鮎釣りの話を語っていこう
    出会い   

私の鮎との出会いは、小学生の頃だ

郷里の静岡県焼津市は、名の響き渡った遠洋漁業屈指の港町だ

今は、この漁業の活況を書くことはない

町の北を瀬戸川が流れている

この川は、港を外れ、直接駿河湾に注いでいる

鮎の稚魚が春過ぎごろから河口で身体を真水に慣らし、そして川の上流に上って行きながら成長する

六月初めになると、体長も大きなものは、15センチほどに成長するだろうか

解禁日となって、鮎師がその鮎を狩るために瀬戸川に入る

釣法はいくつかある

主なものでは友釣りとドブ釣りがあって、記憶にある我が鮎歴はこのドブ釣りから始まる

兄が二人居た

いつも先に川に着いていて、既にドブ釣りを始めている

後れて自分は家を出て川まで走った

河原のあちこちに釣り上げられた鮎が幾匹も、まだ生きていて跳ねていたり横たわっている

着いてまず、ブリキの鮎缶に川の水を入れてそれらの鮎を回収していく

兄たち二人は父親から技術を恐らく伝授されていたかもしれない

しかし、自分にはその記憶は無い

九歳の時、父が他界したことで、自分に鮎釣りを教えてくれたのは次兄だったが、それはずっと後になってからだ

それが何時だったか、驚くほど心もとない記憶なのだ

自分が結婚した後からだったと思う

兄は東京都町田市に住んでいて、神奈川県の酒匂川、相模川に解禁間もないころひとりで最初は通っていた

やがて、毎年シーズン当初のドブ釣りだけではあったが、兄とそれらの川に自分も入って鮎釣りを覚えた

或る年、二人で五十四匹釣って帰ったことがあった

未だに最高記録

やがて、兄が仕事の取引先相手に誘われて友釣りを始めた

なかなか筋がよくて上達したらしい

そして自分も今度は友釣りにも誘われるようになった

釣行先の川も増えて秋川渓谷、更には或る夏は山梨県奥道志川まで釣行に同行した

兄の取引先相手も同行しその人が、奥道志川の主とも言われる人と一緒に釣が出来ると言った

   「くれぐれも、友釣りで釣ってくれ、ドブ釣りは名人に失礼だからご法度だよ」

その日釣りが終えてから、おとり屋にあった公衆電話から、出産が間近で実家に戻っていた妻に電話をいれた

義母がでて、「男の子がうまれたのよ」

第二子誕生を鮎つりの川に居て迎えていたことになる

兄は、自分が後厄の年、43歳のとき、急死した

以来、60歳になるまで、自分の鮎釣りが封印されていた。

    近代鮎釣り   

 鮎釣りは進化した。仕掛けが大きく変っていた。それは、竿と釣り糸に現われた。竿は新素材の開発によって限りなく軽くなり、糸はその部位ごとに特化されて、各々に最適な強さと細さを極めていった。そして、最終的に掛鈎の改良に自分は驚いた。野鮎の体に突き刺さるために最も効率の良いイカリ鈎が友釣りの主流になっていた。三本鈎、又は四本鈎がおとり鮎の尾の先に仕掛けられる。

 ほぼ20年ぶり、鮎にめぐりあって今浦島になった自分は、これら全ての進化の様相に心から驚いた。場所は栃木県鬼怒川が、再開して最初に入った川であった。

 既にかつての技術は失われていた、或いは仕掛け一切無しの徒手空拳だ。全て自分を誘ってくれた同郷の友達に提供されたものを使った。竿も借りたことは無論のこと、おとり鮎に鼻カンを通すことから、掛け針を装着するところまでも。後は・・・この辺に立って、あのあたりまでおとり鮎を泳がせて・・・夢中におとり鮎と竿を操った。その日の釣果は覚えていない。簡単に釣れる訳がない、多分。

 自分は、その友の事を「師匠」と呼ぶ事にした。

 インターネツトのオークションで、自竿を手に入れた。鮎竿は高価だ。10万円くらいまでのものは、普及品という相場である。正規価格7〜8万円だった中古品を、27000円で競り落として手に入れたが、以来その竿を愛してきた。師匠からタモ網と幾らかの小道具を頂いて今でもそれらを使っているが、外にも鮎の友釣りは、色々な装備が必要になる。

 ・ウエア(最低限でウエダーとベスト)
 ・靴
 ・友缶
 ・釣仕掛けとして、糸、ハナカン、鈎など諸々の消耗品

 初期費用は無論のこと、消耗品に係るこれらの金額の調達も、鮎釣りを続ける為に捻出しなければならない。一度の買い物が毎年1万円位いが普通であって、自分はこれを何とか、ネットオークションの中から極力安く手に入れることで身分に相応な出費で凌いでいる。

