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『忘れえぬ人・我が心の中の偉人』

   序章

 日本1964年。この年ほど、戦後60年余の今日まで、歴史上日本国民の前に最も希望が現実に具現して輝いた歓喜の年はない。20世紀の、日本の最も偉大な1年だと思う。

 その年から私は、この人物のもとで社員として、約7年間働いた。金儲けが上手い。金がある。人の苦しみに手を差し伸べる。真剣に生きる人を大切にする。だから、自分に負ける人間には厳しい。姑息な人物にはニベもない。身だしなみに気を配るダンディ。女が好き・愛する。組織の中に個性・才能の有る部下が居ればそれを伸ばす為に金を出し、且つその道に話を付けて舞台を作ってあげる。その人の立派な部分を表す言葉は、まだいっぱいあります。このエピソードは、後ほど紹介できると思います。

 既に私の就職先は決っていた。私はホテルマンになるはずだった。この進路は、自分が渇望するほど強いわけではなかったが、折からのオリンピック開催国のホテル業界は、まさに現在のIT産業のもてはやされ方と同じ様相だった。フレッシュマンの適性により、やがて、厨房か、フロントか、はたまた、客室係りか、ベルか、もしかしてブームの後の地獄か、私の社会人人生のスタートが切られる直前、東京に職を持っていた兄の勧めが強くあり、仕事の上で、懇意になった人の経営する会社の門に入って行きました。その人をMr.Lと、これから称させて頂きます。



 女子社員がざわめいていた。社長からラスト・ダンスのパートナーに指名されるのを、会場の隅のあちらこちらで、控えめに、あるいは美しいスタンディングポーズを決めて待っていた。他の男性から誘われたダンスは、早くも記憶から消え、最後の夢のひと時を待っている。最早、ハミングをもらす女性もいた。「♪・・・そして 私のため 残しておいてね 最後の踊りだけは・・・」。或る片隅では幾日も前から頭がいっぱいになっていた女性かもしれない、しり込みをしているのを同僚が背中をしきりに押している。

 アニメーション製作部門を含め、社員は80名はいたろうか、半数の女性がその夜会に輝く自分を夢見て、主催する社長のエスコートを待っていた。少数の、社員にも充分に浸透している取引先の来客を含めて、歳の暮にMr.Lが開催するクリスマスパーティーです。それまで食べた事も無いフランス料理や、シャンペン酒などに夢中になっていた私には、強烈な大人の世界の、刺激的情景として飛び込んできました。セーラー服が頭の中にまだうろちょろ歩いている所へ、突然バーティードレスやイヴニングドレスになっているのだ。私自身充分に上気している。

 その集いはMr.Lの、“Family”のパーティーだったと今は、思っています。企画はその後少しづつ変わっていきました。今は変貌してしまいましたが、旧帝国ホテルの重厚な正面入口から胸を張って足を踏み入れて行くと、クリスマス・ディナーショーのステージがありました。Mr.Lは、儒教の国の人です。更に、アメリカナイズされた教育と生活スタイルを自身に完成させた、クリスチャンでもありました。



 寿退社した女性が、何年か経って会社に顔を出し、Mr.Lに面会して帰られました。今から30年ほど昔の話です。その女性は車椅子に載せられていました。

 或る薬害に罹り、後遺症を生涯に背負い、更に婚家から実家に戻りました。厚生省の救済対応はやはり寒く、通院・難病治療の自己負担が嵩んでいる状況だったので、健康保険被保険者になる道を相談に来たとの事。同僚の誰かが『本人負担だけでなく、会社負担分の保険料も自分で払うから、名目だけでも社員にして欲しい』とのお願いをしたらしい、と言い出した。それが可能なことかどうか私にはわからない。最早老境に差し掛かる親にとっても、必死の生きる道探しだろう事をMr.Lは全て理解したと思う。手を打ちました。

 然る(さる)、気候と空気の良いところ、それ程の著名でも有名でもない土地に、会社の保養所に相応しい物件が見つかりました。かの女性を其処の管理人に就労させ、親子で住まわせたのです。敷地内には、別棟のMr.L宅専用の建物も含まれてはいます。この間の経緯がどのようなものか、私は全く知りません。状況によって、確かに実利的な物を得ているかもしれません。モトを取るとか、この状況に何か得をする部分を別途付帯させたとしても、それは却って『ベストな行動』となりませんか?事を複合的な効果を含めて実現させる。Mr.Lの行動哲学です。親子は、動いたのです。私には、人を救い上げた人物、と言う評価しか出来ません。

