犯したとされている刑事事件の判決が良く見えてきます』、と。

 我々組合は、然るべき不動産を候補として、それを和解金充当債権として譲渡要求案を出した。“ブツ(土地不動産)”でも良いと言ったのだ。これも拒否。この案は原告側が一旦、提案として出したものであったはず。我々がその資産価値を然るべき専門家に依頼して信頼を置いたことを彼は察知したのだ。失うのが惜しくなったのである。7月までもつれた。そして、終局に於いて和解した金額は、当初に裁判官から提示されたものには届かなかった。一括に上部組合の預金口座に振り込まれるものとして、民事裁判は終結となっていく。最後の振込みの確認をもって、エピローグへと行く。この先にある記憶をここに書いていく事自体、私は辛い作業になっていくものと思う。これを描いたのち直ちに忘れたい。

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 最終段階に入った。そして二つの懸念に向けて、分会のメンバーは最後の緊張状態に入っていく。裁判官の提示した和解金額の総額表示に、両者は和解合意をし、調印をもって裁判が終結した。勿論経営者自身が約束した合意である。その約束を彼は守るのか?何らかの引き伸ばし手段を打ち出さないだろうか?まずは、この期日までの緊張である。これまでの分会立ち上げから団体交渉、和解話し合いの永い経緯の中で経営者の執った行動に、どれだけ引きずりまわされてきたか、そして抱いた彼への徹底した不信感を、最後にいたっても捨て切れないで居た。約束された日の払い込みの事実が見られるまで闘いは続いている、という意識を持たなければならない。彼が履行しない時は、強制執行的手段に求める事は殆ど出来ないとA氏は言う。新たに訴訟を起こさなければならない。そうなればまず、何故和解内容を守れないかの審査が行われる。約束と言う言葉は一人一人の心の中では、軽くも重くもなってしまうのだ。人間の心の振幅の、何処まで広大で不可解で暗黒かを知りたければ、このような事態に遭遇すると、良く了解できるはずである。

 受領した“ゲンナマ”の分配は紛糾の上で決着した。第二の懸念は、どれだけ結束の強かったメンバーで構成された組合でも按分の話し合いの過程で殆ど100パーセント起こるという。其の様子は暴行行為、メンバー同士の訴訟、あるいは、横領までも惹起する事があるという。こうなってしまうと、上部組合のA氏がどのように調停の発言をしても、ここからは彼の強制力が可也削がれて、納まる方向にならなかった。闘争の過程でメンバー全てがほぼ一線に並んだテンションで行動していたわけではなかったということで、一律的な分配が出来ないという意見が出た。我々も最終段階で、分配議案を解決しなければならない事態になてしまった。

 我々の退職金要求の争議行動を総括的に述べてみる。まずは労働争議活動を如何に第一優先的に置いて進められたかの点で、メンバーの意思統一が取れなかった事である。ここが大きく乖離した理由にはいくつかの原因を上げる事ができる。闘争活動を継続する事が、夫々のメンバーの生活と著しく共存しがたくなっていった者と、何とか持ちこたえて行った者とに分かれてしまった事である。それから、獲るべき原資をどう捉え、どう手を打って手元に引き寄せていくかの方法の模索、あるいは長期戦に対する厭世観などを持つメンバーが生じて行った事も、メンバー間の意思統一の大きな妨げとなってしまった。その様な事態が想定外の方向で進んで行ったために、分会内部に様々な対応が生じて、意見の対立と不協和音の集団のままの活動となった事。そして、最終段階になって取られた評価方法にも禍根を残すものがあった。それは、それまでの色々な個人の活動については、全てご破算とし、新たな基準を“出勤”のみのポイントとして決められた事である。勿論、出勤率の良い少数のメンバーの意見が強く押し出された。残念なのは彼らが、名前だけ残して殆ど活動に加わってこなかった幾人かのメンバーから、評議裁決の会議の際に、白紙委任状を取り付けて、多数派工作を仕上げていた。

 我々の許に振り込まれた金額を、100パーセント分会メンバー間で争奪したわけでは無い。弁護士費用がある、上部組合の成功報酬的な按分がある。そのために上部組合の存在が有るのだ、それと不動産鑑定調査費や社屋占拠中の光熱費他、生活ライン保持のために借り入れた費用の返済。そこまでは実質的経費となる。そこから、闘争期間中の支援各方面への謝礼がある。この謝礼についても、持って行かれるという印象を強く意識するメンバーが出てくる。自分たちの取り分が減ることになるのだ。分会解散後も、労働運動にそのまま進もうと考える者にとって、謝礼金はその方面への名刺に付く肩書きの効果となる。これらの算定にもメンバー間で紛糾しながらの裁決がとられていったのである。

 和解が済み相手から払い込みが有り、もめた分配にも片がついた後日、N2年8月。分会解散式があった。来賓として、現状で活動中の各組合或いはその分会幹部や、一部労働者救済機関の担当職員、D氏を始め、労働者の人権をバックアップする弁護士数名など多彩な人物にも出席して頂いた。主役である我々分会メンバーは数名。私は次のように発言した。「結成当時こそ、私は勇壮な分会幹部とはなっていたと思います。やがて私には不本意な活動となり、忸怩(じくじ)たる思いの強い経験となってしまったことが残念です、しかし、自分も最初に立ち上げた組合の旗ですから矢張り、これを降ろすことが責任であるとして本日は、やって参りました。この場にいてこそ、この度の争議を終らせることを確認できると思います』 活動中最も勤務態度の良かった最高の受領を得た人物は、出席していなかった。最後の最後でどこかに消えてしまったと言う。彼にとっても厭でならなかった体験だったのか? 分配金を手にして、其のことだけが彼の得た全てだったのだろうか? 更に、結局A氏の顔もその場にみる事はできなかった。

 私は、人の世の人の心の不可解なもの・不条理な事を、この活動期間の終章で視たのだ。

 その席で、弁護士のD氏から、経営者が我々に支払いを済ませたのを待つようにして、刑事裁判の第一審は彼に有罪判決を下したことを聞かされた。もはや『小菅プリズンホテル』の中に彼の部屋はないのである。最終的には、上級審判まで縺れて経済犯罪としては異例の長期懲役刑が確定したことを私は確認しています。  (完) −−2006年1月25日 稿了−− 

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