   釣行記   

 新世紀の、今現在にいたる鮎釣の歴史が始まった。

 その再開初年度は、2004年だったろうか? やはり、確定的に言えない。記録に残る釣行のスナップ写真の中で、最も古いものが2004年9月で記録されている。だからそれ以後の年はありえない。その年は主に那珂川に入った。師匠の車に同乗して国道四号線(日光街道)等を疾走する事3時間。

 関東屈指の鮎釣りのメッカとも言えるこの川は大河である。水際からどれ程流心に近づこうと思っても、せいぜいが川幅の1/5沖におとり鮎を泳がせるのが、せいぜいではなかったろうか。ポイントの移動時には何度も川の中で尻餅をついた。師匠は、自分のために、アタックする川を新たに定めてくれた。

 茨城県久慈川にて(2007年7月28日) 師匠


自分も一見、久慈川の主?


 この日、初めての川・茨城県大子町の久慈川に入る。釣果は自身の“Diary”の記録に7匹とある。その年それまでの二回の釣行は、栃木県那珂川で二回とも釣果なしで経過中だから、大成果である。

 「面白い釣り」を実感した。師匠も、弟子にとってベターな川は、こっちだなと判断してこの釣果であるなら、二人のホーム・?(グラウント?)に定めてくれたようだ。この夏は、8月25日に、師匠の鮎釣り情報探索で得たものを期待して、那珂川に行っている。この那珂川釣行はその後の記憶に無い、もしあったとしても翌年2008年に一度あるかどうか、というものだ。


 以来、三郷又は流山インターから常磐自動車道に入って、那珂インターから降り、国道118号線を含めて片道ほぼ二時間の所要時間をかけ、シーズン期間−−6月初〜9月中旬ころまで、4・5回の久慈川釣行に出ている。運転も担う師匠にとっても、この高速道利用は、時間的にも体力耐久の上でも、パフォーマンスの良い釣行である。全ての経費を折半で出し合って、その額ひとり、5000円前後で一回の釣行を一日楽しんできた。

 2007年度から今年2009年度、降雨が釣りに影響したことは、毎年1回くらいはある。たかが年に片手の指で数える範囲内の釣行であるから、その確率は多いともいえない、少ないともいえない。ただ、日本の雨季シーズンを含む時期の釣行だから、こんなものかという事になるが、その影響の具体的なものには次の二つが在る。

 ・増水濁り・・・特に上から草が根ごとで流れてきて、仕掛けを切られる。おとり鮎もパー
 ・かみなり・・・竿に雷が落ちる危険が高い。

 川の中に居て突然の中断であったり、前日の雨で釣り場に着いた初っ端で入川を断念することになる。近隣の支流に逃れて、何とか竿を入れる事が出来た時もあった。

 河川に生きる自然界の生き物と天候を相手とする勝負だ。これを迎え討つ鮎師の唯一の武器は、技量以外に無い。いかに仕掛け、装束を立派なものに揃えても、川と、鮎に向き合ったときの、正しい対応が出来なければ、釣果は望めない。天候・特に降雨は、川況に影響を多大に与えるがこれは、ある程度事前に現場のおとり屋に連絡を入れることによって、対策は執る事が出来る。しかし、ひとたび川におとり鮎を放てば全身全霊が、潜む鮎との合戦体勢でさまざまな状況に即対応で迎う事になる。

 師匠が自分に伝授した鮎釣三箇条がある

 
一に場所、二にオトリ、三に腕

 一に場所というのは、場所の選定も探視眼が養成されなければならないこと。鮎がそこに居る事を看破するのだ。二にオトリとは、操縦する事であるからこれも生半(なまなか)な気持ちで操れていくものではない。つまり、全てが技量を備えていかなければならない。これらを理屈としてしか捉えていなかったのか。

 精神論で鮎は釣れるか? つまり、心の持ち様が大切か?

 今年の都合四回の釣りの成績は散々だった。釣れた鮎は、思い出して数えると総数6匹。何がいけなかったのか? 圧倒的な敗北である。その上、最後の一泊釣行二日目の9月19日。愛竿の第三番を最後になって、納竿時にタオルで水切りをしている時折ってしまった。文筆家が、もう書くことをしなくなった時に、筆を折ると言うが自分は不本意にも竿を折ってしまった。これほど自己嫌悪に堕ちた無様さを仕出かすことは珍しい。すごい精神の未熟。鮎釣りの神の存在をふと察した。

 「なあお前、鮎釣りを止めなさい」

   鈴木屋旅館の事   

 過去に師匠は、郷里の叔父さんが茨城県に住んでいる事から、シーズン中一回か二回、途中で合流して一泊二日の釣行をして来た。この釣行にはもうひとり、その叔父さんの八十歳を超えてなお軒昂なお兄さんが田舎から駆けつけて、釣暦を組んでいたという。2008年7月25・26日にそのご兄弟二人と師匠の釣行に自分も同伴させて頂けた。釣り場で足手まといにだけはならない−−常識的な釣仲間に加えられたようだ。