 一度、同僚20名ほどで忘年会を此処で開いた時に、行ってきました。その時の楽しい宴を体験した事と共に、この逸話を思い出します。今は弱者から優先して、切り落とす社会です。放り出す事しかしない事が多いのです。Mr.Lの行動を私はもう一度、確信しています。正解でかつエレガントな行為というものは、こういう逸話なのだと。時は多く流れました。今は、かの女性のお気持の中に時がどのように流れたのか、気になって止みません



 『おやじ、涅槃で待つ』と言って若くして命を絶った若者が居ました。世の中にそれ程特異ではない関係の、不幸な事件でした。私は、20歳代の頃、同世代の同性に恋愛対象として、付き合いを求められたり、ある時は手を握られたり頬づりされた事が幾度かあります。20歳代前半の頃の私は、色白でスリムで、今のGackt的なムードを確かに持っていました。

 社内旅行があって、宴もたけなわともなると、その喧騒に嫌悪感が出てくるような私でした。Mr.Lも既に座を外していたので、ごく普段と同じ気持で、彼の部屋に行き挨拶を掛けて入室しました。独りでした、TVを見ていたかと記憶します。会社の業務は、TV業界に関わるものです。こんな時でも、目を仕事に向けながら寛いでいたのでしょうか。一種のイメージングを番組から受けているのです。更に、もっと遅くなってからの時間に、誰かと約束をしてあるお付き合いまでの間(ま)の時間かもしれません。

 さて、入室してしばらく、私もTVに目を向けていましたが、「風呂に入ろう」と言って勧めます。部屋風呂の湯船は男二人は並んで膝を曲げたままで入って居ることになります。私だけが呼吸が荒くなって、流石に沈黙の入浴でした。太ももの外側同士がどうしようもなくて密着していました。

 入社して2年目の春、Mr.Lの命令で、私は某ミッション系大学に第二部学生として入学し、仕事が終ってから通学を始めました。それまでの営業部から内勤に移り、会社の定時にタイムカードを押してから大学に直行する忙しい身となりました。学費は社長持ちです。前期20万円前後、当時の自分の給料の幾倍もの額です。後期の学費は8万円くらいだったか、やはり社長に頂き、支払いを済ませて2学期が始まる前日、喀血して学業を断念せざるを得なくなりました。病気になったのも、私生活での失恋なども誘引しています。もろくも壊れた私の心と身体にいかなる失望をMr.Lは持った事でしょう。私は加年するごとに、Mr.Lの行為の意味を深く考える事になっていきました。事業家としての、更に篤志家の部分の彼について。まだ、結論は出ていません。生涯には答えを出したい、私の命題のひとつであることは確かです。



 たった一駅間ではあったが無防備な現金輸送をしました。金額は40,000,000円。山手線の駅前のBANKから、会社までの一駅の電車移動と、其処からオフィスの入っているビルまで徒歩で戻り、鞄に入れた現金をMr.Lに届ける指令を受けたのです。今の金額価値で数億円となると思う。間違っても裏社会で行われるヤバイ要素は、まったく無い。どんな風に行って帰って来い、とは指示されなかったのでしょう。書類の幾枚かを受け取って帰ってくるのと同じ感覚しか、記憶にありません。勿論鞄の中身がゲンナマであることは解っています。

 大企業の名を笠に着て、或いは下請け分際だからと、立場が有利なだけで人に尊大な態度をとる人間には、絶対に負けたくないという気持がとても強いところがMr.Lにはありました。相手が無理難題を吹っかけ、フン!と鼻で笑って試してきました。その鼻をその時の商談では、見事にへし折る必要が有りました。単なる現金取引とは違うのです。異郷で事業を展開する人は同胞の結束が固い。彼らの社会を想像するに、人間の価値は人間力です。ただ、その一点で大金を融通するのだと思うのです。『何とかかんとか会社』の社長だからではありません。担保は最終的にその人物の力であると思います。人物に融資する。

 戻るまでの間は、流石に社長室で落ち着かなかったと、秘書の女性が笑みを手で隠しながら、耳打ちしてくれましたが、さて未だに解らない事は強盗の類に襲われることか?私がトンズラする事の不安だったのか?どちらの状況がMr.Lの頭にあったのだろうか。そういう事を後で心配するのも、ノー天気な神経なんだと、自分を悟りました。

 気骨と言っていいと思う。心に気骨がある事が見えた時、その人物への評価は躊躇なく見たまま、映ったままをもってストレートに確信する。そして、尊敬し慕い、着いて行きたい。時が今という岸に流れ着くに随い、その心ある人物が次第に失われていくと思います。エセ気骨のポーズは見苦しい。

 −− おや?東洋人(日本人)が生意気に、我々ヨーロツパのハイソな社会で、遊んでいる。一丁恥をかかせて追い出してやろう、と思ったかどうか、ヨーロッパ人の或る海運事業主が接近して行き、その日本人に或る権利を『売ってやろう』と話を持ちかけた。日本人を、地中海リゾート地で見かけることが珍しかった時代の話です。

 金額は、ン十億円。提示の額は、その日本人のカンピューターで査定すると、破格の安さ。その当時の敗戦国日本の外貨準備事情では不可能、の現状もあって、相手がスゴスゴと尻尾巻いて引き下がるとの確信が、その海運事業主にあっての話だったと思う。しかし支払い期限の条件を含めてその日本人はOKと即答し、契約額を瞬く間に配下に用意させ、その“権利”を相手の鼻を見事に明かして手に入れたという痛快物語。そういう話を、雑談で聞いたことがあります。このような人物はやがて豪傑と呼ばれ、伝説の人になって行くのだろうか。

 Mr.Lにも、今の話に似た商談のテンポの良さがありました。共通することは、私には拍手喝采に足る人間、相対峙する人には、油断ならない人物となるでしょうか。ハイエナだ、きつねだ、タヌキだと言わないで、ライオンと言って欲しいと思います。



 警察官の怠慢或いは不祥事も起こる社会です。時に、事件性真っ黒な事でもまるで白(シラ)を切るように、捜査をウヤムヤにして葬っていこうとする。市民を苦しめる事をやってはいけません。では、こんな話もいけませんか?

 所持するだけで犯罪になるものがあります。或いは、風俗を乱す猥褻な物を、営利目的などで所持する場合にも、没収される事が有ります。今は昔。ヘアの解禁前だったと思います。捜査に入り、ブルーフィルムを警察が没収しました。どんな手続をして、それらの証拠品が扱われるか私は知りません。そのブツは警察内部で暫らく留め置かれ、そのブルーフィルムの上映会が中で開かれたと、暴露されました。法に触れるブツですから当然、恥部もあらわな性行為場面が映っていた模様。窮地の答弁に立った警察署幹部が『日活ロマンポルノに毛が生えた程度』の内容だ、と言ったことがありました。可笑しいし、一般人なら“しょっ引かれる”行為にもなりうる事だから、間違っている。不祥事性100%プラス再犯の可能性100%、計200%悪い事です。一時が万事なのです。人間は権限を持つと、何処まで悪用していくか解らない下落した生き物に、まだまだ堕落して行く事『間違いないッ』。

 −−−プロジェクターが『カタカタ』と小さな音を立て、フィルムが回っています。無声もあり、幾巻かはサウンドつきで、あえぎ声も臨場感を盛り上げて、ヤッパすごい。見ているうちに勃ってきて、立てなくなります。営業部長が、「今日ちょっと残っていろ」と耳打ちすると、察しが着いて上映会が開かれます。来客予定有り。早々に差し入れ持って来てくれた方、尊敬します。こういう時こそ時間を守っていただきたい。興奮のるつぼのフルピストン状態の時になって、ドアを来訪の合図あり。其の都度鍵を開けて招き入れに席を離れないといけません。私は新人、『早く、椅子の上にも三年となりたいなァ』