 茨城の叔父さんは、幾年もこの釣行の他にも、茨城・栃木の流域にシーズン中、我々の幾倍もの回数を踏んで鮎釣りをしているという。巧い。匠の域にいっている。師匠にとってもこの叔父さんと肩を並べた鮎師になるべく、常に切磋琢磨して来たと自分は察している。この叔父さんを自分は大師匠と心に思っていて、目標と置く二人目の鮎師にしている。お兄さんの方は、「釣り時々酒」の豪快な自然との調和で川に立ち、木陰で休みながら、まるで仙人のような風格で釣を楽しむ様子が観られた。

 自分がこの人たち、師匠・大師匠・仙人と共に初日の釣を終えて泊まる宿は、それまでのお三人方にとっては既に定宿としている処だった。これまでの釣行の幾つもの記憶に残る想い出の中でも、傑出して楽しかった時間を、この宿で送った。どうしても宿でのくつろぎについて書かなければ、この『鮎釣紀行』を終える事が出来ない。



 この旅館の所在は、最寄のJR線の駅は水郡線・下野宮駅である。駅前通りを少しだけ(50メートル程)歩いたところにある。この宿のある地域は、最早奥久慈川流域を臨む山里にも近い静かな田舎町と言っていいだろう。

 『鈴木屋旅館』

 この水郡線は、茨城県水戸駅と福島県郡山駅間をつなぐ単線鉄道で、自分はこの路線は未だ利用したことはないのだが、車で川筋の道を走っていると、川をウネウネと縫うように鉄橋が架かっているのを見ることが出来る。釣り場から時々この線を走る電車を観ると、なんとカラフルな車体なんだ。まるで派手派手衣装の厚化粧女、と連想してしまう。勿論最大オーバーな表現で言っている。だからこの電車の存在は、「渓谷の川」と形容できる久慈川を車窓から眼下に眺める乗客のロマンを乗せて走り、川に居る鮎師には、ひと時の色彩の切換で目を休める光景にはなっていると表現できる。

 鈴木屋旅館のご亭主は、まるで役者も兼ねているかと思える色男とみた。「静かなる主人」だ。夕餉を食堂で摂りながら、我々四人は、その日の反省会もする。四方山話もする。酒を酌み交わし、快い酔いのうちに騒がない程度の盛り上がりで、同宿のほかの人と同時に寛ぐ。

 この時間に暮れ行く山里の冷気を朧に意識している自分。その雰囲気が最高の居心地の良さなのだ。

 釣師の朝は、他の宿泊客が食堂に下りてくる頃には、釣り場に向かって車を走らせている。夕餉も朝の食事もこの旅館のご夫婦が厨房で一緒になって作る。リゾート地の宿で出される華麗な食事ではなく、日常の家庭で食べる食事をいくらかおご馳走的に揃えたものを、上げ膳下げ膳で頂く事が出来る。

 営業でこの地に来た際に定宿としている人、ハイキングの初日を終えた若い人達、鉄路や送電線のメンテナンスで一定の工期の間に滞在する工事マンなど、これはリピーターというよりも固定客と呼んでいい人たちとして利用する。従ってごく当たり前になじみの客と、女将さんも一緒になっての寛ぎの会話で楽しいひと時が出来上がるのだと思う。

 今年は、鮎師4人組で7月16日に一度この宿の宿泊が叶い、もう一度は9月18日に、大師匠のお兄さん(仙人)の代わりに、自分も面識のある師匠の職場仲間だった人が参加した四人でお世話になった。この人の事をなんと呼ぼうか? 鮎師ではない。旅情を求めた風もあるのだから、さすらい人でいいのかも。このさすらい人の旅情は満たされたか? 後日逢う機会も持てると思うので、その機に訊いてみよう。

 さて、宿泊を重ねるたびに何かがひとつづつ、丁寧に布に畳まれて心身に仕舞われていく気がしている。今年のそれは、釣果の結果の無念さを癒してくれる、なだらかな「忘却の念」であるようだ。

 師匠も、大師匠も、仙人だって自分が来年も鮎つりに同行する、とキット思っているだろう。では・・・白波四人男は悪党どもだったかな?我々遊び人たちは、モットもまともな久慈川に入る鮎師を期して、『久慈川四人男』と自分は密かに名付けよう。久慈川もその川に棲む鮎たちも歓迎してくれ。

 現時点で、ここまでを我が鮎釣行記として語った。  2009年9月30日  美 竿 ・・・ 執筆了

  礼儀と考え、鈴木屋旅館の住所等を記しておく。


 鈴木屋旅館

 茨城県久慈郡大子町下野宮2252
 電話:0295−72−0458