 この男どもの隠微な楽しみのシーンに似合うものが、二つ在ると思う。暗い部屋に立ち上る紫煙が、プロジェクターの強い光の視野にゆらゆらとたなびく様がいい。そして、クライマックスに進むに従い乾いていく喉に、生唾を飲み込む音、あるいは小さな細かい呼吸音。更におまけがついて、画面に食い入る人の頭の影が映ると、「見えないゾ」と声が飛ぶのも、時にその場的で、よかったなあ。

 今、巷の風俗は進化し(どういう意味か?)、個室ビデオルームに独り隠微に浸る事などができます。しかしこれって徹底的に自分をプライバシーの世界に閉じ込めてはいけないような気がする。「あの店の作品一押しだね」、って実際に仲間に“逢って”顔付き合わせて、眼輝かせて情報交換ぐらいして下さいね。かといって集団的に発散しすぎる事件まで行くのも厳禁です。程度をわきまえた、気持がチョット切なくなる位が、一番なのに。仲間とか、ライバルとか、時に、敵などと渾然となって一緒にいる中で、楽しんだり、ムカついたり、照れたりしてやって生きましょうよ、現役時代は。私の若い時代はこうして、Mr.Lの目を盗んで働いていた職場でした。いや、知っています彼だって。社内に小さなシアターがありました。業務の為の部屋で、真面目なものを映します。究極エロス芸術シーンを男ども社員に上映して呉れたのもMr.Lでした。騎上位のフルカラー輸入物の24ミリ大画面、女の黒い肌が開かれていくと、其処は真っ赤な私達、全ての人の故郷でした。私は失神してこの先は見て居られませんでした。ウソです。



 Mr.Lが夕方、何処かに電話を掛け、誰かと逢う約束が出来て、先に会社を出た。暫らくして我々最後の社員数名も引ける段になって、机の上に彼の命綱、鍵の束が置き忘れてあるのを発見した。「おッ、やった!」と叫んだのは、営業部長でした。「おい、酒を飲みに行くぞ」と誘いが掛り、銀座七丁目辺りの裏通りのバーに出向いたのです。其の段階では、部長の魂胆は見えません。「まずは、ビールだぞ」となって、金魚の糞みたいに付いて来た3、4人は、暫らくの間退屈に飲んでいます。部長が時々顔を出している店らしく、マスターと冗談など交わしていたが、頃合の時刻を腕時計が指し始めたのでしょう、電話を借りてMr.Lに連絡をとった。直接だったか、間接で掛け直したろうか何となくシークレツト気味ですが、兎に角Mr.Lが電話に出た。「今、何処其処にいて、〇〇らと飲んでいますが、そちらに持っていきましょうか?」 ← 「イヤ、ソレニハオヨバナイ、スグソッチヘイク」。

 勿論携帯電話の存在が、物理的にも人の頭の中にも無い頃の話。会社トップはイザという時の連絡手段を、幹部社員には知らせてあったものと思われます。ここで私は二つ驚いたのです。Mr.Lは我々のしけ込んだバーにやって来れた。二つ目はそれまでの彼の居場所の謎。時間的に、彼も左程遠くない場所に居た様子。どなたか、専属のナビゲーターを置いているのだろうかと思いました。バーテンに、ブランデーを頼み、部長から鍵を受け取ると一口舐めただけで、ポケットから出した1万円を我々の前に置いて、すぐ出て行ってしまいました。今思うに、時々のチャンスに、この手を営業部長は使っていたかも知れない。やっと今回、ご相伴に自分も預かる事が出来たようです。

 貨幣価値を、最低3倍に見て下さい。1965年、(昭和40年)、誤差+−1年です、間違いないでしょう。♪あとは朧、あとはオボロ〜となるほど飲みました。仲間のひとりは、ウーマンで中途で先に帰り、残り4名ほどは、銀座から杉並方面にTAXYの帰還となりました。(営業部長に少し足がでていたかも)こんな余禄は、幾つも幾つもありました。広告代理店担当者と、会社の配給するTV番組視聴率の賭けをしました。Mr.Lは高め提示。掛け金1万円。使い道は『Ginza KETELLS』、古くから在るドイツ料理レストランの食事です。料金は安くありません。

 結果を、負けて嬉しい真剣勝負だったと、代理店担当者はきっと思ったでしょうか。彼の仕事の成果となったと同時に、結局は料理の席は、割り勘と同じことに成りました。Mr.Lに今度も社員の幾人かが熱帯魚の糞みたいに着きました。一つ覚えの“サー・ロイン・ステーキ”が喰えました。Mr.Lが負けたとしたら、相手の同僚を、幾人かご招待したに違いないと思います、『詫び料込み?』。男と男の付き合いには、エレガントな座の作り方の出来るかどうかが、人物の高尚さになっていくことだと思います。いつも自分が中心に成ってしまう事とは違います。

 商売では、いつも相手の先を行くのがモットーであったと思います。土曜日の半ドンは、日本のビジネス社会では何故か、非能率さを押して永く続いていきますが、Mr.Lは私が入社して2年も経たないうちに、完全週休2日制度を採用しました。取引相手も社員もアッと驚きました。その様な事によって彼は、勝っていけるのです。これは、絶対エレガントな経営哲学だと思います。“エレガント”は彼を呼ぶIDと設定します。只、ひとつだけ私には、当時と今とで全く評価が変わった事があります。それは、次のEpisodeに書きます。



 社員への福利厚生について、Mr.Lの考えはどうだったでしょうか。こんな逸話があります。 −−− 会社からポンと1万円、突然支給がありました。年間で6万円程、私たち社員の不意を突いて出るのです。袋を開けると中から現金1万円と一枚のメッセージが入っています。B6サイズくらいのメモに、お金に託すMr.Lの言葉が書かれていしました。2ヶ月連続の時は、後のほうが5千円になっている事もありました。社員の意識に対する何かコントロール性が有ったと思います、この支給は、其処までの過去1ヶ月間に、有給休暇届の出ている場合を有効(セーフ)として、無遅刻無欠勤者を対象にしていました。

 そのお金に託すMr.Lの気持はどんなものだったでしょう。メモのタイトルは『こころの糧』。自己投資に遣って下さい、という趣旨で毎回ありがたい言葉、逸話、聖書からと思われる引用が書かれていました。パチンコ代に消えてはいけない、飲み屋街の路地裏の嘔吐物になってはいけない、と言っているのです。生活費の足しにしてはいけないの? 私の場合、結果的には、ありがたく頂いた生活費でした。社員はこの金が欲しくて有休を使わない、のではなく遅刻しても事後に、半日有休の届けにしてしまうのです。人間がセコくなってくるのです。Mr.Lの真意が全社員に同等の評価、例えばありがたさで浸透する事はなかったと思います。

 Mr.Lが評価されるに、どうしても正体が判らない部分が、お金に関する彼の哲学です。投資対回収に厳しい人でした。事業家として勿論当たり前の事ですが、妥協のしない部分が普通と少し違います。現在。TVで新番組が始まる前、或いは特別番組の放映に先立ち、出演タレントを別の番組に出して、事前活動をしたり、番組コマーシャルで、盛んに視聴者の頭に詰め込む程のしつこさで前宣伝します。何時の頃からか始まったもので、昔はあまりやらなかたったのです。その代わり、Mr.Lはテレビ局に代わって自前で、自社が配給する番組を巷間に宣伝しました。首都圏に幾箇所、デパートやビルの屋上に話をつけて、番組宣伝のアドバルンを上げさせたのです。其のアイデアにも、関係者はビックリしました。

 会社の営業車の運転手や、アルバイトを使って、アドバルンの上がっている確認を徹底させました。「やっぱ契約をサボッていた処があった」かどうか、私は知りません。この調査は嫌らしい事でしょうか?欠陥自動車がボロボロ出てきた某会社、Mr.Carlos Ghosnに全権を預けるまで、やつれにやつれた体質になつた会社などは、ヒジョーに日本的妥協経営体質・隠匿体質が災いしていた部分が強かったと思います。其れに較べて、きちんとやるのがMr.Lの正しい方法なのです。そこには組織の中での保身や取引先、得意先に対する阿り(おもねり)は在りません。それが、自分の経営する会社の真のクオリティであると信じていたのだと、私は思います。前節で、彼に対する当時と今の評価が変わったと言っていましたが、正確に言うと、彼の行動ばかりを自分がボケッと見ていたことを今しっかりと見つめ直した、との意味になってしまいました、ご了承下さい。

 儒教の国では八と言う数字はとても縁起の良い数字と言われます。車のナンバーなども、この数字のゾロ目のものは、プレミアが付くほどです。私のMr.Lへの回顧も次回が8話目と成ります。そこを最終回とします。彼の許を去る話になると思います。

 行った事の無い亜米利加ラスベガスの話で恐縮です。TVで見た街中の夜回りを仕事にしている人の話です。あの電飾ネオンを見上げて、欠陥を見極めるのです。発見すると、携帯で連絡を執り、さしずめ『やあ、ジョージ。2丁目のエキサイトホールの“パチンコ”の“パ”の字が切れてるぜ、恥ずかしいから早く修理させといてくれ』などとやっています。職業に対する捉え方が、こうである日本になって欲しい。



 Mr.Lの想い出をここまで七話、連続して述べてきましたが、伝える私と読む人で、彼に対する評価が勿論一致していたとは思わない。直接かかわりを持った者が、第三者にそのまま投影させる能力など、人間には在りません。只、具体的なエピソードを、私が思っている以上に、鋭く解釈する読者が居てくれることがあれば、満足です。感情が勝ちすぎて、内容を色づけし過ぎていなかったか、大いに気にしています。

 退社に至るまで、いくつかの恋愛をしました。恋愛の始まりは、自分からの告白やアタックからでした。相手からあったものは駄目でした。性分と言うのが有ったのでしょう。ひとつの恋の終わりも様々でした。総じて、振られ役を演じた事が多かった。失恋をきっかけにして病気になったり、そしてこの度の退社のきっかけとなった恋の痛手まで様々です。実はMr.Lの許で過ごした青春こそ、私の“青の時代”でした。更にその時代は、日本の有史以降の年表に在る、戦国時代の終わりに当てはめる事が出来ます。

 『永すぎた春』がやはりいけなかった。ちょうど会社でMr.Lが展開する事業の中で、彼の最も夢として実現させたかった部門を、業半ばにして閉鎖せざるを得ない状態になったのです。企業家として最も苦しんだ決断だったと思います。希望退職か、部所の移籍かを社員に問うて、その部門は消滅しました。私の恋人はその部所にいて、希望退職の道を取りました。後ろ髪曳かれる想いで、私との恋愛を併せて切りました。私はこれまでもこれからも、恋人のその時の心情を解きたくありません。苦しすぎます。破局した時の私の姿は醜かった。相手に与えた苦痛も小さかろうはずはありません。今でも私自身の痛みに跳ね返って来ます。

 〇〇会社の某が事件。そんな事も想像して、恐ろしくなりました。総務部長に退職願を提出しました。私の直属の上司でもありました。事の顛末は全て吐き出しました。「意志は変わらないのか?」→「はい。」。そして、私の退職願を手にして、社長室に入り暫らくMr.Lと話をしています。賽は投げられた。後悔ではない。岸を離れて流れに乗ってしまったと言う気持でした。やがて総務部長が出てきて、Mr.Lの許に行くよう指示されました。部長席に戻った彼の顔はいくらか赤らんでいた。

 Mr.Lは心から私の退職を留意したと思う。その時点で私はMr.Lが、他の社員に動揺が波及することを恐れている事も、想像した。しかし今思うに、切らざるを得なかった多くの社員を失ったばかりの彼の心の痛みに私は、更に一撃を与えたと思う。彼は私に向き合いたくはなかったのではないか。その席での会話は、本心を述べたものではなかった。失恋で会社なんか辞める自分の言葉など聞かせたくない。翻意してはいけない。その思いがあって、Mr.Lに対する自分の真実の思いとは、逆な発言に終始してしまいました。それまでの彼の許で働いていた事の苦しさなどを並べた。勿論、総務部長の口から正しい状況がMr.Lの耳に入っていることを承知の上で。しかし、その場を最低の場面に自分はしてしまったと思う。彼は最後に私の将来をとても心配していた。固い別れの握手でした。『もう一度あのときに戻る』事が出来れば、いの一番にあのサヨナラの席で、本当の気持をMr.Lに語り直したいと真から思うのです。

  (完)  −−2007年9月30日 稿了−−